第五章 カイツ商会

 宿のオーナーに外出の旨を伝えたが、その折に少女も同伴することも伝えると、宿のオーナーを大いに驚かせた。まだ病み上がりですから、決して無理させませんように、と釘をさすオーナーに見送られてホテルを出て俺たちは、昨日通った検問所のほうへ足を向ける。

 検問所のすぐ近くには観光客を乗せるための馬車が何台も待機しており、キャビンに繋がれている馬が大儀そうに始終あくびをしている。その馬車に乗り、街の中心部へと向かうのだ。

 時刻も時刻なだけに、まともな馬車は全て駆り出されていて、残っているのは馬車といってもそれは名ばかりな粗野なものばかりであった。粗板で作られた張りぼての揺りかごをキャビンに見立てて、妙にたわんだ心許ない四つ足の車輪にいい加減なネジ付けされているのを見ると、途中で外れたりしないかといささか不安に駆られる思いである。とはいえ、徒歩で中心部まで目指そうものなら陽も暮れかねず、仕方なく俺たちは馬車に乗るのだった。

 乗り心地は言うにおよばず、タイヤの空気が少ないせいか、小きざみに震えて道の調子によっては大きく跳ねる車体は、何度も身体を容赦なく打ちつけた。つけ方が甘くうまく回らない車輪は、ときおり道をけずる耳障りな音を立てて、道と耳を痛烈に引き裂いた。

 当然、街並みを眺める余裕などなく、降りる頃にはひどい耳鳴りとあちこちと打ち付けられて痛む身体がおまけされたのだから、いよいよたまらない。料金は通常の馬車に比べて安値なのがせめてもの救いであるが、これならば、徒歩の方がいくぶんにもマシというものである。

 俺たちは手ひどい馬車のマッサージにくたくたになりながらも街の中心部へむかって進んでいくと、中心部に近づくにつれ、まわりの様子が徐々に活気づいてきた。

 露店がちらほらと見えるようになってきたかと思うと、だんだんと人の往来も著しくなり、気がついたころには、有象無象の人ごみのなかである。大勢の人々は、道を覆うほど立ち並ぶ無数の屋台や露店のあいだをいったりきたりと、波のように満ち引きを繰り返しながら流れていく。

 ここまでくると喧騒もいっそうひとしおで、露店で吠えるように客引きをする若者や、かたや、店の主と根切をかけて激しい論判を演じる者たち、露店に掲示されているアクセサリや、屋台の珍しい食べ物を見て興奮ぎみに声を弾ませる者もいる。

 隅のほうに佇んでいる酒場の集まる周辺のほうへ視線を転じれば、いかがわしい格好でキャッチをする女や、道行く男どもにしなだれかかって、甘い不純な情事をささやく娼婦の姿もみえる。はては、紅の差した酔っぱらいの血気盛ん啞冒険者たちが、団子になって拳をふりまわしているのを、品のない野次馬どもがそれらを囲繞してしきりに口汚く野次をとばしている。

 俺はこうしたやかましい光景に心が湧いてくる気がしないでもなかった。治安としてはそれほどいいものでもないだろうが、この街の者たちのあふれんばかりの生に対する能動的な精力が、この喧騒にみずみずしい活力を与えているのだ。そういう活気のみなぎるガヤに当てられていると、一人旅でささくれだった荒涼たる心持ちも、なんだか潤うような気がしてくるのである。

 いっぽう少女のほうでも、この人だかりの海嘯を嫌がるといった風もなく、過ぎ去っていく露店のアクセサリーや小さな調度品などを興味深そうに流し見ている。どうかすると、足を止め、手に触れてあちこち見回して嘆息の声を漏らすことさえあった。

 さて、馬車の多難な旅もあって少し疲れていた俺は、露店でアクセサリーを物色する少女に、屋台で軽い食事を取ることを提案し、昼食をこしらえることとなった。ちょうど目の前に、買い食いするにおあつらえ向きの屋台がある。

 屋台には、羊の腸に肉を詰めて焼いたものや、それをパンに挟んだものといった、手軽に食べられるものが売られている。また、人魚の味噌煮や、リザードマンのしっぽ焼き、ドラゴンの兜煮といった珍味も取り扱っているのだからおもしろい。

