第四章 少女

「調子はどう? ぐっすり眠れたか?」

 ぼんやりと窓の外をながめている少女に声を掛けると、少女はぎょっとして弾かれたようにこちらを見て、目を見張ったが、すぐに姿勢を正して、

「ええ、とってもね」

 どこかするどい調子のこもった声である。

「助けてくれてありがとう。本当にいい迷惑だったよ。まったく余計なお世話だ」

「余計なお世話って……目の前で倒れられたんじゃ、助けないと目覚めが悪いだろ? それにあんなところで倒れていたんじゃ、今頃死霊に肉体をひん剥かれておっんじまってるところだ。お礼の言葉ぐらいあってもいいだろ?」

「でも私は頼んでない。あんたが勝手にやったんだ。お礼を言うつもりはない」

「えらく嫌われたもんだな」

 俺は軽く顔を振ってみせて、

「何か気に障ることしたか?」

 少女は俺の問いに答えるつもりはなく、鉄のように冷たくかたい顔をふっとそらして、ふたたび窓の外を見た。

 なんだかバツの悪い沈黙が落ちこんできたが、ほどなくして、料理を持ってきた宿のオーナーが部屋に入ってきて、沈黙が破られる。

「どうですか? お気分は」

 宿のオーナーはまんまるの顔にいっぱいの愛嬌を浮かべて、少女に声を掛ける。

 さすがの鉄で出来た少女の表情も、宿のオーナーの歓待を不愛想を振りまいてふいにするのは憚られたようで、

「……はい、だいぶ良くなりました」

 と、いくらかぎこちない様子で答えた。

「この旅人さんからお聞きましたわ。なんでもあの剣のせいでお倒れになったとか……ああ、もう本当に」

 俺は長くなるであろう宿のオーナーの言葉を制して

「まあまあ、その話はまた今度にしましょう。それより、この前の件なんだけど……あ、それより、君、そういえばまだ名前を聞いてなかったね。名前はなんていうの?」

 と、彼女に問いかけるも、

「名前……」

 少女の顔に一瞬、険悪な色がにじんだが、すぐに取り澄ました顔にもどって、

「それを聞くなら、まずあんたの名前を教えてよ」

「いや……俺の名前は、君も知っての通り、覚えてないんだ。だから答えようがない」

「なら私もあなたに教える必要はないね」

「そんなこと言わずに……こうして助けてあげたわけだし」

「だから、私は頼んでいない」

 少女は切り口上に答えると、表情をまた鋼鉄のように硬くして、そっぽを向いたきり、口を閉ざしてしまった。鉄は熱いうちに打たねばと思って切り出したのに、こと交渉術に関してはなのが情けない。

 またも気まずい沈黙が落ち込んできて、たまりかねた宿のオーナーが沈黙を破るように、

「ともかく、お食事を召しあがりくださいまし。早くしないと冷めてしまいますわ」

 料理を乗せた銀トレイをベットの脇にある、小さな丸テーブルの上に置いた。トレイの上には、オートミールの入った木製の皿に、これまた質素な木製のスプーンが添えられており、オートミールからはほんのりと湯気が立っている。オートミールはミルクで煮込まれており、上には細かく刻まれたフルーツが、品よくちりばめられている。

「おなかすいているでしょう。簡単なものですが、とにかくお食べください」

「あ……ありがとうございます」

 少女は横目で小さく頭を下げると、そっぽを向いたまま、おもむろに木皿とスプーンを手に取って、オートミールに口をつける。オートミールの味が気に入ったのだろう、少女の固かった表情がほのかに柔らかくなった。

「旅人さん方にどのようなご事情があったかは存じ上げませんが、せめてお話だけでも……」

 宿のオーナーは俺と少女の顔を見比べたのち、少女の顔色をうかがうようにのぞきこむ。

 少女はそれには答えず、眉をひそめて気難しい色でオートミールをすすっている。

 やがて、オートミールを食べ終わると、少女は宿のオーナーの方へと向きなおり、

「ごちそうさまでした。おいしかったです。いろいろとありがとうございました」

 今度は丁寧に頭を下げてお礼し、今度は俺の方を向いて、

「あんたもありがとう。助けられたのは事実だし、お礼をしないっていうのも……教えに反するから礼はいう」

 宿のオーナーはお粗末様でした、と笑顔で愁眉を開くと、また何かありましたらいつでもお申し付けくださいまし、と付け加え、盆を下げて部屋から引き下がっていった。

 少女は宿のオーナーの背中を見送ってから、

「それで、この前の件っていうのは?」

 と、少し険のある表情でたずねてくる。どうも口を利きたくないのは変わらずらしい。

「あ、いや、別に今すぐ話をしたいわけじゃないんだ。君も疲れているだろう? またあとでも構わない」

「いや、いい。私もあんたに聞きたいことがあるから」

「そうか。わかった。それじゃあ聞くけど、あの時のこと、詳しく教えてくれないか? 君はあの女に対して、こうやって人を食い物にしてきたんだな、とか言っていたけれど、あの女とは知り合いなのか?」

