第三章 異変
俺はすぐに振り返ることができなかった。
そこにはなにかしら異様な想いが錯綜していて、振り返らねば、という意思をかたくなに拒んでいたのだ。なぜこのような想いに駆られるのか、なぜそれが今なのか、それは俺にもわからない。しかし、ここで振り返って剣を手に取らねば、俺だけでなく、少女にもまた危険が及んでしまう。
少女の顔をちらりとうかがう。少女は青白い顔で不快感をあらわにして目を見張り、俺の後ろをじっと見つめたまま、呪縛にかかったように動けなくなっている。
俺は、ふいに何もかも全てを諦めてこの場から走り去りたい念につよく駆られた。
はたして心の奥底から湧き上がる筆舌つくしがたい生理的な嫌悪感は、この薄気味悪い魔法のせいだけなのか。
あの陰気な森の光景はもはや見る影もなく、不規則に、無秩序に、右も左もなくまがまがしくゆがめられ、気狂いじみた暗い色彩を落としている。このような心の落伍者が描く奇怪な伝奇絵のような場所に閉じ込められていると、ややともすると、頭の奥を揺さぶられるような、名状しがたい悪感情に支配されそうになる。
はやくこの場から逃げ出さなければいけない。
……だが、どこに逃げる?
逃げるってまたか。
ここで逃げては、また同じではないか。
そのような言葉が、ふと脳裏をよぎる。
なぜこの言葉が脳裏にささやかれたか、まったくわからないが、どういうわけかは知らないが、ふと油然と振りかえる気が起こったのである。
俺はそこで意を決し、思い切って振りかえって敵の姿を認めた。が、その姿に思いがけず面食らった。
というのも、そこにぽつりと立っていたのは、なんとひとりの可憐な女だったからである。
天色の柔らかくなみ打った髪に、黄金色の瞳をこしらえて、懐の深さを思わせるふっくらとした頬がいかにも母性を感じさせる。母性にみちた女性は慈しみをたたえた眦をわずかにほそめて、こちらへ優しそうに微笑みかけている。この気の狂いそうな猟奇じみた絵に点出されるには、あまりに不釣り合いなこの人物は、いったい何者なのだろう。
なぜこんな危険な場所へわざわざやってきたのか。たまたま通りかかったところに例の魔物がやってきて、逃げてきたのだろうか?
けれど、あんなやけに涼しい顔をしているところをみると、魔物から逃げてきたとは考えにくい。
それにしてもこの慈愛深そうな女に対して、どうにも腹の底からせりあがってくるような、得も言われぬ奇妙な胸騒ぎをおぼえるはなぜだろう。
だしぬけのことで呆気にとられていた俺が何もいえずにいると、
「久しぶりだね」
と女性が声をかけてきた。
刹那、あの奇妙な胸騒ぎが、今度は言いようのない強烈な不快感となって胸のうちにのしかかるのだった。
女性の声はしとやかで心地の良いものであるにもかかわらず、この声そのものを拒絶したい、消し去りたい、という強迫観念じみた狂気が理性をはなはだしく掻きむしり、得体のしれぬ恐怖にはげしく身震いする。
俺はこの女を知っている?
