山中、東屋にて

葉霜雁景

ある夏の記憶

 ――みんみんみんみん。みーんみんみんみん。


 蝉の合唱と、草木の青い臭いがする。背中には何か硬いものの感触があって、どうやら僕は寝ているらしい。

 目を開けると、木の屋根っぽいものと、はみ出た青空が見えた。精一杯な蝉の声を聴きながら、ぼーっとしていると、「起きたかな」と声がした。男の人の声だった。


 体を起こす前に、顔を覗き込まれる。綺麗な黒い髪と目に、白いシャツを着た、僕より年上のお兄さんだった。中学生だろうか、高校生だろうか。

 さっきも聞いた声で「大丈夫?」と言われたから、頷いた。でも、何が大丈夫なんだろう。気付かないうちに、熱中症にでもなっちゃったんだろうか。


「きみね、倒れてたんだ。茂みの中に倒れてて気付きにくかったから、見つけた時はびっくりしたよ。とりあえず、近くの東屋……あ、ここのこと。こういう所、東屋っていうんだけど。まあともかく運んできたんだ」

「……ありがとう、ございます。ご迷惑、おかけしました」


 とりあえず僕はこの、ひょろっとしたお兄さんに助けてもらったらしい。起き上がってもまだぼーっとしたけど、人から何かしてもらった時に言わないといけないことは、ちゃんと言えた。


「きみ、小さいのにちゃんとお礼言えるんだねぇ。ご迷惑をおかけしました、も言えるなんて。えらい。あ、そうだ。水飲んだ方が良いよ」


 僕の頭に伸ばされかけた手が、僕の隣を指さした。寝かせる時にお兄さんが取ってくれたのだろうか、僕の水筒が置かれている。氷をたっぷり入れたから、今にも落ちそうな大粒の水滴が、びっしり付いてしまっていた。

 水筒は冷蔵庫から出したばっかりみたいに、キィンと冷たい。流し込む氷水も冷たくて、一気にたくさんは飲めなかった。ちびちび飲んで蓋を閉じると、「もう良いの?」と向かいに座ったお兄さんが首を傾げる。

 お兄さんは半袖シャツの他に、黒いズボンとスニーカーを身にまとっていた。学校の制服っぽいけど、学校の名前やお兄さんの名前が入ってるはずの名札は見当たらない。


「……ありがとうございました、お兄さん」

「どういたしまして、無事で何よりだよ。ところで、きみは虫を捕まえに来たの? 網と籠持ってるけど」


 またもお兄さんが指さした、水筒があったのとは逆の方を見てみると、僕の虫取り網と虫籠が置いてあった。あと帽子も。黄緑色をした籠の中には、カブトムシが動いている。……カブトムシ?

