中編
その夜、布団に入った俺は、川原に竿を忘れたことを思い出した。
あの竿は親父に借りたものだった。無くしたとなれば、酷く叱られるだろう。そう思った俺は、川原まで取りに行くことに決めた。
家を出ることが親父やお袋にバレたら、絶対に止められる。だから、両親が眠りについた夜中の一時に、家を出ることに決めた。
当時、この辺りは田舎だったから、玄関に鍵をかけることなんてなかった。俺は鍵の心配をせず出掛けることができた。
引き戸を左から右に、ゆっくりスライドさせる。夜の静かな空気の中で、カラカラと戸が音を立てる。
俺の家からK川までは少し距離があって、歩きであれば到着するまでに三十分くらい時間がかかる。自転車は持っていたものの、車庫から運び出せば大きな音を立てるだろうから、俺は歩いて川原まで向かうことにした。親父達を起こさないためにな。
三日月の晩だった。月明かりは弱くぼんやりとしていて、辺りは紺に黒を溶かしたかのような暗さだった。辺りには煩くカエルの鳴き声が響いて、不気味で仕方なかった。
K川に到着すると、草を掻き分けて川べりに近付き、月明かりを頼りに竿を探す。生い茂る草は背が高く、太腿をサワサワと擽る。
「この辺りと思うんじゃが……」
生暖かい風は、草木の青臭さを巻き込んで、俺の鼻先を撫でていく。俺は夏の空気の中、独り言を呟きながら辺りを見回した。
そしたら、川原にやってくる子供の影を見つけた。見知った顔だ。
「純一、お前も来たんか」
純一だった。俺はそう声をかけながら片手を振る。純一もまた、俺に片手を振ってみせた。
「ワシ、竿を忘れてしもうてな」
「俺もじゃ」
竿の捜索に純一が加わり、俺は心強さを感じた。正直に言うと、あの時は暗闇が怖くて仕方なかった。
懐中電灯を忘れたことを、あれほど後悔したことはない。闇の中で草むらに手を突っ込むのは恐ろしかった。
草むらから跳ねて出る虫に一々驚きながら、俺は目を凝らして覗き見る。
やがて竿が見つかった。俺らが昼間座っていた場所に、無造作に取り残されていた。俺が釣ったオバケハゼが、竿の傍で干からびていたのだから、間違いようがない。
竿は三本。なんと、光太郎まで竿を忘れていやがった。仕方の無いやつだと、俺はせせら笑う。
「おい、光太郎の奴まで竿忘れちょるぞ」
純一に向かって声をかける。悪友の失態を一緒に笑ってやろうと思ったんだ。しかし返事がない。
「純一?」
もう一度声をかける。暗闇の中、俺の声は吸い込まれて消えていく。
先に帰ったのか? そう思って、俺は顔を上げた。
純一は、俺の隣で川を見つめて、ぼうっと立っていた。
「なんじゃ、脅かすなや」
俺は純一に近付いて肩を叩く。それでも純一は、ぼうっとしたまま返事をしなかった。
おかしい。普段騒がしい悪友が、こんなに無口なことなど有り得ない。不信に感じた俺は、純一の正面に回り込み、顔を覗き込んだ。
純一の両目は、白く濁っていた。
「うわあ!」
俺は、あんまりびっくりして後ずさった。
足が水に浸かる。夏の川は生ぬるい。加えて、川は工業排水で汚染されている。脹ら脛にまとわりつく水の感触が気持ち悪くて寒気がした。
足元を見る。俺は息を飲んだ。
「ひっ……」
足元で影が揺らめく。
魚影だ。それも、巨大な。
ハゼを真上から見た形に似ている。だが、人間と同じくらいの大きさのハゼがK川にいるなんて、聞いたことがない。
俺はパニックを起こして足をばたつかせた。
水に足を取られ、転び、川の水を飲んでしまった。口の中に残る汚水を吐き出し、川から這い上がる。飲み込んでしまった水を吐き出したくて喉に指を突っ込んだが、何も出てこない。