慄然とする俺に女性は微笑みかけながら、悠然とこちらへ足を踏み出した。俺はなにかしら本能により逃げようと後ずさりしようとするも、身体が棒を呑んだように硬直して動けない。
女が近づいてくるにつれて、胸にせまる不快感は尋常でなく胸をとどろかせ、肺を鷲掴みにでもされたかのような圧迫感をおぼえた。呼吸もしだいに浅くなっていくようで、肺がきりきりと痛みだす。
じっとりとした気持ち悪い冷や汗が、額から頬へ伝い、あご先から垂れる。
女はもう眉先まで迫っていた。
「私のこと、忘れたの? 一緒に旅をしたのにひどい人」
その甘く柔らかい声に、総毛がよだち背筋に無数の這いまわるような強烈な戦慄を抑えることができない。腹の底がどんよりと重たくなったかと思うと、急にぐっと冷たくなり、ぶくぶくとふくれあがった心臓が、胸につっかえて息ができなくなるような感じだった。
足をがくがくと震わせ、発っているのもやっとで、
「お、俺はあんたなんか、し、知らない。俺はあんたなんか……あんたなんか……」
ようやっとあげた声も、舌の根がひきつってうまく声が出せず、最後のほうに至っては声にすらならず、壊れた笛のような音を出すだけだった。
女は俺の声にピタリと動きを止めると、
「本当にひどい。私はあなたのこと、本当に心配してたんだよ? ずっと、ずっと」
眉のうえまでせまった女が、ふっと愁いに眉に閉じた時、今度はなぜか胸の奥底から後ろめたさにも似た異様な悲しみの念が押し寄せるのだった。
この女のなにがここまで俺の心をかき乱し、引き裂くのだろうか。
表情といわず、仕草といわず、声といわず、そのすべてが俺の平静をことごとくかき回して感情の混濁を引き起こす。
俺はこの女を知っている。
しかし、なぜかそれを認めてしまうのは、なんだかひどく怖いような気がして非常にためらわれた。
するとなぜかそこで、俺はこの女にふいに燃えたぎるような憤りが腹の底からこみあげてきたのだ。
俺は正体のわからない渦巻いた怒りに身を任せて、腰から強引に剣を引き抜き、女の鼻先へと突きつける。
狂気に抜かれた刀身の鈍く妖しい輝きが、さっと女のおもてを走る。
女はそれでも顔色一つかえずに微笑みつつ、こちらへまた歩み寄ってくる。
一歩、また一歩と、ときおり凶刃のギラリとした光が、女に浮かぶ不気味な微笑みにほのめくたびに、得もいわれぬほど恐ろしい狂気に満ちた陰影を落とすのだった。
凶刃にいっさいの怯えをおぼえぬどころか、笑みをたたえるこの女に、俺は頭に沸騰する怒りや腹の底に広がる墨汁のような絶望もまたひとしおだった。
こうなってはもうたまらない、俺は震える剣先を両手で必死に抑えて、ままよと足を踏み出したその時、突如、眼前に大きな影が降りたった。
俺と女の間に少女が身をひるがえして舞い降りたのである。
あまりに出し抜けだったため、我をわすれて呆然としていると、少女はばっと俺を後ろへ突き飛ばした。先ほどか恐怖で身をゆすっていた足が、とっさに体重を支えられるはずもなく、朽ち木を倒したみたいに地面へ倒れこむ。少女はそんな情けない俺には目もくれず、女のまえに立ちはだかった。
「本当に趣味の悪いやつ。最高に反吐が出る。こうやって人間を食い物にしてきたんだな」
ここからでは少女の顔色は見えぬが、声色から察するに多分に怒りが含まれているようだ。
女は何も答えず、笑顔が張り付いたまま突っ立っている。
少女は憎々し気にため息を吐くが、その吐息は震えていた。その震えはいったいどういう感情が帯びているのだろう。
突然、少女は雄たけびをあげ、すかさず女の方へと右手を突き出した。
すると、少女の右手の周りに、まばゆいばかりの神々しい光のつぶがふっと浮かび現れると、みるみるうちに少女の右手に収束していく。
収束した光のつぶては、やがて、満月から零れ落ちた光に輝く真珠のような神秘の雫となった。
少女はその美しき月の雫をぐっと右手に握りこむと、溢れんばかりにまばゆい閃光が右手からほとばしる。