 元気に動いているカブトムシは、背中に傷のようなものが付いている。ああ、そうだ。飛びづらそうにしてて、何とかしてあげようって、捕まえて……。


「それね、おれのなんだ。怪我してて飛べないから、逃げないようにしておいたんだけど」

「じゃあ、お兄さんはコイツを探しに来て、僕のこと見つけてくれたんだね」

「そういうこと。いやー、鳥にでも食われてないかって慌てて探しに来たら、人助けすることになるとは思わなかったけどね!」


 明るく笑うお兄さんは、僕と同じ小学生みたいだった。よく見ると綺麗な顔をしているから、笑い方も綺麗なのかと思ったけど。


「じゃあ、コイツはお兄さんに返すよ。自然に返すより、長生きしてもらった方が良いもんね」

「ありがとう。きみが保護してくれてて良かった。お礼したいけど、今は何も持ってないや……ごめんね」

「僕のこと助けてくれたでしょ、それでいいよ。熱中症に気をつけましょうって言われてるのに、なっちゃったら叱られるだろうから」

「あはは! きみはいい子だなぁ、本当に。そうだ、また倒れたら困るし、途中まで送っていくよ。あ、まだちょっと休んだ方がいいかな」

「ううん、大丈夫」


 水筒と網を持って、横向きの板一枚を壁に貼り付けたような腰掛けから降りる。もう頭はぼーっとしていなかった。


「忘れると悪いから、先にカブトムシ渡しとくね」

「え、でもこの籠、きみのじゃない?」

「後で返してくれれば良いよ。僕の名前は――」


 自己紹介しようとしたら、急に頭がぐるぐるし始めた。蝉の声がさっきより大きく聞こえて、頭が揺すぶられる。どうしてだろう。もう何ともなかったのに。


「おれに名乗っちゃ駄目だよ、きみのことは帰すから。警告を無視した挙げ句、無礼を働いたこいつらと違って、とっても良い子だからね」


 僕の小さな籠を肩に掛けたお兄さんが、微笑む。綺麗な顔で。


「籠もちゃんと返却するよ。お礼も、その時なら渡せるだろうし」


 ぐるぐるぐる。みんみんみんみん。耳鳴りと、蝉の声と。ごちゃごちゃな頭の中に、お兄さんの声は綺麗に響いた。

 お兄さんが、空っぽな僕の片手を握る。ひどく冷たい手だった。そういえば、家から出たときはあんなに暑かったのに、虫捕りに来た林の中も暑かったのに、この東屋は。


「じゃ、帰ろうか。からすが鳴いたら、帰らなきゃいけないんだろう?」


 みんみんみん。みーんみんみんみん。

 蝉が鳴く中に、青空の下に、手を引かれて、踏み出して――。






 ――カナカナカナカナ。カア、カア、カア。


 ヒグラシとカラスの合唱が、夕焼け空の下、田畑の上で交差する。

 僕は山の入り口、舗装された山道に突っ立っていた。いつ降りてきたんだっけ。ついさっきまで、虫を追いかけてた気がするんだけど。


「……ん?」


 虫籠がない。落としてきたのか。帰る前に探さないと。


「コラァ坊主! こんな時間に山ぁ入るんでねぇ!」


 引き返そうとしたら、怒鳴られた。びっくりして当たりを見回すと、僕がいる場所から見て下に停められた白の軽トラから、タオルを首にかけたお爺さんがずんずん歩いてくる。よく見るとご近所さんだ、うちのお祖父ちゃんと話してるのを見たことがある。


「おめが帰って来ねぇっけ、おめの母ちゃんが心配しとったがな。送ってやっから、はよ来い」

「で、でも、虫籠どっかに落としちゃって」

「そんなん明日にせぇ! こんな時間に山ぁ入るもんでねぇ。わりぃモンに連れてかれるぞ」


 がっしと腕を掴まれて、僕は引きずられるように道を下った。でも途中からちゃんと歩いた。確かに帰らないとお母さんが心配するし、一人だったら不審者に攫われるかもしれない。


「んだ、おめはちゃんとしてるっけな、母ちゃんたちも鼻がたけぇにちげぇねぇ。ちっと前に若いのが二人、近くの山に入ったまんま今も帰ってこねぇって、他の村で騒ぎになったすけ、おめもしばらく山には行くな」


 そういえば、学校でもそのことを説明されて、注意されたんだった。山は危険だから、一人で入っちゃいけないって。

 ……あれ。じゃあ、僕は何で、山の入り口にいたんだろう。そもそも、僕はあの山じゃなくて近所の雑木林で、虫を捕まえようと思ってたんじゃなかったっけ。


 何だか変だ。変だけど、何も思い出せない。僕は一体、何をしていたんだろう。


 ***


「ってことがあったんだよね、小学生の頃」


 歩きながら話し終えると、帰り道が一緒の友達および部活仲間数人は様々に騒いだ。「ホラーじゃん」「ばっか俺そーいうの苦手だって」「ビビリおつー」「じゃ今度オレんちに泊まってホラー鑑賞会しよーぜ」

 お前も参加するよな、と肩を組んでくる友達に相槌を打って、件の山がある方向をそっと見る。高校は実家のある集落からだいぶ離れているが、田舎で何も無いのは変わらないから、あの山がある辺りも普通に見える。


 あの後、何があったか詳細を思い出すことはできなかったけど、虫籠は無事に返ってきた。僕が立っていた山の入り口に落ちていたのを、戻ろうとした時に制止してくれたお爺さんが見つけて、届けてくれたのだ。

 虫籠には何故か、綺麗な円形の石が入っていて、とりあえず家の小さな金庫に保管されている。たまに出して磨いているけど、宝石でもないのに綺麗な石だ。


 石磨きがあるから、自分の身に不思議な何かが起こった、ということは憶えているけど、やっぱり詳しく思い出すようなことはなかった。でも、怖い気分になったことは無いから、恐ろしいことは起こらなかったんだろう。そう信じたい。

 けれど、祖父母や近所のご老人たちからはこうも言われた。「山は何が起こるか分からない。畏れる気持ちを忘れるな」と。実際、あの頃に付近の山で起きた、男子高校生二人が行方不明になった事件は、未解決のままなのだ。山では何が起こるか分からない。


「どうした、何か忘れもんでもしたか?」

「いや、ぼーっとしてただけ」


 ずっと肩を組みっぱなしの友人に首を振って、帰路に視線を戻した。


 あの夏の記憶は、いつか鮮明に蘇ってくるだろうか。真夏の青空のように、聞こえ続ける蝉の合唱のように。

 ヒグラシとカラスが合唱する夕空の下、毎年、そんなことをぼーっと考えている。

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山中、東屋にて 葉霜雁景 @skhb-3725

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