オバケハゼを釣り上げた
LeeArgent
前編
これは、翔太こと俺がまだガキだった頃。スマホもゲームもなかった昔の話だ。
小さな頃は、俺も悪ガキでな。随分とやんちゃしたもんだ。
カエルの腹に煙玉を詰めて火をつけたり。
ザリガニに爆竹を挟ませたり。
トンボの首に糸を縛って凧にしたり。
数えたらキリがない。生き物の命を何とも思わない、ひでえガキだったよ。今は流石に、そんな惨たらしいことはしないさ。
それをやめるきっかけになったのは、ある日のハゼ釣りだった。
昔な、日本は随分と自然を汚していたんだ。公害ってやつだな。ほら、歴史の授業で習わなかったか? 高度経済成長期に、工場が有害物質を川に垂れ流してたって話。
俺が住んでたとこも例外じゃなくてな。近くのK川、わかるか? あそこの川なんて酷かった。水は酷く汚れてて、油だか何だかわからない、虹色に光る汚れが沢山浮いてた。とてもじゃないが、泳げたもんじゃなかったよ。
夏の暑い日だった。俺は、友達の純一、光太郎と一緒に、K川の河口へ釣りをしに行ったんだ。
馬鹿暑い日差しに文句を言いながら、タンクトップの胸元を掴んでバタバタさせてな。川べりに三人並んで、地べたに座った。
釣り糸に結んだ針に、そこら辺で捕まえたミミズを刺す。ミミズはウネウネ動いて暴れた。それがな、魚にとっては旨いご馳走に見えるんだ。
対岸の、草木の影が差している方へ向かって竿を振る。狙った所へ錘が落ちたら、浮きが立ち上がるまで糸を引く。
糸がピンと張ったら、座って待つ。
「翔太! 引いてる!」
その時俺の名前を呼んだのは純一だった。確かに、俺の竿はぐんとしなり、浮きは水の中に沈んでいる。
俺は一度ぐいっと竿を引く。魚の口に針を引っ掛けるためだ。そして、やや重たいリールを巻いて、水中から獲物を手繰り寄せた。
何故釣りをしていたのか?
当時のK川は、面白いハゼが釣れたんだよ。
「うげー! こいつも背骨曲がっとるわ!」
釣り上げられ、ビチビチと暴れる一匹のハゼ。それは、不自然な程に背骨が曲がっていた。背中側から見てS字に曲がった体は、とてもじゃないが魚には見えない。
「だはは! こりゃ、オバケハゼじゃ、気色わる!」
正に「オバケハゼ」という表現がぴったりだった。
背骨が曲がったオバケハゼは、いわゆる奇形と呼ばれるものだ。工業排水による汚染は、ハゼの見た目を不細工なものに変えていたんだよ。
「なあ、こいつ食えるんか?」
「知らん。じゃけど、こいつ食ったらお前も背骨曲がるんじゃないか?」
「それはいやじゃー」
光太郎と純一がゲラゲラ笑う。俺もつられてゲラゲラ笑う。釣り上げたオバケハゼは、当時の俺達にはオモチャでしかなくて、針から外すと砂の上に放り投げた。
オバケハゼは暫く跳ねて暴れていたが、じきに大人しくなった。エラをパクパクさせて必死に呼吸している様が面白くて、俺はそいつが死ぬまでそれを眺めていた。
惨いだろ。それが当時の俺らの遊びだった。生き物の命をオモチャにしていたんだ。
「お、俺のにもかかった!」
「ワシのもじゃ! せーので上げるぞ!」
光太郎と純一の竿が、しなってグイグイと主張した。二人は同時に竿を掴む。
光太郎はすぐにリールを巻き始めた。
「アホじゃのー。それじゃ魚に逃げられるわ」
純一はぐいっと竿を引く。そしてリールを巻く。
糸を全て巻きとるまで時間はかからない。純一はオバケハゼを一匹釣り上げたが、光太郎の針には何もかかっていなかった。
「アタリはあったんよ」
「竿をしゃくるんよ。そしたら魚の口に針がかかるけん、逃げんようになる」
「はあー。なるほどなあ」
光太郎は再びミミズを刺して竿を振る。水の中に錘が落ち、光太郎は少しだけリールを巻いた。
一方純一は、釣り上げたオバケハゼが予想以上に大きかったものだから、地面に転がして眺め回した。
