その4 世界のスパイ機関は皆、公務員(忘れがち)

「な──っ!?」


 驚愕する〝主任〟の耳に、無線を通して新人が息を飲む声が聞こえる。

 むろん秘匿追尾から強制追尾に切り替える以上、マルタイが逃走を図ろうとするであろうことは想定の範囲内だった。

 だが、まさかで、よりにもよって向かうとは。さすがの〝主任〟も予想だにしていなかった。


「至急、至急! 追尾から指揮班! マルタイ一と二、一の鳥居前で振り切りキリ! 方面に向けて逃走! 指示を求む!」


 振り返って指示をもとめようとする新人を手で制し、〝主任〟は無線で指揮班を呼び出し判断を仰ぐ。


 鎌倉別荘ことロシア大使館鎌倉別荘はその名の通り、由比ヶ浜にあるロシア大使館の施設だ。築百年を超える瀟洒な洋館は帝政ロシア時代に外交官の別荘として建てられたものであり、ソビエト連邦時代を通じて現在もロシア大使館職員のための保養施設として使われている。

 だが、それはあくまでオモテ向きのこと。その実態はソビエトKGB時代から一貫してロシアの日本における諜報活動エスピオナージの主要拠点であった。

 実際、鎌倉別荘は現在もロシア対外情報庁(SVR)の日本支部と目されており、常に神奈川県警外事課の厳重監視下におかれているのみならず、法務省隷下の公安調査庁(PSIA)はもとより、米大使館の中央情報局(CIA)や連邦捜査局(FBI)、さらには在日米軍の各インテリジェンス部門までもが、その動向を注視している。

 はたして、そのようなセンシティブな場所に、、軽々と近づいて良いはずもない。

 ましてや追尾しているマルタイたちが何者なのかもよくわかっていないのだ。下手に追いかけて何か騒ぎでもおこされた日には、外交問題にすらなりかねない。

 それゆえ〝主任〟は上に判断を仰ぎながらも、経験上、追跡の中止が命じられるものだと思っていた。

 ところが返ってきた指示は、またもや想定外のものだった。


「指揮から追尾、マルタイの追跡を続行せよ。繰り返す、追跡を続行せよ」


 指揮班からの指示が下るやいなや、新人が踵を返して駆け出す。

 いくら強制追尾だからといって周囲の視線を引き過ぎだ。その無思慮な行動に苛立ちを覚えつつも、〝主任〟は後方にいるアベックを偽装する部下たちに一本まえの雑貨屋の角を曲がって追跡するよう指示を下した後、自身も新人とマルタイの後を追った。

 洒落たマンションや民家に挟まれた横道は、しかし、いくらも進まぬうちに舗装が途切れて、剥き出しの地面に細く申し訳程度の石畳が敷かれた小路へと変わる。その先はもう鎌倉別荘の外壁へと突き当たり、左右に細い道が延びるのみであった。

 と、まるで陸上選手のような完璧なフォームで先に立って疾走していたマルタイ二が、突き当たりを左に折れるのが見えた。そして大分遅れて、息も絶え絶えと言った様子のマルタイ一が、こちらは右へと曲がった。

 それにたいして新人は一瞬突き当たりで迷いを見せてから、何を思ってかマルタイ二のほうを追って左へと進もうとする。


「馬鹿野郎! 右だ、右! イチを追え!」


〝主任〟は思わず大声で怒鳴っていた。

 マルタイ二は追わずとも、その先でアベックを偽装した部下ふたりが待ち構えている。そこで捉まえられるならばそれで良いし、仮に振り切られるようなことがあれば、どのみち追跡班のなかには誰もあの脚力に着いていける者はいない。

 よってここは、あきらかに日頃の運動不足が祟っているように見受けられるマルタイ一のほうを追うのが順当である。が、研修のみで実務経験のない新人にはそのあたりの判断はまだ着かなかったようだ。

 しかし経験不足ではあっても体力と根性は人並み以上なのが〝〟あがりのいいところだ。怒鳴られて即座に方向転換した新人は、一瞬砂利に足をとられそうになりながらもトップスピードを落とすことなく、マルタイ一を追って駆けていく。

 遅れて〝主任〟が道を曲がったときには、新人の背中は鬱蒼と茂る木々の枝に遮られた薄暗い路地のはるか先にあった。


 ──まったく、とんだ体力オバケだ。


 そう思うと同時に〝主任〟は違和感をおぼえた。マルタイ一の姿がないのだ。

 丁字路で二手に別れたとき、マルタイ一はすでに息を切らしているように見受けられた。

 よって普通にかんがえれば、さほど遠くまでは逃げていないはずだ。すくなくとも体力が有り余った新人はその背中を捉えていてもおかしくはない。

 にもかかわらず、マルタイ一の姿が見えないのである。

 どこかに隠れようにも自動車はおろか、自転車ですらすれ違うのも一苦労なほど細い路地だ。塀を乗り越えて民家に逃げ込むか、それこそ石垣になった外壁をよじ登って鎌倉別荘の敷地内に入りでもしないかぎり、身を隠せるような場所はない。

 だが、遠目にも判るほど肩で息をしていたマルタイ一にそんな体力があるとは到底思われなかった。


 ──いや、そうじゃない。


 マルタイ一の息も絶え絶えと言った様子、それが演技だったとしたら、どうだろうか?


 そのことが意味するところに気づいた〝主任〟が、とっさに袖口に隠した無線のマイクをもちあげるのと、路地を抜けた新人にむけて、あろうことか鎌倉別荘の正門の門柱に寄りかかって待っていたマルタイ一が「いよぉ、ごくろーさん」と軽い調子で声をかけるのは、ほぼ一緒だった。


           ※



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