「あの女?」

 少女はわずかに眉をひそめて、少し考えこむと、

「ああ、なるほど」

 やがて、なにか思いついたように、

「あんたには女に見えてたんだね。ちなみに、周りの風景はどんな感じだったか覚えてる?」

「え? あ、ああ。周りがぐにゃぐにゃに捻じれてたみたいに歪んでたよ。ありゃどこぞで見た教会の地獄模様の壁画さながらだったね」

 少女は眉を曇らせてまた考え込んでから、

「あんた、本当に記憶がないんだよね?」

 と、問うので、俺はもちろんだと即答した。

 そのとき、少女の顔にふとなにかしら一種ためらう色が差しこんだ。が、すぐに澄ました表情の底へ沈んでいった。

「あの時、これは魔法だって言ったでしょう? あの魔法は人の記憶に干渉するもので、人の記憶や心にあるもっとも醜い部分を顕在化する魔法なんだよ」

 少女は俺の顔を探るような眼で見たのち、また言葉を継いだ。

「つまり、あの時あんたが見た物は、あんたが一番見たくないもの、目を背けたい事実、なんらかの罪の意識、強烈なトラウマ、そんな感じなものだよ」

 俺はぎょっとして少女を穴が開くほど見つめ、

「……ということは、あれは俺のなかの……うしろ暗い部分だっていうことなのか?」

 しゃがれた喉の痰を切りながら、そうたずねると、少女は眼をそらすことなく、静かにうなずいた。

 あれが俺のなかに巣くう暗部というのか。

 俺はあの地獄模様のおぞましい風景を脳裏に思い出した。

 引き裂かれる森の木々、捻じれてゆく薄暗い月明かり、そして冷たい微笑みを浮かべるあの不気味な女、あれらがすべて俺の心に潜む闇なのだろうか。

 俺は狂気じみた気味の悪い悪寒を感じて、思わずぶるっと身震いする。

「じゃあなにか。君には違って見えたっていうのか? 君にはいったい何が見えたっていうんだ?」

 俺はこの質問をしてから、まずいと思ったが、口を突いて出てしまった言葉を消し去るすべなどなかった。

 問いを受けた少女は青白い顔をして、まなじりが裂けんばかりに目を見張り、わなわなと両の拳を震わせ、ベットのシーツを揉みくちゃにした。

「いや、すまない。つい売り言葉に買い言葉ってな具合で聞いてしまっただけだ。気にしないでくれ」

「私が見たのは、あの日、父が殺された光景だよ」

 少女は言下にきっぱりと答えた。その顔は無表情を取り繕うものの、わずかに強張っている。

「まんま同じ光景だったよ。父が差されたあの光景。そして、私の目の前に現れたのは……」

 そこまで言ったきり少女は口をつぐみ、一種異様な光を灯した赤い眼でじっと俺を見る。その顔はあまりに残忍に歪んでいて、俺は冷たい戦慄が背筋を這いのぼるのを抑えることが出来なかった。

「だから、あんたが見た女とやらは、私は見ていない。私が見たものはまた別物」

 少女はもう元の冷たい鉄面皮にもどっている。

「それで……まあ、恥ずかしながら気が動転してた私は、いきなりあんたが肩に手を掛けるもんだから、咄嗟にああしてしまったわけ。ごめんなさいね」

「ああ、いや、それについては特に気にしてない。よくある事だしな。それはそうと、俺たちにそんな幻術まがいな魔法を使ったのは一体何者なんだ? それにあの砂のかたまり……」

「そんなの言うまでもなく、あんたが探してた魔物だよ。たまに出るんだよ、ああいう場所では。たまりにたまった怨念が募って生まれる化け物が。そして、そいつらは決まって下種な魔法を使うんだ。今回のやつはさらにたちが悪かった。トラウマを追体験させて、人から負の感情を吸い取ってどんどん肥大していく。そして、心が耐え切れなくなって壊れたら、あとは魔力の養分にするんだ。もちろん殺すんじゃない、どこかに保管して死なない程度に魔力を吸い取っていくんだよ。そうやってして、あいつらはどんどんと人間を食い物にしていくんだ。ちなみにあんたも、あのまま突っ込んでたら、まちがいなくそうなったろうね。あんたが見た地獄とやらはまだまだ序の口だよ」