「うわ、きっしょ」
俺もつられて純一のオバケハゼを眺めた。
俺が釣ったのとは違い、純一のオバケハゼは背骨が上下に隆起していた。目は、汚い水にやられたみたいで白く濁っている。鱗は土気色で艶がない。
あんまり気持ち悪いものだから、顔を顰めて目を反らした。
「なあ、オバケハゼの中ってどうなっとるんじゃろ?」
純一が呟いた。
「中?」
「中。ハラワタは普通のと同じなんじゃろうか?」
純一は、オバケハゼの尾鰭をつまみ上げて、暴れるハゼを半笑いで見る。
「見てみようや」
「はあ? やめーや」
「ただの魚じゃろうが。意気地ないのう」
止めた俺を純一はせせら笑って、ポケットから折り畳みナイフを取り出した。純一がそんな物持ってるとは思わなくてな。俺は驚いて純一に尋ねた。
「何でそんなモン持っとるんよ?」
「元々このつもりじゃったけん、親父の持ってきた」
「帰ったらどやされるぞ」
「こそっと返すけん、大丈夫よ」
純一のナイフが、ハゼのエラを抉る。ハゼは一層激しく暴れ、体をU字に曲げて絶命した。純一は魚の体を手の平で押さえつけて平たく伸ばす。
純一は魚を捌いたことがないようだった。
ナイフで力任せに頭を落とし、頭側からナイフを突っ込み腹を裂く。しかし力が強すぎて、中にある胃袋だか何だかわからない内臓まで傷付けてしまった。緑の草に赤い血が飛び散り、内臓がでろんと砂の上に落ちる。
このハゼは、釣り上げる前に何かを食べていたのだろう。どろりとしたものが内臓から溢れ出た。
「うわっ、くっせ」
「胃袋裂いたんじゃろ。下手くそ」
腐臭に似た、不快な臭いが辺りに漂った。耐えられない程ではなかったが、光太郎にもその臭いは届いたようだ。
「くさっ。何しとるん?」
「中開けてみよったら胃袋やってしもうた」
「げー。それどうするんよ」
「捨てるに決まっとるじゃろ」
純一はそう言いながら、どろりとした何かをナイフで掻き混ぜながらまじまじと見た。
おそらくハゼが食べたものだろう。辛うじて原型を留めているのは小さなカニ。それ以外は原型が何かわからないほどに、ドロドロに消化されていた。
「なあ、三枚おろしできるか?」
「三枚おろし?」
俺は、骨を見るために三枚おろしにしようと提案したが、それは上手くいかなかった。俺も純一も、魚を捌くのが下手くそだったからだ。力加減を誤り、ハゼの骨はバキバキと折れていく。
やがて、オバケハゼは原型が何だったかわからない程に、細かく分解された。
「こりゃ、もうダメじゃ」
「捨てよ捨てよ」
純一と俺は、ぐちゃぐちゃに解剖された魚を、乱雑に川へ投げ捨てた。
バラバラにちぎれた胴体、抉り出された内臓。それらはバチャバチャと水飛沫を上げ、油の汚れが揺らめく。
最後に放り投げられたのは頭だった。
魚の頭が、虹色に光る水面に浮かぶ。
その時、魚の白い目が俺らを睨んだような気がした。俺は背中に冷たさを感じて、体を震わせた。
暫く浮き沈みを繰り返した頭だったが、やがて水底へと沈んでいった。
「駄目じゃ。全然釣れん」
唐突に光太郎はそう言って、アタリのない竿を引く。リールを巻き上げると、ミミズは綺麗になくなっていた。
「餌だけ盗まれちょるわ」
「魚の方が偉いのう」
俺と純一はゲラゲラ笑って、光太郎は不機嫌に頬を引き攣らせる。
その後も、俺らはオバケハゼを釣り続けた。
光太郎の竿には全くアタリがないまま。一方、俺と純一は、あれから数匹釣り上げた。
あの時の光太郎は、本当に悔しそうな顔をしていた。だが結果的に、光太郎はオバケハゼを釣り上げなくてよかったんだろうと思う。
この後、俺は酷く恐ろしい思いをしたからだ。
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