 さんざん悩んだあげく、結局、俺たちは無難であろうその腸に肉詰めした棒のようなものを二本買うことで落ち着いた。銀貨四枚を屋台のおっさんに渡して、棒状の肉を二本受け取り、一本を少女に差しだした。が、受け取ろうとせず、懐から銀貨二枚を取り出すと、俺の鼻先に突き出した。どうも屋台の料金を肩代わりされたのが気に食わなかったらしい。とはいったものの、歳も一回り以上違う者に代金を要求するのもひどく憚られるし、たかが銀貨二枚のことである。

 そう少女に告げると、彼女は苦りきった顔をつくって思いあぐねていたが、俺に引く気がないことを悟ったのか、しぶしぶ肉棒を受け取った。

 こうして俺たちは肉棒を手に、再び目的地に足を向けたのだ。

「この棒切れのような肉はおいしいね。なんていう食べ物なの?」

 少女は道中で、めずらしく興奮ぎみに訊ねてきたので、

「なんでもソーセージ、というものらしい。さっき屋台のおっさんがいっていた」

「へぇ。こんな濃厚な味のする肉もあるんだね。初めて見たよ」

 少女はかじったソーセージを額の前にかざして、うっとりしたよう眼でソーセージを見た。

「だいたいいつもそこらへんで狩った魔物の肉を血抜きして適当に食ってただけだからなぁ。こんなにおいしいものがあるのなら、これからこういう街で寝泊まりするのも悪くないかも」

「じゃあ君はいつも野宿なのか」

「そうだよ。お金もあまり無駄にしたくないし」

 少女はそう答えると、またソーセージをせっせと頬張った。

「お金の無駄って……そんなに金に困ってるのか? 服も小綺麗にしている感じだし、それに普段からああして金をねこばばしてるんだろ? そんなに金に困ってるようには見えないけど」

 俺が質問を投げかけると、少女はいやそうに眉をひそめ、いくらか憤った様子で、

「人をコソ泥みたいにいうのはやめて。あれは私を襲ってきたことへの慰謝料をもらっただけだよ」

 少女は非難のいろをして、ソーセージを一息に食べてしまうと、

「だいたいあんたと一緒にしないでよ。女性にとって身なりに気を配るなんて当たり前でしょう?」

「しかし、それじゃ本末転倒じゃないか。いくら綺麗に繕ったって野宿してたんじゃ……」

「私だって好きこのんで野宿がしたいわけじゃない」

 少女のおもてに一瞬かすかな翳りがさした。が、すぐに何でもない顔色にもどり、

「でも、宿屋にお金を使うよりも服や装飾品にお金を使った方が有意義だと思うの。というかそれ以外には極力使いたくないの」

「服や装飾品? ああ、防具やアクセサリのことか? たしかに旅において身を守ることは、生存率に直結するもんな。旅をちゃんと心得てるじゃないか」

「全然違う」

 少女は言下にぴしゃりと打ち消し、翳りのあるもの憂い顔で嘆息すると、

「防具や戦闘用のアクセサリなんてむさくるしいだけで全然綺麗じゃないでしょう? そんなものは着けないよ。私が言っているのはもっときらびやかなドレスだったりとか、意匠を凝らした美しい装飾品のこと」

「はあ」

 思いがけない返答に、俺は呆気に取られた。それらのものは、俺にとっておよそ縁のないものだからだ。

 どうりで少女が露店のアクセサリーなどに目移りするわけである。どうやらこの娘は、アクセサリーや服といった、身を飾る小道具にめっぽう眼がないようである。

「あんたも少しは気を使った方がいいよ。ただでさえ、品がない風貌なんだからもう少し着飾った方がいい」

 俺はすこしむっとして、一つ反駁してやろうと思ったが、少女の指摘に対して口惜しいが一言もなかったのである。彼女ほどの美貌を俺は持っていないのだ。

「悪かったな、品がなくて。だが、余計なお世話だ。だいたい俺がそんなものを身に着けて旅をした日にゃ、一日で服が魔物の返り血でいっぱいになるだろうしな。装飾品も血で錆まみれさ。この前だって小さな村の依頼を請け負った時、報酬のおまけに、ってもらった綺麗な真鍮のアクセサリーだって一週間もしないうちに、ものの見事に錆びついちまってさ。せっかく村長の奥さんからもらった大切な品だったのに、なんだか申し訳ないことをしたよ。それ以降、そういうものは身に着けないようにしてるんだ」