あふれ出る光を大きく振りかぶって、女へ向けて振るったところで、俺はあまりの眩しさに目をつぶってしまう。
刹那、なにやら何かが砕け割れるような甲高い音が耳を強く打ちつけ、後に残るのは、少女の息をすするような震えるか細く冷たい吐息。……
それからしばらくして、俺はおそるおそる目を開けた。
するとどういうことか、あの不気味な風景はいっさい消えていて、元いたあの辛気くさい森へと戻っているではないか。
呆然としながら少女の方へ眼をやると、閃光を宿していた右手は光はすでに失われ、かわりに女がいた場所には大きな砂たまりが出来ていた。少女はそれを前にぼんやりと佇んでいる。
「こ、これは一体……なあ、君、これは一体どういうことなんだ」
砂だまりの前で立ち尽くす少女へ声を掛けるも、返事はない。
俺はふらつきながらもなんとか立ち上がり、少女の肩へ手を掛けようとした。が、その瞬間、少女が突如視界から姿を消した。少女は素早く身体をさばいて、俺がにぎっていた剣を奪いとったのだ。
「なにをする!」
俺の怒鳴る声と、少女が仕掛けるのはほとんど同時だった。
少女はすかさず刀身を返して見せるや、俺の首筋へ向けて剣先で弧を描く。
けれども、俺が少女の振るう剣先を避けようとしなかったのは、剣先が俺の首筋に達せず、むなしく俺の鼻先をかすめたからだ。
少女の手から剣がすべり落ちて、地面にずぶりと突き刺さる。それから少女は、たちまち全身の骨を抜かれたかのように平衡を失って、その場に崩れ落ちた。
あまりに多くのことが起きすぎたせいで、事態をまったく飲み込めなかった俺は、しばらく呆然自失のもとに立ち尽くしていたが、それでも気を取り戻すと、とりあえず手あたり次第の持ち物とかき集めてから、少女を肩に抱えてひとまず森を出た。
道中、魔物に襲われないかひやひやしたものの、どうにもあの女――のような魔物を倒したおかげか、魔物に襲われることはなかった。その後、少女を森の入り口へ一旦おろしてから、取ってかえして今度は三人の男どもは引きずって回収し、そのあたりに捨て置いてやった。ひとまずこれで怨霊に魂をなぶられることもないだろう。
それはさておき、俺はともかく少女が骨抜きなこんな状況で、野宿するわけにもいかない。こうなると街で一息入れる必要がある。
それにこの少女の手当てもしなければならない。幸い、宵に入ってからそれほど一、二時間ほどしか立っておらず(トキシラスという、正確に時間を知ることのできる、俺の無駄に多いスキルの一つのおかげでわかった)、今から急いで近くの街か村へ行けば、どうにか宿を取ることができるはずだ。
この近くにある街か村といえば、ドルフかシュタットのいずれかになるけれど、便宜を考慮してシュタットへ行くことにした。距離でいえばドルフのほうがずっと近いが、ドルフへ入るための通行証を持っていないため、いちから発行する手間がかかる。その分、通行証をすでに持っているシュタットの方がスムーズに入門することが出来るし、なによりドルフよりもシュタットのほうが医療に事欠かない。もっといえば、シュタットで受けた依頼についての報告もしなければならないため、こちらの方が大分と都合がいいのだ。とはいえ、俺たちが対峙したあれが依頼されたものなのかどうか、結局のところ定かではないのだが。……
森の入り口から少し歩いて平原へと抜けると、森のなかとは打ってかわって、皓皓とした清い月光が降りそそぐ眺めのひらけた場所であった。平原を北にすこし歩いて、ほどなくすると、土を踏みならして舗装された小さな道にぶち当たる。
