第148話 愚か者エリック

 エリック・ミューランはエリザベス・ヘアの教授室の前で、落ち着かない様子でうろうろしている。

 

 この間の南のバレリア遺跡への探索レポートが書きあがったから来てほしいとのメモが届いたため、出会う口実ができたと喜び勇んで駆け付けたのだが、引き換えに渡そうと思っていた、演劇の鑑賞券を社のデスクの上に置き忘れてきてしまったのだ。


(まったく、何をやっているんだエリック! 今日渡さないと次と言ってもなかなか機会がないのだぞ? 早く取りに戻るんだ!)

(いや、待てエリック! エリザベスは忙しい中を時間を作ってくれてるんだ、それなのに、お前が忘れ物をしたと言って約束の時間に遅れたら、軽蔑されるかもしれない。そんな男の誘いに応じてくれるものか! 次回を待つんだ、エリック!)


 エリックの頭の中で二人のエリックが凌ぎ合っている。

 それでさっきから、教授室の前を行ったり来たりしているのだった。


 ここから社まで走れば10分足らずというところだが、往復で考えれば20分ほどかかってしまう。約束の時間まではあと5分もない。さすがに間に合うはずがない。しかし、演劇の公演日は今週末だ。今日渡さなければ、おそらく無駄になってしまうだろう。


(ああ、なんて僕は愚かなんだ――。こんなに大事なものを忘れてくるなんて――。なくしちゃいけないと思ってカバンから出して、机の上のフォルダに挟んでおいたことをすっかり忘れていた――。カバンに入っていると思ってたんだ。今確認したら入ってなくて、そのことを思い出した。馬鹿すぎる――。情けない奴だ――)


 どうしようかと、行ったり来たりを繰り返しているところに、廊下の向こうから人が近づいてくる足音が聞こえた。


 エリザベスだ――。

 彼女の歩き方の特徴はすでにエリックの脳に焼き付いている。彼女がいつもはいている靴もだ。だから、廊下に響く音で彼女だとわかる。


(ああ、さすがにもう間に合わない、諦めるしかないのか――)

エリックは肩を落としてようやく扉の前で静止した。



******



 エリザベスが教授室のある廊下に入ると、自分の部屋の前あたりに人影が見えた。

 あの背格好は、エリックだ。


 あの人らしいと言えばそうだが、時間より少し早い。別にちょうどでなくても少しぐらい遅れたってなんともないのになと思いながらも、徐々に近づいてゆく。もちろん、駆け出して、「ごめん、待たせたわね?」などと声をかける女学生のようなことはしないし、そんなこと学生の頃でもやらなかった。


 つまり、「がら」ではないのだろう。


 自分のそういうところが、少し嫌いでもある。なんと言うか、「落ち着いている」とか、「大人っぽい」とかよく言われたものだが、裏を返せば、「可愛くない」という最大公約数に集約されているということだ。


 まあ、この年になって「可愛い」などと言われても、まともに受け取れるわけはないのだから、今更と言えば今更なのだが。

 

 

 そんなことを思いながらも、落ち着いて、ゆったりとした歩調でエリックに近づいてゆく。

 エリックもさすがに気付いたようで、ハンカチを取り出し、汗をぬぐい、軽くお辞儀をする。


「や、やあ、ベス。原稿ができたと聞いて、跳んできたから汗をかいてしまったよ。10月だというのに、まだまだ暑いね?」


 今日はそれほど暑くはない。どちらかと言えば涼しい方だとエリザベスは思ったのだが、それをとがめるほどに「可愛くない」わけではない。


「あら、そう? エリック、もしかして走ってきたの? 走ったらそりゃあ汗もかくでしょう?」


「は、はは、確かにそうだよね。そうかもしれない――」


「ふふふ、じゃあ、部屋に入ったらお茶でも入れるわ? あなた、クラーサ茶はいけるほう?」


「あ、ああ、あの西の地域の紅茶だよね? 少し甘い香りがするけど、大丈夫、好きな方だよ?」


「そう、よかったわ。さぁ、どうぞ――」

そう言って部屋の鍵を開けたエリザベスは先に部屋に入ると、エリックを中へいざなった。



 一通りの打ち合わせを済ませ、冷めてまだ残っていたクラーサ茶を飲み干すと、エリックは立ち上がろうとカバンを脇に寄せようとした。

 その時、耳を疑うような言葉をエリザベスから聞いたのだ。


――ねえエリック、あなた、演劇は観るの?


 胸をえぐるような、痛烈な痛みを覚える。

 そうだった。もう諦めていたから思い出さないように心の奥底にしまい込んでいた出来事がまた改めて表に顔を出したのだ。


「え? えっと、どうして?」

やっとのことで言葉を返したが、正直、声がかすれ気味で不気味さ全開かもしれない。


「今週末の王立劇場の定期公演。あの人の演劇なのよね――。わたしもいつも見るわけじゃないんだけど、あの人のだけは観てるのよ。でも、今回は、鑑賞券が手に入らなくてね? ほら、ちょうど遺跡に行ってたでしょう? その時だったのよね、鑑賞券の発売――」


「う、うん、そう、だったね――」


「それで、ね。ちょっとズルいんだけど、あなたのとこのメストリル王立出版って、たしか協賛していたわよね? 何とかならないかなぁって――。ああ、別に無理にじゃないわよ? 残ってたりしないかなぁと思って――」


「――あるよ」


「そうよね――。そんなに都合が言い訳な――、え? 今なんて?」


「ねえ、ベス。僕とでよければ、一緒に、どう、かな?」

「――え? あるの?」

「う、うん。2枚、とっておいた――」


「え? ほんとにいいの? あなた、別の誰かと行くつもりだったんじゃないの?」


「いや、実は、今日渡そうと思ってたんだ――。君がよければ、一緒にどうかなと思ってね。でも、社の机の上に忘れてきてしまった。だから、当日、ここで待ち合せない? 迎えに来るから、一緒にいかないか?」


「え? 私を誘うつもりだったの?」

「う、うん。他に誘う相手なんていないしね。そもそも、君を誘おうと思ってとったチケットだから――」


 さすがのエリザベスも、この時ばかりは歓喜して飛び上がらんばかりだった。

 エリックもこんな様子のエリザベスを見るのは初めてだ。

 そうだ、いつか見た、あの男子学生に対する自然な笑顔、あの時よりもっと溌溂はつらつとしている。


 エリックはそんなエリザベスを見て、初めて「可愛い人だなぁ」と思った。





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