第二章 鎮魂の森

 旧魔族の領地と人族の領地との境にあるこの森は、どこか薄気味悪く鬱蒼としており、それがいやに悲壮たる念をかき立てる。というのも、それはこの森が凄惨な由縁があるためでもあるが、それ以上に鬱然と重くるしく覆いかぶさる、この森をつつむもの寒い霧と不気味にねじ曲がった木々のせいである。

 くわえてこの森をくるんでいるなんともいいがたいこの匂い。

 森のまわりはいやに甘ったるい匂いがみちていて、これがいたく鼻を突き、肌へまとわりついてくるのである。

 これはある魔物の腐敗した末に咲かす花がはなっている匂いであるといわれている。また、この臭気には特殊な幻覚作用があり、耐性のない者はかすかに匂いを嗅いだだけでも酩酊してしまうといわれ、まともに嗅ごうものなら、廃頽した快楽の奈落におちいることになる。。闇市ではご多分にもれず、こういったは往々にして高値で売り買いされており、ここも例にもれず売人の穴場となっている。そのため、ときおり行き倒れている者や気狂いのようによだれを垂らして暴れまわっている者がみられるが、これらは欲に眼がくらんだおろかな売人のなれの果てである。そうしたものは、だいたい魔物に食われるか、中毒死するかの二択で、あわれな末路をたどることになる。

 こういう毒々しいこの森でも、おりおり雲の切れ間から顔をだす月明かりが、ほの白い光で陰鬱な森をなでると、枝葉に垂れ下がる夜つゆが月の光を吸うて、霧がおおうこの森のなかを淡い輝きがかげろい、星雲をながれるきらめきとまではいかないまでも、それなりに美しく味のある風情をみせるのだった。

 もともと、この森はこのような世にもおどろおどろしい姿をしていなかったのだが、ある事がきっかけでここの生態系および環境はがらりと様変わりしてしまったといわれている。

 この森の名前は鎮魂の森という、いかにも物々しい名前であるが、その名の由来は、むろん過去の出来事に起因する。

 昔は、といっても十年と少しまえの話だが、そのころはこの一帯も今ほど森閑とした場所ではなく、戦禍いちじるしい紛争地域であった。争っていたのは、言うまでもなく前述の領地の者どもである。争いの種こそさまざまであったが、それらは彼らにとって適当な大義名分でしかなく、その根底に横たわっている目的こそ領地の侵略に他ならず、ひっきりなしにくだらない理由で殺し合いを演じていた。

 どこにでもあるような不毛な領地の奪い合いだが、この地はそれがことさらおびただしいもので、この森に立ち入れば、誰であろうが関係なく骸にかわるといわれたほど苛烈なものだった。事実、当時ここを歩くものは、みながみな、数歩進むたびにが無残に転がっている死体を目にし、丁々発止のすさまじい剣戟の響きが絶えなかったというらしい。

 そういう血で血を洗う地獄は死体の山を作るわけだが、その死体はむろん回収されるわけもなければ、ていねいな葬送もされるわけもい。さんざん長いこと放置されたあげく、腐敗して土にとけるというむごい結末を遂げ、ただ森の木たちの養分になりはてるのだった。

 当時は布か何かで鼻や口を覆わねが、息が出来ぬほどの悪臭であったというらしい。これを聞くだけでもこの地がどれほど凄惨なものであったかが窺える。今はその死臭も落ち着いているようだが、この薄気味悪い悪寒をそそる陰湿な空気は、その名残りといえるだろう。

 なにせ、あのあわれな骸の山は森をアンデットや死霊の温床と変えてしまったのだ。

 争いが起こる前までは神聖の森とまでいわれるほど美しく、自然に祝福された清い森だったのだが、無数の死体を養分に育った木は、志半ばで倒れた死人の怨念がささやく絶望や恐怖に耳を傾けすぎたせいか、心が引き裂かれたかのように不気味にねじり切れんばかりにいびつに木立しており、もはや神聖は見る影もない。