その道を今度は西へむかって道なりに進んでいくと、つま先上がりの丘が見え、なだらかに隆起した地平の先に、ぽつりぽつりと小さな街明かりが顔を出した。月の光がそそがれる夜のなかに、まるで雲母の粉をふいたように、きらきらとつつましく輝いている。両脇に広がる平原にさっと風がながれると、草花は風を遊ばれるのを喜んでさざめきたっている。いたずら好きな風は、草花や土の蒸すにおいを運んでは、頬と鼻こうを心地よくくすぐった。さきほどいた鬱蒼とした陰惨な森とは大違いの清々しき光景である。旅をするならこういうところを巡りたいとつくづくおもう。
つま先上がりの丘を登ってからすぐに、街へ入るための少し見栄を張ったような小ぎれいな門が目についた。門の前まで来ると、検問をしている街の衛兵があわてた様子で駆け寄ってきた。
肩に幼女を担いだ風采の上がらないみずぼらしい旅人が近づいてきたとあっては、とうぜん彼らも警戒をするだろう。彼らの目の色は怪訝で満ちていた。
俺は片手で道具袋から通行証と討伐依頼証を取り出して、衛兵に掲げて見せてから、以前ここへは来たことがある事と、依頼の報告に来た旨を伝えると、門番はそばにいた衛兵となにやら話し込み、少ししたのち、もう一人の衛兵を連れてこちらへやってきた。その者は少女について多少問うてきたが、依頼された森を歩いていたら倒れていたので拾ったとだけ伝えた。衛兵たちの不信感を拭いきれないまでも、依頼主が依頼主なだけに、俺に対して無下を働くわけにはいかなかったようで、しぶしぶ街へと通された。
シュタットは王都ほど栄えているわけではないが、かといって、大陸の辺境にあるような街ほど寂れてもいない。相対的に見れば、栄えている方ではあると思う。
このシュタットは東にある王都と、西にある旧魔王城である大都市のちょうど中心に位置しており、その関係で東西の品が盛んに売買されている。そのため、商人の多くがここを根城にして、様々な場所へと流通させているというわけだ。つまりこのシュタットは一種の商業街ということになるのだが、それもつい最近の話らしく、ある一人の商人が頭角をあらわすまでは、あまり人の寄りつかない辺境地の一つだったという。そのため、この街には真新しい建屋も多いが、古めかしい建屋などもいまだ多分に散見されるのこれもあの忌まわしい鎮魂の森が近くにあるせいともいえるが、ことシュタットに関してはそれだけではなく、近くに魔族の残党が潜伏していることも大きな要因になっているのだ。
戦争終結から十年たった今では、魔族はほとんどの勢力を持たず、各地を分散して放浪している。終結直後こそ魔王軍の残党が意趣返し同然の争いを各地で引き起こしたらしいが、今ではもはやその残党すら牙を抜かれたまつろわぬ民として、世界のどこかへ韜晦している。だが、われわれ人間にとっては、彼らの存在はいまだに危険因子そのものであり、迫害の対象でしかないのだ。そのようなやつらが近くに集落か何かを作っているというのだから、だれもこの街へは寄りつきたくなかったのだ。かてて加え、彼らはほかの魔族たちとは違い、武装までしていることもあってなおのことだ。
さて、新旧が建てならぶ街並みを少し抜けたところに、これまた古めかしい立派な館のような二階建ての建屋にぶち当たった。ここが今日、というよりしばらくお世話になっている宿屋である。
スレートの赤い屋根は雨風に長年曝されてきたせいか、ところどころ黒ずんでおり、漆喰の塗られた白い壁には痛ましいひび割れが随所に見当たるのだが、そこに退廃的な印象はなく、むしろ、長きにわたる歴史を生きた年季を感じさせ、新旧建てならぶシュタットの街並みに、ひときわ、奥ゆかしいレトロな情緒を与えているように思える。この大きな館もまだまだ若者に座を譲るつもりはないようで、星空に向かって伸びる古ぼけた煙突から、往年の余裕とばかりに悠々気ままに煙をくゆらせている。
エントランスにある黒ぶちの窓はカーテンがされているものの、カーテンの端からはじんわりと暖かな明かりがもれている。
建てつけの悪い木戸を少し乱暴にたたくと、わずかばかりの間があったのち、パタパタと音を立てて人がやってきた。
「あら、今日お帰りにならなかったんじゃなかったんですの?」
