第三章 そこのけそこのけ 公権力がとおる

その1 カランビットナイフ と 観光公害 の昼下がり

「おまえら〝S〟ってえのは何か? あんな見え見えの与太話にコロッて引っかかっちまうような残念な奴に二部担当させてたりしたのか?」

「人事についての文句は俺みたいな現場じゃなくて市ヶ谷に言ってくれ」


 小声で言い争いながら材木座のマンションを後にした火箱と先崎は、合鍵を返すためにふたたび神永の実家のある極楽寺へと向かっていた。


 結局、マンションに残されていたPCとゲーム機から得られたのは、神永がいわゆる陰謀論に嵌まっているらしいということと、「大菩薩峠での作業」というものに参加しようとしていたということ、そしてどうやらカランビットナイフを持ち出しているらしいということだけであった。

 鉤爪状の刃と、柄にあるリング状の指掛けが特徴であるカランビットナイフは、その独特の形状を活かしたシラットと呼ばれる格闘術の武器であり、世界中のおおくの国で特殊部隊の近接戦闘用ナイフとして広く採用されていることでも知られている。

 それは日本も例外ではなく、陸上自衛隊の特殊作戦群や海上自衛隊の特別警備隊(SBU)でもカランビットナイフを用いた近接戦闘は必須技能であった。

 よって元〝S〟隊員である神永が、私物としてカランビットナイフを所有していたとしても何ら不思議なことではない。

 だが、問題はいったい何の必要があって持ち出したか、ということだった。


「けどまあ、いくら殺傷力が高いといっても本来は農作業用のナイフだろう? 山でのアウトドアに使うために持っていった可能性だってあるんじゃねえか?」

「ないな。一ミリも」


 観光客の団体に挟まれるようにして信号待ちをしながら、火箱が半ば自分に言い聞かせるようにつぶやいた言葉を、先崎は言下に否定した。


「モダンカランビットほど普段使いに向かない刃物もないぞ? 俺も何本も持っているけど、せいぜいAmazonの段ボール開けたりバラしたりするくらいしか使い道ないからな?」

「おまえさん、そんなことに使ってんの?」

「紙ゴミの日に、カッターが見当たらない時だけな」


 それよりも気になるのは大菩薩峠って場所のほうだ、と先崎は憂鬱そうにいった。


「行ったことはないが、かなりの山奥だろう? うろ覚えだけど、たしか大昔テロリストが猟銃もって立て籠もったことがあったとかなんとか……」

「それはたぶん、あさま山荘事件のことだな。まあ似たようなもんだが、大菩薩峠事件ってのはもっとトホホな事件だぞ?」


 世にいう〝大菩薩峠事件〟は、学生運動華やかなりし六〇年代末、共産主義者同盟赤軍派が山梨県と長野県の県境に位置する大菩薩峠の山荘『福ちゃん荘』に潜伏し武装蜂起を目的とした軍事教練をおこなっていたところを警察が強襲、凶器準備集合罪でメンバー五十三人を検挙した事件である。

 字面だけ見れば国内で戦争でも起こす準備を整えていたかのようにも思える事件だが、その実態はかなりお寒い内容であった。なにしろ参加者の大半が高校生だったり、軍事教練と言っても二列でお手製の爆弾や火炎瓶を投げる練習をするばかりであったり、そもそもあちこちで武装蜂起計画を吹聴していたために警察はおろか、新聞社にまで嗅ぎつけられて張り込まれたというのは、あまりにも有名である。

 火箱がこの一連の騒動について知るきっかけとなった大学教授の弁によれば、当時の学生運動が「革命ごっこ」と揶揄される理由のひとつが、この〝大菩薩峠事件〟であったらしい。

 しかし、いくら実態が「革命ごっこ」でしかなかったとしても、すくなくとも〝軍事教練〟を行なうのに適した場所だと判断される程度には大菩薩峠が奥まった山であることに変わりはない。


 はたしてそんな場所で、反ワクチン・DS陰謀論を信奉する神永がカランビットナイフを手に参加する「作業」とは、いったいどのような活動であるのか。

 現段階では具体的なことは何も判明していないとは言え、どうにも嫌な予感しかしないのは火箱も先崎も同じであった。


「なあ、ヒバ。瑠理ちゃんと神永のお袋さんに、なんて言えば良いんだろうな?」

「余計なことを言うんじゃねえぞ、サキ。まだ何が判ったってわけじゃないんだ。とりあえず〝目下、調査中〟だと答えておけ」


 火箱が不機嫌そうに返したその時、歩行者信号が青に変わった。

 信号待ちをしていたひとびとがいっせいに動き出す。添乗員に連れられた中国人団体客に、家族連れの韓国人客。白人の老夫婦やバックパッカーの青年、よく見れば義足であるガタイの良いヒスパニック系の男性とその仲間たちは横須賀あたりに勤務する米兵か。それら外国人観光客にくわえて、修学旅行らしき中・高生のグループがふたつも三つもいる。

 そんな溢れかえる観光客のあいだを縫うように歩きながら、火箱は正面を向いたままいった。


「ところでサキよ。おまえさん、気づいているか?」

「ああ、もちろん。オーバーツーリズム、観光公害ってのはほんとうだな」

「んなこと訊いてんじゃねえよ?」

「冗談だ。余裕のないやつだな」


 先崎は一瞬ニッと笑うと、すぐに真面目な表情になっていった。


「俺が気づいたのは二人。七時の方向に四十代男性、ジャケット、ノーネクタイ。三時の方向に二十代男性、一見サーファー風だけど日焼けなし、短髪」

「十時方向、自撮り棒をもったおぼこいオカッパと、毬栗頭の兄ちゃんのカップルもだな」

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