 そういう経緯もあって、この森は死者の眠る森――鎮魂の森と呼ばれているのだ。

 この森はことごとく死によって狂わされたおぞましい桃源郷といえよう。

 十年ほど前であれば、おれもおそらくこの森の耳目を集めるほどの悪評は耳にしていただろうが、なにぶん十年ほど前から記憶がないため、さっぱり見当もつかないし、この森の風景に全く見覚えがない。いや、いまは過去とおよそ様変わりしているという話だから、見覚えがないもの当然といえよう。

 ともあれ、よほど酔狂なものでないかぎり、こんな鎮魂とは名ばかりのおどろおどろしい森に近づこうとする一般人はいないだろう。いやいや、冒険者であってもよほどのことがなければ鎮魂の森へ足を踏み入れようとはしないはずだ。

 もしこの森で人を見かけたのなら、それは俺のような依頼で仕方なくきた冒険者か、例のブツをくすねにきた愚かしい売人のいずれかだ。

 しかし、今、目の前にいるこの少女は、そのどれでもないように思われる。

 歳は十三、四ぐらいなものであろうか、およそ場違いな汚れのない白のワンピースを召していて、白くてつやのある絹のような髪を腰までふっさりと垂らしている。すらりとした顔つきだが、それでいてわずかに下ぶくれなところが、理知ある雰囲気の中にどことなく女性的な柔らかさを持たせている。丸みをもちながらも切れ長なまなじりといわず、薄紅のふっくらとした艶美な唇といわず、きれいに通ったキレのある鼻筋といわず、そのすべてがまるで洗練された生け花のような完成された美を有していた。ほのめく月明かりの落ちた横顔はぞっとするほど妖しくなまめかしさを持ち、その照りかがやかんばかりの美しさは白薔薇の月夜に匂うよりもまだまぶしかった。そして、なにより特筆すべきは、双眸にたたえた赤き瞳孔である。

 それは、まるである宵に見られるという妖しき紅い月のような異様なる瞳は、彼女に残るいとけない美貌に異様なる妖艶さをそえ、年齢ににつかわぬコケットリーな雰囲気を醸しているのだった。

 その月蝕のような紅い瞳が俺の姿を吸い込むようにまっすぐとらえられ、俺はふいに背筋にはしる戦慄を抑えずにはいられなかった。

 とりあえず声をかけねばとおもい、身を乗り出した折りから、少女のそばに三人の男が倒れているのを見つけたため、おもわずたじろぐ。

 なぜこんなところに男が倒れているのか。見たところ、この屈強な男どもはこのあたりを根城にしている山賊のようだが、はたしてどういう状況なのか。まさか、この年端もいかない少女がこいつらを。……

「あなたもこいつらのお仲間?」

 俺がとつおいつと悩んでいると、しびれを切らしたのか少女の方から先に声をかけてきた。ふいに声を掛けられたせいで、思い通りに言葉が出てこずにまごついてしまう。

「あ、いや、えっと」

「男が寄ってたかって女の子に襲い掛かるなんて恥ずかしくないの?」

 へどもどしている俺をしり目にかけて、少女はなおも秋空のように澄んだ声で言葉を継いだ。

「あ、い、いや、俺は怪しいもんじゃない。たまたま通りがかったときに君の姿を見たもんだから、気になって覗いてみただけだ」

「ふぅん。通りがかった、ね」

 少女は少し辺りを見回してから、

「こんな森を通りがかるなんて、おじさん変わってるね」

 少女は特に顔色をかえるわけでもなく、俺を見つめている。彼女の言いたいことはわかる。こんな辛気くさい鎮魂の森を通りがかる者など、不審者以外の何物でもない。

 ふと彼女の両眼にやどる紅い瞳に、怪訝と敵意の色がみちてくる。

「まてまて! 本当に誤解なんだ。こ、これを見てくれ。……ほら、これ。モンスターの討伐依頼書。俺はここのモンスターを討伐しに来た冒険者なんだよ。だから、そこに転がってる奴らのことは知らないし、君をどうこうするつもりもない」