恰幅のよすぎる年配の女性――宿のオーナーが戸を開けたとたん、頓狂な声をあげる。
「ええ、そのつもりだったんですが、少し予定が変わりまして」
「はあ」
宿のオーナーは俺と肩に担がれた少女を見くべると、急にあやしむような目つきで、
「うちはそういうお店ではありませんのよ。そういうのはカップル専門のものがあるでしょう? それにあなた……そんな子供」
「いやいや、ご、誤解です。これは行きずりで倒れていたのを拾ったんです」
宿のオーナーの言葉にかぶせるように俺が強く打ちけすと、宿のオーナーはよりいっそう怪訝の色を濃くして、
「拾ったって……」
「はあ……わかりました。仔細をお話ししますので、とりあえず中にいれていただけませんか?」
宿のオーナーはしぶしぶ了承し、俺たちを招じいれた。
中に通されると俺は、自分の部屋へもどる旨を伝えて、少女を宿のオーナーにあずけると、しばらくお世話になっていた部屋へと一旦ひきあげ、旅装をといてまた戻った。
戻ってみると宿のオーナーや少女の姿がなかったので、しばらくホールを行きつ戻りつ呆けていると、宿のオーナーがやってきて、俺が部屋へ引っ返しているうちに、手際よく少女の部屋をはからってくれていたらしい。
宿のオーナーの案内で少女の部屋へとおもむくと、服を取りかえられた少女が、清潔なベットの上でぐっすりと眠っている。
「この子、ずいぶんとやつれていましたけれど、大丈夫なのでしょうか?」
「さあ……」
宿のオーナーはかすかに瞳を濡らして憂うような眼で少女を眺めている。この年代の女性は、やはり少女ほどの子を見ると慈しまずにはおけぬものなのだろうか。
それから俺は、宿のオーナーにこれまでのいきさつをかいつまんで話しておいてから、少女のことは彼女に任せて自分の部屋へと引き下がった。
部屋へ再度引き返した俺は、ろくに寝支度もせぬままベットへ身を沈めるように倒れこんだ。今日の不可思議な出来事を、目をつぶって思いかえしてみる。
この世のものとは思えない不気味な空間に、心をかきみだしたあの女の笑顔と言葉が、なにより、少女に向けられた凶刃のひらめきとが、まざまざと思い描かれる。俺の頭のなかでは、以上の事柄にくわえて、それにまつわるさまざまな疑念と謎が、どんよりとした暗い雲のように重苦しく垂れさがるのだった。
なぜ、あの女に対して、あれほどの恐怖と嫌悪感を抱かねばならなかったのか。なぜ、少女は俺に対して剣を振るったのか。
少女については、俺の剣をねこばばせしめんと躍りかかったと思えば、まだいくらか説明はつくのだが、女の方に対しては全く要領を得られない。あの女は確かに初対面だったはずだ。というより、なぜあのような血も凍るような恐ろしいところに女が一人でうろついているのだ。いや、それをいえば少女とて同じことか。
あの魂をも震わせる咆哮をあげた魔物の正体は一体なんだったのか。ああ、なにを取ってみても分からずじまいだ。
思えば、これほど多くのことが起こるのもこれまでなかったように思う。これまでは依頼に関しても、ことを成して金をもらって、はい、仕舞いだったものだ。
戦いについても取り乱すことも、苦戦するでもなく、淡々と始末をつけるだけのはかばかしいものばかりだったものが、それが今回に関してはどうだ。
剣すらまともに振るえず尻込みしたあげく、年端のいかぬ少女に助けられたうえに、少女に襲われたのだ。あまりにもみじめな展開に、これまで築き上げてきた自信の萎縮を禁ずるべくもなかった。今後、あのようなことにならないとも限らないと思うと、自信の喪失もひとしおで、旅を続けていくのも忍びなく思われた。
心を覆うた暗雲たる複雑な想いは、夢魔と化けて出ては、眠りにかかる意識を無残に破り、そのたびに失望と懸念に取り憑かれながら輾転反側するのだった。
ようやく、うとうととまどろんだ頃には、窓から陽が差し掛かりだした頃おいだったのだが、それからしばらくもせぬうちに、どたどたというあわただしい足音にたたき起こされる。