 少女は憎々しげに吐き捨てた。

 ではあの女はあの場にいたわけではなく、俺の心の闇が見せた幻影だったのか、あるいは、闇そのものか。そして、あの場にもし少女がいなければ、俺は永久にあの惨たらしい夢幻境に囚われ、心が息絶えるまで悪夢の追憶を輪廻していたのだろうか。

 俺は何かしら得体のしれないおぞましさと底しれぬ嫌悪感に、全身の肌が粟立つのを禁ずることができなかった。

「なら、俺もまた君に助けられていたわけだな。ありがとう」

 俺はしゃがれた声でお礼を言って、頭を下げた。少女は思いがけずきょとんとした目で俺を見ると、

「……礼なんて言われる筋合いはない。ただたんに現れた魔物を倒しただけなんだから」

 と、伏し眼がちに俺を疎まし気に睨んでから、すぅっとまた真顔にかえって、

「それにしても、あの剣は一体何なの? 私はあの時、たしかに結構魔力を使ったけれど、それでもまだ有り余っていたほうなんだよ。それがあんな一瞬で吸い尽くされるなんて、とっさに手を離さなかったら私は死んでたよ」

「あれはそういう剣なんだ。特殊な耐性がないと、ああして瞬く間に魔力を持っていかれるんだ。なんか昔は吸魂の剣なんて呼ばれて祠に封印されてたとか。あと……そうそう。昔は勇者が使っていたなんて言われていたらしいぞ。まったく眉唾物だけどな、ま、どういう因果にしろ今は俺の手にあるわけだ。記憶が戻ればこいつとの邂逅もわかるかもな」

「その剣ははじめから持っていの?」

「いや、そうなんだけど……もしかしたら、そうじゃないかもしれない」

「どういうこと?」

「ああ、というのも俺が気がついた時、この剣にひどくべっとりと血糊がついていたんだ。それも柄までぐっしょりと。それに俺の手には、まだその剣で誰かを突き刺した感触が残っていたんだよ。だからもしかしたら、この剣は誰かから奪ったものなのかもしれないし、単純にこの剣で誰かを刺殺しただけなのかもしれない」

「でも、そんな剣を扱える人間なんて、そう多くはないと思うけれど?」

 少女が俺の眼を覗き込むようにして見ている。

「ははは、まさか俺がこの剣の持ち主であるユウシャサマだとでも言いたいのか? そりゃ無理な話さ。なにしろその時、勇者は王都で凱旋していたんだから。そこらじゅう号外の嵐だったろう?」

「でもそれって……」

 少女はそこで何かを言いかけたが、急に思い直したように首を振ると、

「ええ、そうだね。たしかにあんたみたいなおじさんがかの栄えある輝かしい勇者様なわけない、か。私としたことがばかばかしい憶測をしたよ」

「ともかくこの剣には、安易に触れないことだ。俺のような耐性のない奴が持つと死にかねないからな」

「特殊な耐性って、あの無駄に多いスキルがどうのこうのっていう?」

「ああ、まあそんな感じだ」

 少女はどこか呆然とした顔で、俺に流し目をくれてから、

「即死や呪術に耐性はあるのに、幻術に耐性がないなんておかしな話だね」

 小さくため息を吐いて、窓の外へと視線を投げかける。

 その時だった。

 俺はある名状しがたい異様な既視感めいたものが脳裏をよぎった。それから脳裏の奥にまばゆい白光が広がり、奥に人物のような像が浮かびあがる。が、像はおぼろげに揺らいでいて、それが誰なのか皆目わからない。が、その像が脳裏に描かれた瞬間、激しい悪寒に身震いし、全身の肌が粟断つように慄然としたのだ。

 額からべっとりとした気持ちの悪い汗がどっとにじみ出る。

 少女はちらりと俺の方を見たが、俺のただならぬ様子にぎょっとして目を見張り、

「ちょっとどうしたの? 顔、真っ青だよ」

 と、懸念の色をあらわにした。

「いや、なんでもない」

 そういう声も、しゃがれていた。なぜ、自分でもこうなっているのかよくわからないが、そこにはなにかしら得も言われぬ不快感と、今すぐどこかへ逃げ去りたいという拒絶的な衝動が、それを抑えつける理性とが激しく内訌し、肺を押しつぶすような感じだった。