「はぁ。ちなみにそのアクセサリはどうしたの? 捨てたとか?」

「まさか。捨てるわけないだろう。せっかくのもらい物だし」

 俺は道具袋をまさぐって、ある小さな袋を取り出すと、それを少女に差し出した。少女は不思議そうにそれを受け取ると、袋の緒をといて、中身を取り出した。少女の人差し指と親指に摘ままれて出てきたのは、腐食のいちじるしいネックレスである。腐食が進んでいるせいで、元の輝きは見る影もなく、暗緑色に染まっていた。

 少女は痛ましいものを見るような眼つきで、錆びついたネックレスを掌にのせて、

「うわ、これはひどい。ちゃんと手入れしないからだよ。手入れをすればまだまだ使えたのに」

 少女は極めつけるような調子で言ってから、ふと何かに気づいたように目を見開いて

「あ、しかもこれ、魔力が込められてる」

「え、魔力? どういうこと?」

「つまり、ちゃんとした効能もあるってことだよ。本当に優しい魔法、これは守護の法だね、珍しい」

 少女はどこかまぶしいものを見るような眼をして、口に軽く横手に添え、無言のもと吟味するような仕草をしばらく見せたのち、本当に惜しいことをした、と嘆くように息を漏らした。小さく首を振り、静かに錆びたネックレスを袋に戻した。

「これ、本当に高いものなのに。それにこれは……まったくどうしてこんな……」

 少女は悲痛にくれながらネックレスの入った袋を両手に抱えて、顔をわずかに伏せて胸に押し当てた。その様子があまりに深刻に心を痛めている様子だったため、

「そんなに高価なものだったのか?」

「ええ、あんたのせいで台無しだけれどね。あぁ、私がもらってさえいればこんな憂き目にあわずにすんだのに」

「そんなにいうならそのネックレス、あげようか? 俺が持っててもいっそう台無しにしてしまうだけだろうし」

 少女は弾かれたように顔をあげて、きっと俺をにらんで何か言おうと口を開きかけたが、すぐに思い直したように目を瞑り、

「わかった、じゃあそうする」

 と、少女は短く答え、小さな袋を自身のポケットへと仕舞った。

 それからあとが大変だった。少女は、いかにアクセサリが人の心そのものであるかを延々と俺に語って聞かせるのである。

 アクセサリを作る者がどのような思いでアクセサリを加工するか、アクセサリを贈る者がどのような願いを込めて相手に贈るか、アクセサリとは人の想いであり、願いであり、心そのものなのだ、というようなことを、服装とアクセサリへのこだわりと熱意をまじえて、懇々と聞かされるはめになったのだ。

 少女のねつい語りが一巡半もすると、街の中心へかなり近づいている頃合いだった。

 街の中心に近づくにつれ、周囲の光景はだんだんと物々しくなっていく。市場の喧騒はしだいに遠のき、いれかわりに、商会の厳めしい自警団の顔がいくらか目につくようになる。彼らは俺たちの姿に惹かれるように、こちらをじっと見つめて強い警戒の色をあらわにしている。もし人を視線で焼くことが出来たのなら、俺たちはきっと消し炭になっていることだろう。

 ここを訪れるものは、その大半が外来から交易を申し出にくる商人であり、俺たちのような粗忽な冒険者などは、まず足を踏み入れることがないからである。現に、まわりを歩く者はみな、重々しい荷物を背負っていたり、荷馬車を引いていたりと、なにかと商人の風体である。そのような中で、得体のしれぬうだつの上がらない中年男性が少女を連れ歩いているのだから、自警団のやつらに緊張がみなぎりわたるのも無理ならぬことだろう。

