第230話 神童が越えられぬ壁


 ようやく一段落したと言っていいだろう。


 クリストファーは机の上の書類等をまとめてファイルに挟むと、それを教授室の棚へと収めた。


教授せんせい、これで最後です。お疲れさまでした」


 クリストファーは机に向かって突っ伏してるエリザベスに声を掛けた。しかし、すでにエリザベスは夢の中の住人のようだ。返答はない。


――もうこんな時間か。


 気が付けば窓の外は深い闇に包まれている。おそらくエリザベスはこのまま朝まで目を覚まさないだろう。


 クリストファーはコートラックからエリザベスの上着をとるとそっと背に掛けてやった。季節は夏に向かって徐々に温かさを増しているが、昼着のままだと夜明け前の冷え込みにはまだ足りない。


 クリストファーは自分の荷物をまとめると音を立てないように扉を閉め、鍵を掛ける。

 教授室は王立大学の教授たちに与えられている部屋だが、スイートルームになっており、そのままそこで生活できる程の設備がそろっている。エリザベスもデリウスもそうだが、ほとんど自宅には帰らない傾向がある。

 要は用心だけの問題だ。

 部屋の鍵を持っているのが複数人いる、という事を除けば、教授室と自室に大きな差はないのかもしれない。


 校舎から外へ出るとやはりすこし肌寒さを感じる。

 クリストファーは両腕をこすって温めるしぐさをすると、もうほとんど灯りが残っていない街の方へと歩みを進めた。


 クリストファーの実家はメストリル南方の貴族領ラアナにある。つまり彼もまた下宿生だ。家はそれなりの商家で、充分に裕福な家系だ。メストリル王都メストリーデに定宿を構えられるぐらいの仕送りはもらっている。

 それに、エリザベスからいただいている「バイト料」を合わせれば一人暮らしするには充分な資金となるどころか、やや手に余るほどだ。


 クリストファーの部屋は繁華街を通り抜けた先の雑貨屋の2階だ。とはいっても、この建物の大家は別の人物らしく、1階の雑貨屋と2階の居住区は全く別の独立した部屋になっている為、1階の雑貨屋の人たちとは出会った時に挨拶をする程度の間柄だ。

 現代日本風に言えば、いわゆる「アパート」だと言えばよいか。


 繁華街にはまだ明かりが灯っている店もあるがさすがにもう数えるほどもない。それにこのぐらいの時間でまだ明かりが点いている店というのは飲食店と言うよりは飲み屋の類か娼館ぐらいだ。


 そういえば、キールさんがかかわっている娼館があったなと思いながらもクリストファーは自宅へと歩みを進めた。


 ようやく自宅の建物が目に入ったころのことだ、不意に視線を感じて立ち止まる。ミリアの話によれば、どうやら僕たちには魔術院の監視が付いているらしいが、これまでにそのような気配を感じたことはない。つまり、こちらに対して敵意はなく、むしろ逆に陰から見守っていると言った感じなのだろう。


 だが、今感じているものは全く別のものだ。

 明らかに背筋に冷たいものが走る緊張感が沸き起こっている。


 皆様はお忘れかもしれないが、一応、彼も魔術師だ。ただ、錬成「1」で、平民出身ということで、魔術院の保護対象からは外れている。クリストファー自身は魔術式の展開は出来ないし、また、そんなことを忘れるぐらいにそれに対しての興味ももっていない。


 ある時ミリアが、せめて用心のために基本錬成術式だけでも学んだら? なんなら教えてあげるわよ? と言ってくれたことが在ったが、クリストファーの方にその気はなかったし、自分は研究の方に手いっぱいでそれに割いている時間がないと断った。

 それでも、枯れても魔術師の端くれである。そのぐらいの勘は働く。


「誰だい? そこにいるんだろう?」


 クリストファーが建物の隙間の闇に向かって声を掛ける。


 すると、その気配はすぅっと闇の中へ消えて行った。


 思い過ごしだったか? とも思わないでもなかったが、まあ声を掛けられて居直って出てこられた方が厄介なやつかもしれないと思いなおすと、かまわずそのまま自室へと戻った。


 クリストファーは自室に戻ると少し思案する。

 ――いったい誰だったのだろう? 

 しかしその答えなど全く思い当たる節がない。つまり、今考えても答えなど出るはずがないという事だ。


 ――なんだかんだと、やっぱり「あの人」の傍にいるといろいろと背負わされることになるんだろうな。


 クリストファーはふぅと一息つくと、寝床に入って横になった。


 キール・ヴァイス。


 国家魔術院から監視され、シュニマルダを壊滅に追いやった原因を作り、数年前の繁華街で起きたという焼死事件の「主犯」でもある。ミリアが思い焦がれ、三大魔術師だけでなく英雄王にも一目置かれており、ついには英雄王最後のパーティメンバーにもなった、『稀代の魔術師』。

 普段接していると、そんな顛末を抱えていることなど全くもって想像させない、飄々としたただの学生にしか見えない。

 両親は世界中を飛び回っている「演劇界の女王」と「稀代の天才画家」の二人だというのに、キール自身にはその才能の片鱗すら見えない。


 ――でも。


 明らかに差を付けられている。

 クリストファーには何もない。


 家柄は悪くはないが良くもない。財産も才能も魔法も何一つ彼に及ばないような気がするのはなんなのだろう。


 僕が彼にまさっているとすれば、それは、考古学しかない。

 唯一これだけは、


 そうなのだ。

 だから今更魔法なんて、そんなものにかかずらわっている暇などないのだ。


 僕はまだあきらめてはいない。


(だから、勉強と研究は手を抜かない、いや抜けないのだ。手を抜いたらあっという間に引き離されてしまうかもしれない――そうなった時僕はにはもう居られないかもしれない)


 ミリア――。


 目を閉じると彼女の弾けるような笑顔が思い起こされる。

 しかし、それの向かう先は自分ではない、彼女の隣にいるあの人へ向けられたものだった。


 クリストファーは、ぎゅっと目をつむると、闇への誘いを強く渇望した。 

 

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