 のっぴきならない俺の様子を見かねたらしく、少女は俺に部屋へ戻るよう強く促すので、俺は少女の部屋を出ると、重い足取りで自分の部屋へと戻った。

 ところが部屋へ戻ってみると、不思議なことに先ほど胸につっかえていた重苦しいものがさっと消え失せたのである。

 けれど身心に押し寄せる徒労感が抜けることはなく、強烈な睡魔となって俺の意識を奪い去っていく。俺は恍惚にも似たぼんやりとした心持ちで寝具に突っ伏し、間もなくまどろみに落ちた。

 次に目が覚めたのは、太陽がてっぺんから少し傾きを見せてきた午下の頃おいだった。これほどに寝つけたのはいつ以来だろうか。いまだ夢の逢瀬に酔った明瞭としない意識で、窓を開いてみると、久しくもあり、新鮮でもあるからっとした秋先の心地よい風が顔を打った。由緒ある栄華の昔をふくむシュタットの街並みは、今昔の風流にいくらか匂う素晴らしい景観をしている。新しく建てならぶ華やかな家屋たちのなかで、ひっそりと佇む古めかしい風情ある建屋が絶妙な風流を落としこみ、眺める者をしてそぞろ郷愁の念を感ぜしめるのだった。

 外の風にあたってぼんやりと街を眺めていた折から、ドアを軽くたたく音がした。はい、と生返事をしてから、ドアを開けて出てきたのは宿のオーナーだった。両手に昼食のサンドイッチを乗せたトレイを持って、ずかずかと遠慮なしに部屋へと入ってくる。

「おはようございます。といってももうお昼過ぎですけれど。大分とお疲れのようでしたのね」

「ええ、まあ」

「それで、あの……あのお嬢さんは?」

 宿のオーナーは丸テーブルにトレイを置くと、浮かない顔で俺をじっと見る。おそらく少女のことについて、大分とご執心の様子なのだろう。あの後のことが気になって仕方ないようだ。

「ああ、それなら心配にはおよびませんよ。もともと怪我のたぐいではありませんでしたから。それに話もできましたし」

「まあ! それならよかったですわ」

 出し抜けに宿のオーナーの表情が晴れやかになった。

「本当、私、心配でしたのよ。ほら、あの子ぐらいの年頃でしょう? いろいろと悩み多い時期だというのに、それなのに身一つで旅だなんて……。もう、心配で心配で。私にもね、娘が二人おりますの。今はもうどちらも奉公に出て、ここにはおりませんが……。まあそれですから、よけい心配なんです」

 宿のオーナーは瞳を湿らして、しきりにハンカチを目じりに押し当てている。この年代になると、やはり涙もろくもなるのだろうが、それにしても表情がサイコロのようにころころと変わる忙しい人である。

 ここで、少女の身の上も明かしてしまおうかと悩んだものの、それは止しておいた。少女にしても、そう易々と言い触れられたのでは気分も悪かろう。

「まあまあ、彼女に何があったかは知りませんが、とにかく何事もなくてよかったですな。彼女の今後についてはまた話し合うとして、俺はこれから依頼主のところへ行って、説明しないといけないので。これをいただいたら少し失礼しますね」

「あら、そうですの! 何時ごろお帰りになられますの?」

 宿のオーナーはもうすでに、けろっとしている。この婦人の表情を務める面皮は、まこと多忙である。

「それほど長居するわけでもないので、夕食までには」

 テーブルに置かれたサンドイッチを、立ったまま頬張りながら返事をすると、宿のオーナーは思い出したように、

「ああ、そうそう。あのお嬢さん、旅人さんが起きたら部屋へ来るよう伝えてほしいと言伝を預かっておりましたの。というわけで、外出の際はお立ち寄りくださいますよう、お願いいたしますね」

 宿のオーナーはにこやかに部屋を出て行こうとしたが、ドアの前まで来ると、突然、くるりとこちらを振り向いてから、難しい顔で、旅人さんはもう少し発言も身だしなみも慎みを持つように心掛けた方がいい、と言うようなことを付け加えて、小走りに部屋を出て行った。

 サンドイッチを食べ終わって、洗面台の前まで行き、鏡を見る。無精ひげの生え散らかしただらしない中年の男が、鏡を介してこちらを見ている。

 ひげは鼻から口まで多い、もみあげにまで及んでいる。皮脂でべっとりしたつやのない長髪は肩下までだらしなく垂れ、目元には歳の錆と言わんばかりの小じわが刻まれ、目はどんよりと暗く濁っている。頬はやせこけて気味悪くくぼんでそそけだっており、つぶれた鼻には、長年の末にこびりついた天井の汚れのような小さなシミが、いくつも浮かんでいる。この中年のごときは、まるで生きようとする気概も意志も感ぜられず、生命の活力を根こそぎそがれて倦みつかれた世捨て人か、世を儚んで身を投げんと心に期する者にしか見えない。