 自警団のいたたまれない視線を受けつつも、ようやく中心地である商会の根城にたどり着いた。

 根城であると表現したが、この荘厳なる佇まいを見るに、それはあながち間違いではなかった。何故といって、彼らの本拠地は本当に城なのである。

 大きさでいえば、王都のものより大分と小さいらしいが、それでも迫るような気品ある厳粛とした城門を見ただけで、この城の大きさが並ならぬことが窺われる。きれいに敷き詰められた石畳を挟むように、よく手入れされた生垣が整列している。奥の方には円形の大きな噴水が、絶えまなく水を宙へと投げかけて弧を描いており、それを囲むように赤バラの花壇が置かれている。これだけでも思わず嘆息が漏れてしまうほど美しいものだが、ここからでは肝心の城の全貌を拝むことはできない。されど、わずかに見える城の出で立ちから察するに、さぞかし立派な姿なのであろう。

 このシュタットは、カイツ商会が仕切る以前は、周囲の環境のせいで、ゴーストタウン同然に廃れきっていたのだ。ここに住む者はごく少数で、とうぜん、街を統治していたこの城も、きれいさっぱりもぬけの殻で、過去の栄光を物語るばかりの儚い代物になっていたのを、そこへしめたとばかりにカイツの大親父がやってきて、城へ腰を落として街を牛耳ったという具合なのだ。

 それが五年ほど前の出来事だとかで、そうした大出世者にはとかくこころよく思わない者が出てくるものだが、そいつらは口さがなく、やれあいつは金の亡者だの、それ金のためなら何でもする大悪党だの、なかには、戦争の首謀者はカイツの大親父であり、全てはここを乗っ取るためにかねてより一計を案じていたのだ、などという噴飯物の醜聞まで触れ回っていだ。この立派な城を見事にせしめたのだから、嫉妬の声が上がるというのはさもあるべくことであろう。

 さて、この気位の高い城に対して見事に不釣り合いな俺たちは、さっそく門番である自警団の心ない声掛けを受けるのだった。だが、自警団の男の執拗な面罵を無視して、依頼証を提示してやると、いかにも恨めしそうに顔をしかめ、憎々し気に中へと連れられるのだった。

 実のところ、俺もこの城の敷居をまたぐのは初めてなのだ。というのも、依頼を受けた経緯というのが、これまた奇怪なものだった。

 いつだったか俺があの中心街の隅に佇んでいる酒場で、質の悪い麦芽酒を舐めていた折のこと、突然、隣にたまたま居合わせた冒険者の男と連れ合いとが、なにやら言い争いになっていた。あまり物々しい言い争いだったため、俺が仲裁のために割って入ったところ、どういう話の接ぎ穂かは忘れたが、この依頼を譲渡されることになったのだ。俺も酒に酔っていたし、いくらか気が大きくなって大見栄を切ってのことだろうが、今思えば、すぐにでも、この依頼を突き返せばよかったと後悔している。

 さて、城門をくぐると、城門の外に漂っていた砂埃の古い匂いはなくなり、石の濡れたような独特な冷たい匂いと、生垣の青い匂いとが鼻をつついた。

 見上げれば絶景で、思った通り、品格のある厳格な城がそびえている。城は砂埃ですこし煤けた城門とは違い、石の白きがはっきりとわかるほどに美しい体裁をたもっていた。城の頭部に添えられた色彩に富む立派なステンドグラスが、城の外観にきらびやかな色調を与え、ひときわ荘厳さを引き締めている。

 あと少しで、あの立派な城へと足を踏み入れるのかと心を躍らせたが、自警団に連れられたのは、庭のすみにある小さなガゼボであった。城の立派な佇まいとは裏腹に、ガゼボはひどく粗削りされており、造りも見るからに雑であった。備えつけの古びたテーブルやイスも投げ出されたかのようになっている。

