第82話 一つの結末


「キールさん、戻ったのですね――」

クリストファーはキールの姿を確認すると。一言そう言った。



 王立書庫のいつもの個室に授業が終了してから向かうのがクリストファーの日課になっている。

 大抵はミリアの方が先に授業が終わっているので、クリストファーが行く頃にはミリアはすでに研究を始めているのがいつものことだった。



 王立大学に入学して間もないころ、クリストファーはこの才色兼備で高貴な家柄出身、しかも国家魔術院の期待のホープである彼女のことを知った。

 校内でたまに見かけるたびに、その目を奪われたが、自分とは住む世界の違う人だと、接する機会は全くないだろうとそう思っていた。


 しかし、その機会は不意に訪れた。

 王立書庫で、自分が研究している「バレリア文字」に関する書物を手に取っているミリアを見かけたのだ。


 一度だけでは偶然かもしれないとそう考えていたクリストファーはそこから数日、王立書庫を訪れて確認していた。今思えば、ミリアから見ればあまり小気味のいい行動とは言えなかっただろう。しかし、当時のクリストファーにはそんな余裕などなかった。

 その後も何度か同じ行動を見かけた。やはり間違いない。「バレリア文字」について調べているようだ。


 意を決して、ミリアの個室の扉をたたいた日は、惨敗に終わった。

(ありがとう、クリストファー、気にかけてくれて。でも、それは私には必要ないわ――)

 あの時の言葉は今でも鮮明に耳に残っている。


 これで、もう彼女との接点は訪れないとそう諦めていた。努めて平静を装ってはいたが、内心は心臓が飛び出るほどの緊張の連続だった。

(お話しできただけでも、いいじゃないか。それすらできないと思っていたのだから――)

 そうクリストファーは自分に言い聞かせていた。

 それから数日後――。


「クリストファー・ダン・ヴェラーニ君、少しお付き合いいただけるかしら?」


 同級生の級友たちと校庭で輪を作っている時だった。

 ミリアから唐突に声を掛けられたのだ。本当に驚いたことを今でも覚えている。その胸の高揚を周りの級友たちに悟られぬよう振舞うのが大変だった。


 あれから約半年の間は、毎日がとても充実していた。個室で目の前に座るミリアの真剣な面持ちを眺めるのがとても心地よかった。


 クリストファーは自分の胸に湧きおこる感情が何なのかを、すでに自覚している。

 しかし、これはおそらく叶うことはない希望だ。

 それについてはすでにもう心の整理はついていた。


 なんと言えばいいだろう。

 例えば「あこがれの先輩」という存在だろうか。

 同じ空気を味わっている間はとても幸せな気分になる。話ができると当然気分が高揚する。そばにいて、相手の体温を感じるぐらいの距離に近づけば、その香りや息遣いに酔いしれる。

 そこまでは恋心とさして変わらない。  

 しかしそこからが全く違うのだ。

 結論から言えば、「それで満足」なのだ。

 触れたいと思わないわけではない。しかし、奪われたくないとは思わない。

 幸せにできればいいと思わないわけではない。しかし、幸せにしてくれる人がいればいいとそう思う。


 そういう気持ちに今は落ち着いている。

 今日もミリアに会える。それだけでもうクリストファーには充分だった。



 いつかこの日が来るとは覚悟していた。

 自分では絶対に引き出せない彼女の弾けるような笑顔。


 個室の扉を開けて最初に飛び込んできたのは、そんな彼女のこれまでに見たことがないような輝く笑顔だった。


 クリストファーは気持ちを押し殺して、一言、


「キールさん、戻ったのですね――」

と言うのがやっとだった。

 


 後年、彼は自叙伝の中でこの時のことをこう語っている。

『あの時のことは今でも覚えている。本当にその場に崩れ落ちなかったのが不思議ななくらいの衝撃だった。それでも私はその時感じたのだ。ああ、彼女はなんて幸せそうなんだ、ってね。それが私を踏みとどまらせたんだろうね――』(『四賢者の邂逅について語る』クリストファー・ダン・ヴェラーニ著/王立出版刊より一部抜粋)

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