第80話 行く先は王都メストリーデ
クルシュ暦367年2月初め――
キールはついにカインズベルクを離れることになった。
この街で過ごした一年はとても濃密な時間だった。おそらく後々になってもここで過ごした一年が一番長く感じるのかもしれない。
下宿宿を離れる日、メイリンさんは笑って送ってくれた。職業柄これまでもいろいろな人たちとの別れを経験しているだろう女主人は、別れ方をよく知っている。
長い人生の中であれば、また出会うこともあるだろう。
むしろ、いつかまた出会いたい人だと思わせる、そういう別れ方が大切だ。
ケリー農場の親方とおかみさん、ハンナさんにはお世話になった。昨日3人には別れを告げている。
みんないい人たちばかりだった。
ネール横丁のあの「うどん屋」では昨日、最後の晩餐をとってきた。
しかしキールは予感していた。
おそらく近い将来この街に戻ってくるだろうと。
この時のキールの予感は数年後現実となるが、それは後段に譲るとしよう。
帰りに馬車を使うことはもちろん考えていたが、もう一つ試してみたいこともあったため、ヘラルドカッツ王国王都カインズベルクからメストリル王国王都メストリーデまでの中間点、ケライヒシュール王国王都ケライヒライクまでの間は徒歩で行くことにした。
しかし、あまりに時間がかかるようだと途中の中継点から馬車を使うことにするつもりだ。
試してみたいこと、それは、『空間転移』術式の有効活用法を見つけ出すことだ。
残念ながら『幽体』の方は、「場所を移動すること」は出来なかった。自身の体を「思念体」のようなものに変換して、次元のはざまに一時的に潜り込む効果であるのだが、物質世界つまり現実世界へ戻る場所は一つしかなかった。入ってきた場所だ。
そこでキールは考えた。
(もし、『空間転移』で、その「出口」を移動させたらどうなるのだろうか?)
我ながらとんでもない発想をしたものだ。
次元のはざまから脱出するための出口は一つしかない。だが、その出口そのものが移動させることが可能なものだったとしたら――?
それを試してみたい。
しかしさすがに人の多い場所ではできない(人が空間からいきなり現れたらさすがに大騒ぎになるだろ?)だろうから、道中の適当な場所を見つけて試してみようと思っていた。
気を付けなければならないのは、街道周辺は警備兵が魔物の掃討を常に行っているため、狂暴な魔物は出現しないが、街道を離れすぎるとその範疇ではないことだ。
今のキールであれば、ある程度の魔物には対応可能かもしれないが、キール自身まだ魔物と対峙した経験がなく、対魔物戦闘の経験はゼロなのだ。
知らないものと対峙するのは、非常に危険なことだということぐらいはわかる。
カインズベルクを出る前の日、アステリッドには先に帰るという事を告げていた。
大学の後期試験は入学試験より前だ。
キールは一年前の後期試験を受けていない為、幾らかでも単位を取っておきたい。王立大学に戻るのなら一年棒に振った分、これ以上卒業を遅らせるわけにはいかなかったのだ。つまりは金銭事情によるものだが――。
ただでさえ二重生活で、もともと両親が送ってくれていた資金も予想以上に出費しているため、大学の学費に充てる資金も心もとないという事もある。
アステリッドは遅れて後を追うということを言っていた。入学試験も大学の後期試験後すぐ行われるからだ。
ひと時の別れを告げて、昨日「うどん屋」で、最後の晩餐となったわけだ。
キールは荷物をまとめて輸送商へ持っていき、輸送を依頼すると、街道を歩き始めた。
2月初めであれば、まだまだ春は遠い。通常の人であれば防寒をしっかりして歩かないとかなりつらいことになるだろう。しかしそこは魔術師だ。こういう時魔法はかなり役に立つ。
キールは魔法「火炎」と「水生」をうまく使って、温かい空気を生み出すと、それを衣服の間へ流し込んでゆく。こうやって密閉性の高い衣服を着ていれば、体に直接冷気があたることを防ぐことができるのだ。
(これ、結構使えるな。あったかいや――)
確かに部分的にその温気を流し込むことができない場所もあるが、そこは我慢するしかない。しかし、人体の要所を温めておけば、血液がその温度を体中に伝えてくれるため、凍えることはないはずだ。
さあ、帰ろう、メストリルへ。
一年前は当てもなく進んできたこの道を、今回はしっかりとした目的をもって歩くことができる。
(ホントに目的というのは大事だな。歩く足取りが去年とは全く違って軽いよ――)
キールはまた新しい目的をもって歩み始めたのだ。
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