「そう」

 少女はすこし考えたのち、興味なさそうに答えると、倒れている男のそばへとしゃがみこんでなにやら懐を漁りだした。

 その様子を見るともなしに見ていると、少女はふとこちらを振りかえって、

「まだ何か? それとも物取りがそんなに珍しいわけ?」

 少女は細い眉をひそめる。目鼻立ちはとても柔らかで愛嬌もあるのだが、彼女の表情が乏しいせいか、なんともいえぬ疎外感と冷たさを感じさせるのだった。

「あ、いや、そうじゃなくて」

「じゃあなに。……ああ、わかった。こういう行為はよくないからやめろ、っていいたいのかな?」

「それも違う。だいたいそいつら、この辺りに住み着いてる山賊だろ。自分らも同じことしてるんだから、されたって文句は言えないだろ。俺が気になってるのはそれじゃなくて、君は見たところまだ子供だろ?」

「私は子供じゃない」

 少女は言下に打ちけすと、

「そんなことどうでもいいでしょう。もうほっといてよ」

 少女はうんざりとした様子で答えながら、かたわらの男から漁り終えたと見えて、今度は別の男の懐を漁りだした。

「いや、しかしそういうわけにはいかない。この森がどういうところか知ってるのか? わりと危険なんだ。こんなところに子供一人を置いていくことなんてできない」

「だから、何度も言うけど、私は子供じゃありません」

 と、少女は切り口上に答えて、

「それに危険なのは知ってる。でもたかがアンデットでしょ? この転がってる男たちよりも弱いんだから別に大したことじゃないよ」

「ということはやっぱり、その男たちは君がやったのか?」

「そうだよ。……だからなに? 今度は憲兵ごっこ? おじさんは見た目のわりにお子様趣味なんだね。言っておくけど、私から手を出したわけじゃないよ。こいつらが勝手に絡んできただけなんだから。いわば、正当防衛だよ。ったく、一人で歩いてるとすぐこれなんだよね。ひっきりなしにこの手の男に絡まれるし。まあそのおかげで、生活費には困らないけどね」

 少女は漁っていた男の懐から、路銀の入っている袋をみつけたらしく、俺にわざわざささげて見せた。

「それに、気絶させただけだからじきに起きるでしょ。アンデットの餌にならなければ、だけどね」

 そこで初めて少女は微笑んだのだが、それがどこか翳りのある笑顔で、俺は少女をとりまいている境遇のただならぬ底暗さをなにかしら感ずるのだった。

 俺は少女の言葉を黙殺し、地面に伏している男たちに目配せして、

「君にどうこうできるような相手には思えないけど?」

 倒れている男たちの体躯を見れば、誰しもがそう思うだろう。何故といって、少女とは明らかに体格差があるからだ。男どもの肉体は男である俺が見ても、目を奪われるほどの隆々とした筋肉をまとい、衣服からのぞく肌には、無数の古傷が数多くの苛烈な歴戦を演じてきたことを証明している。

 このような屈強であろう三人の男に囲われて、無事ですむはずがないのだ。

 俺の問いかけに、少女はせせら笑うような目つきで、

「あなたって本当に人を見かけで判断するのが好きなんだね。こんなやつら見掛け倒しな筋肉バカなだけで大して強くないし。初歩的な魔法で十分だったよ」

「初歩的な魔法……」

 少女の言葉を反芻するようにくりかえし、そしてぎょっとする。

 人間である少女が魔法を使えるというのか。魔法とは本来、魔族の専売特許のようなもので、人間でそれが扱えるのものは、ごく限られた家系の者のみときく。

 少女もその家系の一人であるということだろうか。しかし、魔法を使う家系の者はそのかぎりなく奇特な才を持つゆえに、魔法が扱えることをかたく秘する。

 戦時中は魔法が扱えるということは、取りも直さず、魔族に直接対抗しうる戦力となるのだ。そうでなくとも、魔族の御業を使う人間など、同じ人間として嫌悪や忌避の目に晒されるのは目に見えている。今でこそ魔族との戦争は終結しているものの、まだ後述の理由で――というより後述の理由が主たるものとして、未だに魔法を行使する才を黙しているらしい。俺とて、この十年で魔法が扱える人間などお目にかかったことがないのだ。(むろん、十年前以上のことはもっと見当がつかない)