「お前たちごときが城に入れると思うなよ、痴れ者が」

 と、いうようなことを自警団の男が吐き捨てると、ここで座って待つように付け加えて去っていった。

「まったくひどい扱いだね。何様なの、あいつらは」

 少女は憤ったような声の色で文句を言い、近くのイスをたぐり寄せて腰をおろす。

「ここらでは一番大きい商会といっても過言じゃないからな。そりゃ威張り散らしたくもなるだろう。誰もかれもみな、カイツ商会には頭が上がらないらしい」

 散らかったテーブルやイスを適当に整えてから、俺もイスに腰をおちつけた。が、ギシギシとイスが嫌に軋む音がして、思わず腰を浮かした。客人にあてがう椅子として、これはいささかどうなのだろうか。

「たかが商売がうまくいっただけでしょ? それがどうしてああも人を尊大にさせるのか」

「そういうのはままあることだろ。今に始まったことじゃない。それにカイツ商会は……ここではあまり大きい声で言えないが、あまり評判もよろしくない」

「それは私も知ってるよ。悪い噂はよく耳にするし」

 とかく、分限者には敵が多くあらぬうわさも流れるとは言ったものの、一概にすべてが誤りというわけでもなかった。よその交易人に対しても、法外な価格を要求したり、無理難題な交易条件を提示したりと、足元を見るような汚いやり口は茶飯事であるというのだ。

 もともと、戦争以前もここが流通の要であったこともあり、交易人も流通の要をおさえているカイツ商会の不興をこうむることを、できるだけ避けたいのである。ここがダメになると、あとは過酷なガイ峠道か、魔物の巣窟であるワクナ渓谷を超えるしかすべがない。したがってカイツ商会の横暴もまたひとしおなのだ。

 それ以上、話をするでもなくイスを揺らして暇を持て余していると、その御仁――カイツの大親父はやってきた。カイツの大親父なる男は、まさに絵に描いたような成り上がりの金持ちであった。

 歳は四十ぐらいだろうか、頭はつるりと剃りあげられ、しわの刻まれたおでこにはべっとりと汗で脂ぎっている。顔つきはわりと精悍なほうであるが、目じりや口端といった何気ないところに、どことなく品性をそこなういやらしさをおびている。

 屈強というほどではないが、それなりに恰幅のよい身体つきをしているのは、泥臭い商売上がりたるであろうが、最近はあまり身体を動かしていないと見えて、腹回りに生活の甘さと年齢の衰えが出ている。しかし、その甘い腹回りに締まりのある身体つきが、いやに男臭く卑猥な精力を発散している。

 彼はけばけばしい金刺繍の入った豪奢なガウンを身にまとい、太い猪首には金のネックレスが首輪のようにまかれている。ロールパンのように肥えた指のいくつかにも、これ見よがしな輝かしい宝石をこさえていたが、指輪のほうはもたいへん窮屈そうである。

 大親父は俺たちを見るなり、

「ほお、いい女を連れとるな。どこへ手に入れた? まさか、俺への手土産か?」

 と、薄ら笑いを浮かべて、少女の隣にあるイスにどしりと座った。彼は少女の肩にいやしく手をまわして、顔を寄せて彼女の髪の匂いを嗅ぐ。その躊躇のない無礼な動作に、俺は腹に底から湧き上がる憤りを覚えずにはいられなかった。ところが、少女はとくに意を介さぬ様子で、黙って大親父のなすがままにされている。

「こりゃあ、たまらんなぁ。おい、お前。こっちを向かんか」

 大親父は、俺などには一切わき目を振らず、少女の肩をねっとりとした手つきで撫でたり、内ももをさすったりしている。男のあさましい情欲をまんべんに湛えた彼の顔に、これが理性を捨てて劣情に溺れて、邪欲に身を任せた者の末路かと思うと、胸の奥がぐっと冷える思いで、およそ見ていられなかった。

 少女も少女で顔にひとつとて嫌な感情を出すことなく、それどころか、

「カイツの大親父様、そういうお戯れは、またあとでにしてくださいな。私たちがここへ来た理由はご存じなのでしょう?」

 肩に回された手を大親父の膝元へ静かに押しかえすと、嫣然と愛嬌を振りまくのだった。これが齢にして十三、四がこなせる処世術なのだろうか。少女の言葉遣いといい、立ち振る舞いといい、そこには一切如才がなかった。まるでこれまで経験してきたうちのひとつにすぎぬように、洗練された抜かりのない所作である。