 どうりで、どの宿も俺の受け入れを渋るわけである。これでは客間で首を吊るであろうことを容易に想像させてしまう。このホテルも当初は俺を受け入れることにたいそう逡巡していたのだ。それでも部屋を貸してくれた宿のオーナーには、まったく頭が上がらない。そんな彼女の言うことなのだから、少しは聞き入れてもばちは当たるまい。

 俺は生え散らかったひげをあたって、両手に水をためて顔に数回打ち付けた。髪もここで切ろうかと悩んだが、部屋が汚れるだろうと思い、外で切ることにした。

 剣や金といったかんたんな手荷物をたずさえて部屋を出、階段を降りていくと、部屋のドアへ後ろ手にもたれ掛かっている少女が見えた。少女は俺の姿を見るなり、にわかに驚いて大きく目を見張った。

「その顔、どうしたの?」

「ああ、これか。ひげを剃ったんだ。身だしなみはしっかりしたほうがいいってオーナーがな」

「いや、そうじゃなくて……なんで顔じゅう傷だらけなの」

 少女は顔を強張らせて、いやいやするように小首を振る。

「あっはっは。ひげを剃るのには慣れてなくてね」

「慣れてないっていう域じゃないよ……ここなんて皮まで削いでるし」

「いやぁ、手頃な刃物がなかったもんだから、剣を使ってひげ剃ってたんだけど、ちょっと手元が狂ってさ」

 それを聞いた少女は愕然として顔をゆがませ、呆れたように眼をほそめて、

「手頃な刃物って、剃刀ぐらい借りたらよかったでしょう」

「かみそり? それってなんだ」

「うそでしょう? あんた、剃刀を知らないの?」

 少女の顔は水面に消え入らんとするうたかたのスライムでも見るような、深い憐みの色をたたえている。

それから少女は、おもむろに俺の口元へと右手をかざした。すると、淡い光がぽつりと少女の掌に灯り、その暖かな淡い光で俺の顔をなでる。

「これでマシになったでしょ」

 俺はきょとんとして口元を触ってみると、不思議なことに先ほどの傷がきれいさっぱり消えていた。

「何を驚いているの? 魔法が使えるんだから、回復魔法だって使えて当然でしょ? っていうかあんな傷だらけで痛くなかったの?」

 少女は眉を曇らせて首を少し傾げてみせる。それから、すぐに神妙な顔になって、、

「それはさておき、カイツ商会のところに行くんだよね? 私も連れてって」

「え、なぜカイツ商会のことを?」

「だいたいわかるよ、そんなこと。あんたの見せてくれた討伐依頼書に捺してあったあの印章、カイツ商会のものだったし。彼らの根城はシュタットであるこの街だし」

「はあ、よく知ってたね。まだ――」

「子供じゃないから」

 少女は俺が言い終わる前にきっぱり一蹴すると、

「とにかく、わたしも連れて行ってほしい」

「いや、それはちょっと……」

 俺はにわかに回答に窮した。実をいうと、俺はこの少女が少し苦手なのである。いや、少しというどころか大分と苦手なのだ。見た目や性格などの問題ではなく、こればかりは形容しがたい。強いていうのであれば、スピリチュアルな例えであるが、魂の波長が合わない、とでもいえばいいだろうか。どうにも彼女といると心の奥底にある潜在意識が気後れするようで、そこはかとない疲労感が胸中にみなぎるのだった。

 少女はへどもどする俺にぐっと顔を近づけて身を乗りだすと、

「だいたい、今回の魔物だって討伐したのは私なんだ。それなのに、あんただけ報酬をもらうなんておかしいだろ? だってあの時あんたはへっぴり腰で何の役にも立たなかったんだ。だから、報酬をもらうのは、本来であれば私のはずなんだ。まあでも? 私も鬼じゃないから、報酬は八、二で分けてあげる。むろん、八は私で二があんたね」

 少女はまくし立てるように言ってから、身を一歩引いて、俺の顔を穴が開くほどにらみつける。首を縦に振らぬまでは論争を辞さないようだ。

「はあ……わかったよ」

 俺はあっさり兜を脱いで、少女の要求を呑んだ。ただし、報酬に関しては八、二ではなく七、三でという条件で。

 少女はかなり難色を示したが、おれも頑として譲らなかったため、しぶしぶ応じるのだった。

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