「本当は人に向けて使うなって教えられてきたんだけど、例外は仕方ないよね。それでもできうる限りで手加減はしたんだ。私だって不本意だったんだから」

 少女はなぜか憮然とした表情をしてうつむいたので、俺はこれ以上の追究するのをよした。

「ところで君はなぜこんな森にいるんだ? 旅でもしてるのか?」

「うん、そうだよ。でなけりゃこんなところは通らないからね」

「いったい何のために旅を?」

「何のためって……おじさん、聞きたがりだねぇ。女を口説くならもう少し控えめのほうがいいとおもうけど」

 少女はまたも翳りを帯びた笑いを浮かべる。

「君のような子供を口説くわけないだろ。そうじゃなくて、このご時世に一人で旅だなんて、よっぽどな理由があるんだろう? ただの観光ってわけじゃないはずだ」

「だから私は子供じゃ……もういいよ。訂正するのも面倒くさい。……まあ確かにこの森は観光名所というにはいささか以上に辛気臭いところだね。昔ならもっと見る価値のある綺麗なところだったんだろうけれど」

 翳りのある少女のおもてがさらに暗くなる。

「私はね、ある人を探してるんだよ」

「人探し? 探すだけなら冒険者の組合かどこかに依頼を出せば……」

「それじゃダメなんだ」

「ダメ? なにか特別な事情が?」

「事情も事情さ」

 少女の言葉を聞いたとたん、俺の背筋に冷たい戦慄がつらぬいて走ったのは、少女の声や表情に並々ならぬ憎悪や禍々しき怒りの色がみなぎっていたからだ。

「なにせ私の父親を殺したんだから。しかも訳も分からないクソみたいな自分勝手な理由でね。……私にとっては、たった一人の家族だったのに」

 暗い目をした少女の眼に、血のごとき赤い殺意の色がみなぎりわたる。

 少女をとりまく昏い影がゆらゆらと陽炎のようにたゆとうている。

「私がなぜ旅をしているか? それはそいつに復讐するためだ。どんな手を使ってもね。そして、たっぷりいたぶってから殺してやるんだ。何度も何度も痛めつけて、命乞いをしても続けて、いっそ殺してくれって願うくらいに」

 薄情だと思うかもしれないけれど、俺はこの少女の話にとくだん驚きはなかった。

 何故といって、親や最愛の人をうばわれた者が敵討ちをする、という復讐悲劇の構図はこの世の中では、なにも珍しいことではなく、長い旅の中でそうした者を幾人も見てきた。魔族と人族との戦争ではそういった惨害は後を絶たなかったし、とりわけこの鎮魂の森周辺は戦火が苛烈さもひとしおであったため、魔族に対して強い復讐心をいだく者もかなり多い。

 したがって少女もそのたぐいの者であろうということは、想像に難くなかった。となると、もしかして少女がこの森にやってきたのは、死者の足跡をたどるためではないだろうか。

 この森を歩こうとするごく少数の一般人はみな復讐心を抱く一方で、散っていった命の痕跡を追おうとしてこの森へと足を踏み入れる。たとえ、怨嗟と憎悪に塗りつぶされた魂の怪物になっていたとしても、会いたいと強く願うのが残された者の業というものだ。この少女が酔狂な学者でも、無骨な山賊でもないのなら、儚い業に捕らわれたごく少数の一般人ということになるのではないか。

 それならばこれ以上、少女の過去へ肉薄するのはさけるべきだろう。彼女とて好きこのんで暗い身の上話をしたいわけではないだろう。

 わずかばかりの味気ない沈黙がながれたのち、それを破るようにして、

「とにかく君の目的はわかったけど、どうあれこんなところをうろつくもんじゃない。知っての通りだろうが、ここにいるのは魔物だけじゃないんだ。それに……」

「それに?」

 少女はものうい眼で俺を見つめる。

「俺がここに来た目的、しってるだろ? なんでも最近、ここらの死霊どもの動きが不穏だという話で、そいつらの討伐を請け負ったんだ。つまり、この一帯のモンスターはいつも以上に危険なんだよ。もしかしたら禁術も使えるかも」

「禁術? あなたは大丈夫なの?」

「俺は問題ない。生まれつき無駄にパッシブスキルの数が多くてな。即死とか呪術とかの類は軒並み無効なんだ」

「へぇ、すごいね」

 少女は気にも留めない様子でそっけなく答えると、先ほどくすねた巾着袋の中を確認しはじめた。月明かりが差しているとはいえ、辺りはそれなりに暗いはずだが、少女は袋の中身が見えているのだろうか?