「ちょっと旅人さん、起きてくださいまし」
扉を乱暴に開けるなり、宿のオーナーが飛び込んできて、周囲に寝泊まりする者があるのをかまわず、悲鳴に近い声で呼びかけた。が、すぐに周囲の宿泊者たちの存在に気が付いたのか、声をぐっと絞って、
「旅人さん、起きてくださいまし」
と、俺の身体を何度もゆすった。
とっくに目は覚めているのだけれど、どうにも起き上がろうという気の起きなかった俺は、狸寝入りを決め込もうと、少しだけうなって、寝返りを打って見せた。だが、宿のオーナーはそれでもしつこく身体をゆすって起こすものだから、仕方なく起きることにした。
「どうしたの、こんな朝っぱらから」
「どうしたもこうしたもありませんよ。あの女の子、目を覚ましたんですよ!」
「そりゃ朝ですから目は覚ますでしょうけど、それがどうかしたんですか?」
「それがどうかって……あなた、あんな子供が倒れたとあって心配ではありませんの?」
宿のオーナーは今にも噛みつかんばかりのものすごい剣幕で、俺に詰めよった。
「い、いや、あの、そうではなくてですね。あれはただの魔力切れですからそこまで心配なさる必要はないんですよ」
「はあ」
宿のオーナーは間の抜けた声をあげて、俺の顔をもの問いたげにじろじろと見ている。
「俺の持っている剣、あるでしょう? あの子はあろうことかそれに触れてしまったんですよ」
「はあ、それがなにか?」
「あの剣はね、オーナーさん。人の魔力を吸い取ってしまう、いわば呪われた剣なんですよ。特殊な耐性のないものがあれを握ると、一瞬のもとに魔力を吸い取られてしまう。魔力は生命力と直結している重要な力の源、だからそれを吸い取られたあの子は気を失ってしまったんですね。まあ、場合によっては、魔力がかれて死ぬこともあるんですが、あの子は運がよかったですな、あっはっは」
「笑い事じゃありませんよ! あなた、事によってはあの子を死なせていたのかもしれないんですよ!」
宿のオーナーの剣幕はいよいよ、人に躍りかからんと牙をむいてよだれくりする猛獣のそれであった。
「い、いや、あの、それはですね。一応。俺も十分注意はしてたんですよ。でもあの子、俺の剣がどうも欲しかったみたいで、いやぁ、いるんですよ。たまにこの剣を盗もうとする者が。俺のような風体ではこれぐらいしか金になる者がありませんからね」
宿のオーナーはふいに憮然とした色を浮かべると、
「もういいです。とにかく、あの子の部屋へ行ってあげてください。私、何か食べるものを持っていきますから」
宿のオーナーはお願いするような目つきで、くれぐれもよろしくお願いしますよ、と付け加えて部屋を出て行った。
正直なところ、少女と顔をあわせるのはいささか以上にきまりが悪い気がするのだが、世話になったオーナーにお願いされた手前、行かぬわけにもいかず、しぶしぶ起こして部屋を後にする。
少女の部屋は螺旋階段を降りてすぐ前手前にある客室である。二回ノックしてから扉を開けてみると、白のローブを召した少女が、ベットから半身を起こして窓の外を眺めていた。
朝の斜陽をうけた少女のその姿は、さながら一枚の精巧な油絵のようである。この質素な客間のなかで、彼女の周辺だけが、彼女を点出した一つの芸術として仕上がっている。
暁のあかね色をまともに浴びる少女の、かすかに潤んだ大きな瞳といわず、それにかぶさったふっさりとした長いまつ毛といわず、朝日に色づくつややかな唇といわず、そのすべてがいやに蠱惑的な情感をそそるのだった。見た目は子供なのにもかかわらず、妙齢の妖婦がふりまく、男を心酔させるような甘美な艶めかしさと媚びを持ち合わせている。
俺はこの少女になみならぬ戦慄を何度もおぼえるのだった。
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