 本来は大人である俺がこの助平親父を窘めねばならないはずであるのに、なんと恥ずべき事であろうか。

 面目の次第もなく、その光景を直視することがひどく忍びなかった俺は、たまらずさっと顔を伏せた。

「ああ、そうだったの。すまんすまん。あまりにいい別嬪だったんでな、ついつい調子づいてしもうた。しかし……わしが依頼したのはこんな男じゃったかな? もう少し骨のある男だった気がするんじゃが……はて、こんな粗忽者じゃったろうかのお……まあ、男の顔なんざ覚えたところで詮ないことじゃて」

 大親父は盛大に笑い飛ばすと、ほれ顔をあげい、と俺に投げかけ、

「なぁに、気にすることはない。わしのようなええ男を前にすりゃあ落ち込む気持ちもわかるがの。とにかく顔をあげにゃ話もできんぞ」

 また立派な腹をゆすって豪快に笑うのだった。俺はしぶしぶ頭をあげて

「はあ、ええ、まあそうですね。えっと、お初にお目にかかります、カイツ様。今回の依頼の件ですがね、実はこの件、俺が受けたものではありません。この依頼はですね――」

 ここまで口にして俺ははっとした。俺は依頼をもらった者の名前を知らないのだ。それどころか、どのような風貌であったかも、酒のせいでほとんどよく覚えていないのだ。

 とたんにしどろもどろする俺に、大親父は初めは目を丸くしていたが、あまりに要領を得ない内容に業を煮えてきたらしく、だんだんと大親父の雲行きが怪しくなってくる。

「なんじゃ、さっきから何をごにょごにょ話しとる。もっとしっかりしゃべらんか! かっ、見た目だけでなく中身も矮小だったとはのう。同じ男として恥ずかしいわい。……それで、ようはわしが依頼をした奴は、実はただの見掛けだましのぼんくらで、たまたまそこに居合わせたお前に、なんやかんやで、この依頼を丸投げしたっちゅうことじゃな。ふん、どいつもこいつも男の風上にも置けん奴らじゃて。ふん、まあそんなことはどうでもええ。誰であろうが、あのくそ忌々しい森の掃除さえしてくれりゃなんでもええわい。それで、鎮魂の森の化け物はどうなったんじゃ」

 さきほど少女を見ていただらしない眼とは一転、ギラリと脂の浮いた凶暴な目つきで俺を睨む。その貫禄たるや、なるほどさすがこの辺りを取り仕切る商会の長である。

「ああ、いや、えっと、おそらく、倒せたかと思うんですが……」

「どっちじゃ! 倒せたんか、まだのさばっとるんか! はっきりせい」

 大親父はきらぎらとした眼をあやしく血走らせて極めつけると、身を乗り出して俺に詰め寄る。大親父の酒気の混じった荒い鼻息が、俺の鼻頭を何度もつつく。

 まんべんに酒を注ぐ大親父の様相は、さながら血にのぼせてあちこちの田畑へ捨て身をなげうつ、怒り狂った大イノシシのようであった。大イノシシの顔はもう眉の先まで迫り、もしテーブルを挟んでいなければ、俺などとうに弾き飛ばされていただろう。