「とにかく早いところ離れたほうがいい。そこの男たちは俺がなんとかしておくから」

「置いていくんじゃないの、これ」

 少女は少し驚いたように声をあげ、顔をもたげた。

「当然だろ。いくら卑劣漢とはいえ、拾える命は拾わないとな。それに君だってここでこいつらに死なれたら目覚めが悪いだろ?」

「いや、むしろ顔を見られたから死んでくれたほうが都合がいいんだけど」

 少女はこともなげに言い放つと、おもむろに立ち上がった。どうやらこいつらの懐にはもうめぼしいものはないらしい。

「ほら、私のことはもういいでしょう。それよりおじさんこそ、なんでこんな辛気臭いところの依頼なんか受けたの?」

「もともと俺が受けたわけじゃない、押し付けられたんだよ。だがまあ報酬もうまかったし二つ返事でのんだがな。俺も物持ちはあまりいい方じゃないから」

「でしょうね。おじさんの恰好見ても、金ありそうにはとても見えないし」

 少女は俺の頭から足先までを値踏みするように見る。

 俺は少女の言葉に対し、口惜しいけれど一言もなかった。俺の恰好には、まるで品位も気高さも清潔感も皆無なのだ。ぼろきれの下着に、ところどころ装甲の剥げた軽装鎧をこしらえて、手入れのおろそかにした顔はぶぞろいの髭で顔の下半分を覆っている始末である。

「あと女を口説きたいなら、もうすこし清潔感を意識したほうがいいよ。とにかくひげは剃った方がいい。今時ひげのある男なんてうけないから」

 少女は少し眉をひそめて難色を浮かべる。

 俺は的外れな少女の言葉を黙殺してしわぶくと、

「ともかく、美味い報酬があったからここの依頼を受けたわけだ。討伐対象もさほど厄介な相手ではないみたいだし」

「……それはわかったけど、うまみのある報酬が目当てなら、こんなへんぴな場所よりもっと大きな街で依頼を受けた方がいいでしょ。たしかにさっきの討伐依頼書を見るとここらの依頼よりも報酬は弾んではいるけど、王都のギルドでも行けばこんな金額、ザラにあるんじゃない?」

「それもそうなんだが……」

 俺はその先を告げるのをちょっとためらったが、すぐに思い直して、

「実をいうと俺は記憶を失くしててな」

 少女はぎょっとしたように眼を見張り、異様な眼つきで俺を眺めまわした。しだいに少女の眼が好奇に濡れてくる。

「俺が旅したであろう場所をこうして巡りながら、記憶の手がかりを探ってるんだ」

「そうなんだ。記憶を失くしたのはいつのこと?」

「十年ほど前だ。気づいたら俺は王都の城門の前で突っ立てたんだよ。不思議なもんだったなぁ。名前も、出身も、なぜそこにいたかも、全て覚えてないんだ。ただ、漠然とそこにいるのが怖くて、ひたすら走ってその場を去ったのを覚えてる。といってもそのことすら少し曖昧なんだけどな。誰かに会って俺が何者か聞こうとしたんだが、それも怖くてな。こうやってひっそりと各地を巡りながら生きてるんだ」

「なるほどね。でも記憶もないのに、なんでここが一回来た場所だってわかるの?」

「ああ、それはこれのおかげだよ」

 俺は懐の道具袋から、ある紙切れを取り出した。

 それは目的地までを線で記した地図なのだが、汗や雨にさらされたことはもちろん、折れたり握りしめたりで、十年の歳月をずさんに扱われた結果、見るも無残なしわくちゃの紙切れ同然であった。かろうじて、線で結ばれた箇所は読めるが、文字などはもはやすり切れてしまってことごとく壊滅である。