暫くゲーゲーやってたが、水が跳ねる音がして、俺は川を振り返る。
あろうことか、純一が川に向かって歩いて行ったんだ。
「馬鹿野郎!」
純一に声をかけるが、足が竦んでな。俺は膝立ちのまま純一の背中を見つめる。
突然水の中から、それは姿を表した。
女の人魚だった。ただし、おとぎ話で聞くような、美しい姿じゃない。
上半身は人間のものだが、下半身は魚。肌をびっしりと覆う鱗は土気色で、月明かりに照らされて、てらてら光っている。
顔にはやたらと大きい口。濡れた黒髪はべったりと顔に張り付いて、ギョロっと飛び出た両目を忙しなく動かしている。
それだけでも不気味で仕方ないのに、その人魚の恐ろしさはそれだけじゃなかった。
奴は、首がぐにゃり、腰がぐにゃりと曲がっていた。オバケハゼのように。
俺は腰を抜かしてしまった。
月並みな言葉だけどさ、人間って本当に怖い時は声が出なくなるんだよ。その時の俺は、情けなく歯をガチガチ鳴らし、体をガタガタ震わせた。
人魚はのそりと純一に近付く。
純一は人魚に顔を向けたまま動かない。そういえば、純一の目は白く濁っていた。もしや純一のやつ、目が見えていないんじゃないか? と思った。気色悪い人魚の姿を見て驚かないなんて、普通じゃないと。
人魚は、ギョロギョロした目で純一を舐め回すように見る。そして、徐に純一の頭を両手で掴んだ。
俺は息を詰まらせた。静寂の中、人魚の声が聞こえたからだ。
「……シタ…………シタ……」
人魚は、聞き取れない程の小声で何かを繰り返し呟きながら、純一の顔をじいっと見つめる。そして、大きな口をガパッと開いた。
子供の頭なら丸呑みできそうな大きな口の中には、鋭い歯がびっしりと生えていた。
俺の体は反射的に動いた。
立ち上がり、純一に駆け寄り、手首を掴む。そして純一を渾身の力で引っ張った。
人魚の手には鋭い爪があり、それが純一の顔を引っ掻いた。五本の蚯蚓脹れが、純一の頬に残る。
人魚の目が、ぎょろりと俺を見た。
何故そう思ったのか、今となってはわからない。だが、その時は唐突にこう思ったんだ。
こいつ、昼間に投げ捨てたオバケハゼなんじゃないかって。
俺の予想を裏付けるかのように、人魚は俺に訴えかける。
「ナゼ殺した……ナゼ捨てた……」
人魚は俺に口を近付けた。鋭い歯の一本一本が、月明かりに照らされギラギラと光る。
食われる。そう思った。
肌が粟立つ。
「うわあああああ!」
俺は絶叫しながら、純一を引きずって川から引き上げる。水に足を取られ、転びそうになりながら、必死で這い上がった。
陸地に上がり車道まで逃げる。ガードレールを超えたところで立ち止まる。
人魚が追ってくるんじゃないか。俺は恐怖を押さえつけながら、後ろを振り返る。
人魚が恨めしそうに俺達を見つめていた。だが追いかけて来ることは無い。
水飛沫を上げながら、人魚は水の中へと潜った。暫く波紋が広がり、やがて静寂が辺りに広がる。
「ん? 翔太、お前びしょ濡れじゃん」
唐突に純一の声がした。俺は、隣に立つ純一を見遣る。
純一の目はいつもの黒に、顔はいつもの生意気なものに戻っていた。
「うおっ! ワシもびしょ濡れじゃんか。なんじゃこりゃ」
そうやって慌てる純一は、いつもの喧しい純一だ。安心したら無性に泣きたくなって、純一の手首を握ったままワンワンと泣き崩れた。
「何泣きよるんか。怖くなってしもうたんか? 情けないのう」
お前のせいだ、馬鹿野郎。そう思ったが、その時は言い返すことができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます