その3  依頼人は小学一年生

「あのねえ、凛ちゃん? いくらなんでもこれは──」

「待ちたまえ先崎専務、ここは私が応対しよう」

「せっ、専務ぅ?」


 事務所開設から約一年、ほぼはじめて専務あつかいされた先崎が素っ頓狂な声をあげる。

 しかし火箱はそんな共同経営者を無視してしゃがみ込むと、凛音のスカーチョの裾を掴んで隠れる幼い少女にむかって相好を崩して話しかけた。


「こんにちは、お嬢ちゃん。ここまでひとりで来たの? えらいねえ。あっ、どうぞどうぞ、お椅子に座って。麦茶飲む? それともジュースがいいかな? そうだよね、もう秋だってのにまだまだ暑いもんねー」


 常日頃から何かとぼやくか毒づくしかしない〝ぼやきスト〟の名をほしいままにしている火箱とは思えぬその柔らかい物腰に、凜音はもとより付き合いの長い先崎までもが狐につままれたような顔をする。


「どうしよう、トオルくん。なんか所長がキモいんだけど?」

「ううむ、これはおそらく離婚した奥さんと暮らす娘さんをその子にダブらせているんだろうな……」

「えっ、やだ不憫」


「はっはっはっ、聞こえてるぞー、おまえらー」


 火箱は笑顔のまま、こめかみを若干ピクつかせながらいった。


「さっきも言っただろう? 離婚じゃなくて別居。正確には夫婦仲に問題があっての後ろ向きな別居ではなく、事務所が軌道に乗るまでのあいだ仕事に専念するための、いわば単身赴任的な、前向きの別居だからね? まちがってもそこんとこ勘違いすんじゃねえぞ?」


「いやでもおまえ、黙って勝手に脱サラしたことで嫁さんと大喧嘩になったって言ってたじゃないか?」

「ああ、なるほど。それで離婚することになったんですね?」


「だーから、別れてないって言ってんだろうが!? 実際、俺の住民票は嫁と子どもが暮らす船橋のマンションのまんまだしね!?」


 反論する火箱の声に驚いたのか、幼い少女はふたたび凛音の後ろに隠れてしまう。


「あっ! ほらあ、所長がおっきな声を出したりするからあ!」

「落ち着け、ヒバ。こんなちっちゃい子を怖がらせるな」


「むう……」


 不服そうに唸る火箱をシッシッ!と手で追い払い、凛音は身を屈めて年下の友人の顔を覗き込んでいった。


「瑠理ちゃん、ごめんねー。こわいおじさんはもう近づけないから安心して。かわりに、こっちのおっきなお兄さんにお話を聞かせてもらえないかな」

「おいこら待て? なんで俺は〝おじさん〟なのに、サキは〝お兄さん〟あつかいなんだ?」

「気にしないでください。ただのキャラの違いです」

「キャラの違いってなんだ、キャラの違いって?」


 納得しかねるといった面持ちで、火箱が噛みつく。


「おかしいじゃないか、俺もサキも四十路のおっさんに変わりはないのに?」

「まて。俺はまだ三十八だ。あと二年ある」

「なーに言ってやがる、図々しい。結局アラフォーのおっさんであることには違いねえだろうがよ」 


「あーもー! ふたりともいいかげんにしてください! 所長はなんかしみったれてるから〝おっさん〟。トオルくんはわたしが出会った十年前から変わってないから〝お兄さん〟。もうこれでいいじゃないですか!?」


「〝しみったれてる〟たぁ、なんだ!? 〝しみったれてる〟ってえのは!?」

「そうだぞ、凜ちゃん。ヒバの場合は〝しみったれてる〟のではなくて、たんに日々の気苦労と疲れが滲み出ているだけだぞ?」

「おまえ、言っとくけどそれ、ぜんぜんフォローになってねえからな?」


 もはや少女はそっちのけでギャアギャアと言い争うファイアー&アサルトヒバサキ探偵事務所の面々。 

 いっぽう、そんな大人たちの醜い諍いを曇りなきまなこでジッと見つめていた少女は、何度かためらったのち小さく深呼吸をして「あのっ!」と声を張り上げていった。


「わ、わたしのまえのお家も! ふ、船橋! でした!」


 ちいさな身体であらんかぎりの勇気を振り絞って発したであろう少女の言葉に、四十代、三十代、二十代の大人たちは、それぞれ何か思うところがあったのか、きまり悪げに口をつぐんで目を逸らすのだった。


「そっ……そっかー。お嬢ちゃんもおじさんと同じ船橋市民かー。奇遇だねえ」


 咳払いをして、火箱は仕切り直すように言った。


「それにしても遠いところよく来たねー。千葉から大船まで電車の乗り換えとかたいへんじゃなかった?」

「あ、ちがいますよ所長。〝まえのおうち〟って言ってたじゃないですか? 瑠理ちゃんのお宅は引っ越して、いまは鎌倉の材木座に住んでるんですよ」

「おお、なるほど! つまり、きみは我が探偵事務所から二駅しか離れていないご近所さんなんだな!?」


 凛音が訂正し、先崎が言わずもがなのことを大発見かのような口ぶりで言う。

 たったそれだけのことだったが、不安と緊張でこわばらせていた少女の表情がわずかにやわらぐのを見て、大人たちは一様に安堵のため息をついた。


「じゃ、じゃあね? お嬢ちゃんがなんでウチに来たのか、その理由を教えてもらってもいいかな?」


 しかし火箱の問いかけに、少女はふたたび顔を強張らせて俯いてしまった。

 これでは埒が明かない。顔を見合わせた火箱と先崎は、助けを求めるように凜音をみやる。


「凜音くん、たのむ……」

「年齢も近いし、もともと知り合いの子なんでしょ?」

「まったく、いい大人が情けない」


 拝み手で頼む雇用主たちに、凜音は失望の色もあらわに嘆息する。


「じゃあ、わたしから瑠理ちゃんの依頼について話しますね。まず事の起こりは先日、わたしがひさしぶりに船橋に足を運んだことからです──」


         ※

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