 こんなものを見せられた少女も、当然あきれたように眉をひそめて、

「なにこのぼろぼろの紙……全然読めないけど。……ああ、地図か、これ。それにしても、新しいものを買ってそれに書き写そうとは思わなかったの? これじゃ、メモもできないじゃん」

「ああ! そういう方法もあったな。うっかりしてたよ」

「あなた、よく今まで一人で旅できてたね」

 そういう呆然とした少女の声が、ふと脳裏に眠る何かを打った。少女の声はまびこのように耳の奥を反響し、それが聞き覚えのないおぼろげな声と形のない想いが脳裏に浮かびあがらせる。

 以前にも似たようなことがあったような、懐かしいようで、それでいて、胸をつくような悲しい感覚がよぎる。

 過去に来たことがある土地におもむくと、こうしたことがままあった。

 何かの拍子でふと胸に走る奇妙な違和感が、やがて頭脳の底に横たえる何かを揺さぶり、なんとも言えない感情が浮上、波紋するように広がっていく。それが、なんともいえぬ焦燥と行きどころのないいら立ちを募らせ、じりじりと胸を焦がすのだ。

 うまれはどこか、名前はなにか、なぜ記憶を失くしているのか、なぜ生きているのか、何一つわからぬなか、ただ手にしていた剣を携えて各地を流浪している。

 思い出さねばならない、さりとて思い出したくないような、正体のわからぬジレンマが、焦げついた胸の内をことさらじりじりとあぶるのである。

 名状しがたい焦燥感と、それを思い出せない憤り、しかし、決して思い出してはいけないという歯がゆさが、俺の心をどうしようもなく駆り立てるのだった。

 俺の不穏な雰囲気を察してか、少女は口をつぐみんで後ろを向いて、

「とにかく、私はここに用事なんてないから先行くね。多分、もうお目にかからないと思うけど、あなたもどうかお元気で。記憶、戻るといいね」

 そういって少女が足を踏み出したそのせつな、とつぜん、とてつもなく大きな低いうなり声が森の空気を揺らした。

 まるで地獄の底でもだえる罪人たちの怨嗟にみちた呻きのような不吉で呪わしいうなり声は、森に恐怖を殷々とひびかせ、俺の肝をすみずみまで震わし、不気味でおぞましい戦慄を背筋に走らせる。

 何事かとあたりを見回すと、突如、あたりの景色がゆらゆらとゆらぎ、霧をやぶったように歪みだした。

 景色がゆっくりと右回り左回りといびつに捻じ曲げられ、空にかかった明月の光も麺打ちのように細く引きのばされ、渦を巻いて捻じ曲げられた風景に溶けていく。先ほどの森の様相はもはや見る影もなく、たとえば怨念と妄執にもだえ苦しんでいるように、または、 罪を犯した者が地獄の業火に身を清められながら、無数の針の上で罪を削りながら闊歩して呻くように、森の表情が、無残にゆがみ、ねじれ、引き裂かれていく。

 その時、ありありと脳裏に思い描かれたのは、旅のさなかで見たある壁画だった。

 そのドス黒く禍々しい瘴気でけむる背景には、苦痛のかぎりを尽くされた罪人たちの苦悶にやぶられたもの狂わしい表情が、一面を覆いつくさんばかりに描かれていたのだが、今の光景はまさにそれと言えよう。この場に立っているだけで、地獄の業火で罪を洗う咎人の悲鳴が耳の奥で響いてくる気さえした。生きながらにして、俺は捻じ曲げられた森の無間地獄に囚われてしまったのだ。

 この狂おしい景色を見た少女も、

「これは……趣味の悪い魔法だね」

 さすがに表情をかたくしている。

「これが魔法だって?」

「それ以外になにがあるの? まさか、魔法を使う魔物に出会ったことがないとか? さっきなんかパッシブが――とか言ってたのに」

「いや、そうじゃなくて。こんな薄気味悪い魔法、いったい何の魔物が――」

 と言いきるや否や、ふいにおぞましい悪寒が背筋を貫いてはしった。

 何かが、俺の背後に降り立ったのである。

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