「大親父様、どうか落ち着いてください。あの魔物は私たちが退治いたしましたので、ご安心ください」

 と、助け船を出してくれたのは、大イノシシの隣で涼しい顔をしていた少女だった。

「それは本当か!」

 大イノシシはぎょっとして目を見張り、今度は少女の眼前へと顔を突っ込んだ。

「ええ、本当ですとも。大親父様の依頼はしっかりと完遂いたしましたよ」

「ほほぉ、さすがわしの見込んだ女じゃ。一目見たときから只者ではないと思うておったが、まさか器量だけでなく胆力も兼ね添えておるとは」

 大親父に怒りに燃え上がっていた顔は、また違った熱を帯びはじめ、興奮気味に鼻息を荒くして、野性的な淫らな眼の色で少女の頬を撫でまわす。

 少女は自分の頬を撫でている大親父の手に、つと手を重ねると、しなをつくって微笑むと、

「それで大親父様、報酬の件ですが……」

 と、囁いて目配せした。大親父は、およそ似つかぬ猫なで声で、

「わかっとるわかっとる。ようやったのぉ。まあ待っとれ、褒美はきっとすぐに取らす……じゃが、その前に」

 少女へ耳打ちすると、大親父は耳を食むかというほどまで顔を寄せ、少女の蝋のように白い脚へするりと手を伸ばす。若さの誉れをたたえる、張りのある水をも弾かんばかりのつやつやした肌に、情欲を帯びた薄汚い大親父の節くれだった指先が嫌らしく這うている。ごつごつとした硬い指先であるのに、つぅーと膝頭から膝元へつたり、太ももへ沿うてから内ももへともぐりこむその仕草は、水面から波紋を残さず飛び立つ水鳥よりもまだしなやかであった。俺のことなどお構いなしに、内ももへ反された大親父の水鳥よりも軽やかな太い指は、じわりじわりと内ももを縫うて、はては、ワンピースの裾のうちまで忍び込む。

 しかし、寸でのところで、少女は卑しい水鳥の首根っこ掴むと、きりりと締め上げて大親父の目の前へ突き出し、

「報酬が先ですよ。大親父様、男なら約束の一つや二つ、しっかりと守ることなんて易いことでしょう?」

 と、少女は詰るような口調で訊ねるが、大親父は別段悪びれることなく、顔色一つかえずに、

「なぁに、当然じゃ。ちょっとおふざけが過ぎただけじゃて。かっかっか」

 締め上げられた手首を軽く振り払ってから、後ろを振り返っておい、とイノシシの雄たけびのような胴間声で叫ぶ。それから間を開かずして、二人の女中らしき者が、せっせこと如何にもらしい宝箱を二人がかりで抱えて運んできた。女中の手によってテーブルの上に鈍い音を立てて鎮座した重々しい宝箱は、大親父によって、大親父より肥えたその口を開かれる。俺はあとにも先にも、これほどの金貨をお目にかかることはもうないだろう。宝箱が口を開けたとたん、金貨の数枚のよだれがテーブルを滴り、宝箱の口内は金貨といわず、宝石といわず、装飾品といわず、金目のものと称される物すべてが、小山となって盛られていた。

 驚きのあまりに、おもわず目を丸くして少女と顔を見合わせる。これは依頼証に記載されていた報酬額よりも、明らかに多い。

「これは……ちょっと……」

 俺は嘆息するように言葉を漏らして、大親父の顔をうかがうと、

「なんじゃ? この金額じゃ不満か? かっかっか。お前も存外太い男じゃの……」

「あ、いや! そうではなくて。これはちょっと多すぎやしませんか?」

 大親父が両手を打って女中を呼ぼうとするのを、あわてて制した。

 大親父の酷評もさることながら、大親父の羽振りのよさというのもまた、衆口で多く取り沙汰にされており、それがこと女性に及ぼうものなら、ことさら顕著になるとまでいわれている。

 今、目の前にふんぞり返っている肥えた宝箱がそうであるといえるだろうか。少女にたいして色を付けたか、あるいは少女を買うための金か。……

 いやいや、たとえそうであったとしても、やりすぎである。ざっと目算しても、これだけあればちょっとした辺鄙な領土であれば国から買うことが出来ると思われる。そのような大金をたかが森の魔物一匹に出すとは到底思えない。ことにそれが商人であるならなおさらである。

 商人というものは、とかく利益を重んずるものであり、自身の益なくして出資などするわけがない。それはとりもなおさず、これほどの大金を叩いても構わないほどの利益を得られる好機があるということだ。これを要するに、この大金にはなにか裏があるとみてまず間違いない。

 やはり少女の身柄だろうか。いや、それは考えにくい。なにせ大親父はこの場へ来るまで、少女のことについては何も知らないはずなのだ。知りもしない女にこれほどの大金を準備させておくわけもない。

