第226話 それぞれの春、もしくは秋(1)


 クルシュ暦368年5月中旬――。


 『翡翠ジルメーヌ』とハルはまだメストリルに逗留とうりゅうしている。

 二人がこの国へやってきてからすでに2週間ほど過ぎた。


 『翡翠ジルメーヌ』によると、「エルルート」の方はそうたいして急がないでよいという事のようだ。


 現在エルルートの大地の季節は「秋」であると前に記した。つまりこの後は冬がやってくる。

 冬の間はこれも何故だかわからないが、魔物たちの行動は休息状態に入るらしい。言うなれば、「冬眠」だ。当然、全く全て居なくなるというわけではないが、人族に近づいてくる魔物が随分と減り、その強さもそれほど強大なものは現れないらしい。エルルート族にもそれなりの魔術師はもちろん存在しているため、警戒を怠らない限り、大規模な襲撃にあったりすることはない。

 そもそもこれまでにも、魔物どもが急激に増えたことはあっても、人里まで降りてきて人を襲うというようなことはあまり多くはない。山や湖岸などを訪れた者たちとばったり遭遇した場合に襲われるというようなことがあるだけだ。

 

 ――なので、向こうの冬が明けて、春になる頃に戻れば充分事足ことたりるという事だった。


 話を聞いてキールは、「まるで、クマやイノシシのようなものだなぁ」と思ったが、そう言えば、この世界にクマやイノシシはいるのだろうか、とも思った。

 牛や羊、豚、馬、犬、猫、鳥たちは見たことがあるし、牛や豚、鳥などは日常的にしょくしもしている。しかし、クマやイノシシは家畜化されていないように思われる。


――クマ、イノシシ? なんだそれは? ……ああ、グリズルと、ボアのことか? どちらも一部の地域に生息しているぞ? どこにでもいるというわけではないがな。


 ネインリヒさんに聞いたところ、そう言う事らしい。

 

 ということは、動物たちのラインナップは前世の地球とさほど変わらないと思って差し支え無さそうだと、キールは前世の記憶を引っ張り出しておく。今後そういったものに出会った時にどう対応するか知っておくのは悪いことではないだろう――、と記憶をたどってみるが、もちろんのことだが、原田桐雄の時であっても、クマやイノシシに山や川などで遭遇したという経験などない。

 せいぜい子供の頃遠足で行った動物園の檻の中をうろうろしているものを見たか、ニュースで誰彼だれかれが遭遇して襲われただのと聞いていたに過ぎないのだ。



 いずれにしても、その様な訳で、ハルはしばらくの間、王立大学の留学生と言う取り扱いとなり、国家魔術院の訓練生という肩書も付け加えられ、日々勉学と訓練に明け暮れることとなった。


 そして『翡翠ひすい』は、先輩魔術師として特別講師に任じられ、魔術院において特別講義・訓練の枠を設けられ、魔術院の魔術師たちに指導するという事になった。

 もちろん言うまでもないが、この特講にはハルはもちろん、キール、ミリア、そしてアステリッドも参加させられていた。


 何かにつけて「キール一味」には魔術院の監視の目が光っているので、一時的にもその監視の目を緩めることができるのは、魔術院――とくに常にキールに張り付いているミヒャエル・グリューネワルト。彼にとってはとても貴重な時間だ――にとってもちょうどいい息抜きにもなる。


 

 キールは、先日の『氷結』との対戦から数日後、『氷結』に直に頼み込んで、体術の訓練を付けてもらっていた。見返りとして何を要求されるかと半ば冷や冷やしてはいたが、『氷結』はただ、構いませんよ、と一言言っただけだった。それ以来、週に2回の体術訓練を受けているというわけだ。

 現在キールは、魔術院特待訓練生として、魔術院の魔法訓練に参加しているが、やはり一定の体術は身を護るうえでも必要であるし、体力がつくことは術式の安定や精度の向上にもつながる話であると、訓練開始後に気付かされたところもある。

 どうせ習うのであれば院長から直接の方がいいに決まっている。あの体術は、知っておいて損はない上に、ニデリックとそれなりに近くなるのももう特に敬遠することでもない。

 一度負けてしまえば、それでもう充分だ。

 ニデリックの方もキールをそれほど警戒することもなくなるだろうし、何よりもあの人の考えに触れるのは万の得があったとしても一分いちぶも損などないはずだ。――たぶん。


 事実、その体術訓練の成果は先日のハルとの対決の折に早速効果が表れた。最後に放った膝蹴りはニデリックの指導によるものの一つだ。

 実際やってみると、自分にはなかなか合っているようにも思う。体術と言えば、あの元暗殺者のジルベルトのことを思い出すが、残念ながら今あいつは、ジェノワーズ商会の仕事の都合でウォルデランに行ってしまっていて、メストリルにはほとんど戻ってこない。


(今度帰ってきたら、驚かせてやろう――)


と、キールはほくそ笑んでいた。


 そんな感じで、キールたちの春はゆるりゆるりと過ぎてゆく。



 ――はずだった。 




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