 そうなると、ますます思惑があるとしか考えられず、それもこの男にこれほどの大金を叩かせるとびきり面倒な事案に違いない。

 大親父は俺の困惑に気づいたのか、山のようなこんもりとした腹をゆすって笑う。

「かっかっか。多すぎということはないじゃろう。少なくともあの辛気臭い森の魔物を倒したのはお前たちが初めてなんじゃから。もうあの魔物に頭を抱えんですむのは大きに助かる。なにせ、あの森を突っ切るのが、交易ルートの最短かつ最も効率的じゃからな。……あの腹立たしい化け物が出てから三年間、まったくもって商売上がったりじゃったわ。鎮魂の森が使えんとなると今度はあの山道を迂回せにゃならん。時間もかかる上に、路面の状況も最悪で、商品に傷はつくは人員は割かれるわでなんのうま味もない。酷いときは利益に足が出ることさえあった」

 長年の鬱憤からか大親父はみるみるうちに気色ばんだ様子となり、身体をわなわなと震わせ、拳は白くなるほど強く握られている。

「討伐依頼をかけても、募った冒険者どもは総じてまったく駄目の皮。何をやっても徒労が増えるだけ、しまいにゃ嘘を言って大金だけせしめようとする屑まで現れる始末で、ほとほとうんざりしておった」

 大親父の怒りの色がふいに冷めたかと思うと、憂いに褪せた色が注がれる。だが、彼の目には一種異様な妖しい輝きがかげろうていた。

「とにかく、晴れて不安の芽がまた一つ摘まれたわけじゃな。これでうまい酒と別嬪がおりゃ、なおよしじゃがな」

 大親父は膝を打って笑い飛ばすと、ガウンの内側をまさぐって、わりと使い込まれた銀のスキットルを取り出し、乱暴に蓋を開けて勢いよく呷る。

 盛大に呷ったせいか、あふれた酒が口の端からこぼれだし、顎をつたってぼたぼたと垂れた汚らわしい雫が、テーブルに下品な水垂れ模様を描いている。あんな小さな経口のスキットルで、どうやったらそこまでこぼれるのだろうか。

 大親父は傾けたスキットルから口を離すと、ファーをあしらった立派な袖口でよごれた口を拭い、淫蕩とした表情で恍惚たるため息をついた。酒にのぼせた男臭い息がふいに鼻を突き、思わず顔をしかめる。

 それを横目で見ていた少女が、どうにもしびれを切らしたらしく、小さく息をついて

「それで、この大金はどうすれば頂けるのですか? 回りくどいのはよしましょう、大親父様。それとも本当にこの金で私を買うおつもり?」

 と、いくらか苛立った声色で口を出した。

「かっかっか。いくらわしが女が好きとはいえこれほどの大金は叩かんわい。これはちゃんとした報酬じゃよ。ちゃんとした、な」

「また、ご冗談を」

 少女は媚びを含んだ仕草を崩さぬものの、大親父に向ける目は鋭利な刃物のように鋭かった。

「冗談などではないがな。ただまあ……」

 大親父は何かを言いかけると、突如として、なにかしら異様な邪気をはらんだ凶悪な光が彼の眼にまたたいた。

「お前たちのご多分にもれず、裏はもちろんある。なぁに、そう身構えんでもよい。なにも取って食おうというわけではない。ただわしは取引がしたいだけじゃて」

 大親父はにかっと笑いかけるも、俺はその笑顔に孕んだ尋常ならざる嫌な予感を覚え、胸が警鐘を鳴らし、背筋に妙な冷たい悪寒が走り去る。

 大親父はギラギラとした鋭い眼光で俺たちを見つめると、

「なぁに、それほど難しいことはない。この金をくれてやるかわりに、一つわしの依頼を受けていただきたいだけのことじゃ」

 大親父はまた大仰にスキットルを呷った。雨どいにあふれた雨水がこぼれ出すように、ぼたぼたと酒が滴り落ちる。

「……依頼の内容とはいったい何でしょうか」

 俺が恐る恐る問うと、

「むろん、例の渓谷のことじゃ」

 と、大親父は悪態をつくような口調で吐き捨てた。

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