2話

 ユタは事情を聴く前に、アメリアの治療を優先させた。

 全身に回った毒の所為で、アメリアの顔色が死人のそれと言ってもおかしくはない色をしていたからだ。

 指の先を切って出てきた血液の色を確認すると、ユタはすぐに回復術式を展開させた。


「光の精霊よ。我が声に応え、その光を授けたまえ――《妖精の雫フェアリー・ドロップ》」


 小さな光がアメリアの周りを瞬いたかと思うと淡い緑の魔法陣が彼女の身体に浮かび上がった。

 毒を消しているのか、魔法陣が浮かび上がった場所から順に元の肌色へと戻っていく。


「……これで、ひとまず安心ね。それで? 一体何があったの?」


 シアンはそっとレオンの方を窺った。

 じっと己を見つめ返す同じ色の眼に、ぐっと奥歯を噛み締める。

 レティの言葉が脳裏に反響する。


(既に本部に所属している騎士への確認は取れた。――たった一人を除いてな)


 他言無用で頼むと言ったのは自分だが、妹であるユタに事の次第を伝えないのは筋が違う気がした。

 押し黙ったまま唇を開きそうにないシアンと、アメリアの手を握ったまま唇を噛み締めるレオンにユタは溜め息を吐き出す。


「無理に聞き出したいわけじゃないの。貴方が私に言っても良いと思える時がきたら、教えてくれる?」


 苦笑する彼女にシアンは頷き返すのがやっとだった。

 本部からホロが消えたことはその後の調査報告で、嫌でも耳にする羽目になる。

 けれども、シアンは今ここでユタにそのことを伝えなかった。

 それは人一倍優しい同期を気遣ってのことであったが、夕刻に開かれた会議でその見解は改めざるを得なくなった。


「……そうですか。兄さんが」


 ユタは最初、酷く落ち込んでいたように見えた。

 彼女の隣に座る桔梗も動揺を隠しきれず、視線がおろおろと宙を泳いでいる。


「ユタさん、」


 桔梗がそっと肩に手を添えると彼女は常の柔らかな表情を一瞬だけ痛そうに歪めた。


「大丈夫よ、桔梗。どこかで兄さんが関わっているような、そんな気はしていたから」


 ユタはそう言って立ち上がると、後ろに控えていた自分の部下から小瓶を二つ受け取った。


「これは兄さんが桔梗から受け取った小瓶。こっちはレオンから受け取ったものです。二つを分析した結果、桔梗と桜花ちゃんの術式が展開されたのは兄さんがこの瓶の中身に触れてからだと言うことが判明しました」

「何だと……!?」


 これには普段温厚なクラウドも黙ってはいない。

 ガタリ、と乱暴な音を立てて椅子から立ち上がった彼に、ユタは座ってください、と身振りで伝える。


「この中に入っている黒い欠片。割れた側面が刃物に似ていたことに気が付いて、文献を探してみたんです。すると、これが出てきました」


 ユタが机の上に置いていた古い文献を開いた。すると、彼女の部下が文献を手書きで書き起こした書類を皆に配り始める。

 全員に書類が行き渡ったのを確認すると、ユタはある一文を読み上げた。


「古の大戦にて、旭日を封じ込めた剣『[[rb:鳴雷 > なるいかずち]]』。その刀身は黒き龍、華月の鱗より造られており、その刃で傷を付けたものの魔力を吸収せん」


 ハッと桔梗が息を呑んだ。

 面の男に傷を付けられた左肩に触れて、唇を噛む。


「どんな経緯で兄が、ホロがコレを入手したのかは分かりませんが、その欠片を取り込んだ武器で桔梗たちは攻撃されたのではないかと思われます。そして、この結界魔導石を破壊した欠片も同じものだと、彼が証明しています」


 ユタの肩が、僅かに震える。

 桔梗は気丈に振舞う彼女を見て、深く息を吸い込んだ。

 そして、徐に立ち上がると、クラウドの目を真っ直ぐに見つめる。

 彼はそれだけで、桔梗が言わんとしていることに気が付いたのだろう。

 微かに瞳を揺らして、それからゆっくりと首を縦に振った。


「……[[rb:華月 > かげつ]]様、どうぞお姿を見せてください。大丈夫です。ここには私の信頼する者しか居ませんから」


 桔梗の声に驚いたのは、その場に居た騎士だけではない。

 彼女に名前を呼ばれた華月本人も動揺を隠せない声で、桔梗を諌めた。


『なりません、桔梗。妾が外界に姿を出せば、旭日に見つかってしまいます』

「先程の報告を聞いたでしょう? 旭日は深手を負って、本部に居たというのに私たちの魔力を感知できなかった。叩くなら今です」


 頑なな桔梗の声に、華月は短く溜め息を吐き出すと、刺青から姿を現した。

 突然、眼前に現れた黒髪の美女に、騎士たちの息を呑む音が部屋の中に木霊する。


『妾は華月。東の地を守りし、黒龍。妾はこの者、桔梗を依り代として今日まで旭日を監視していました。そして、旭日もまた霊王宮から消えた妾の行方を探っていた。その所為で皆にも迷惑を……。申し訳ありませぬ』


 華月が髪と同じ色の睫毛を伏せる。

 最初に言葉を発したのは、それまで一言も声を出さなかったシアンだった。


「では、霊峰で龍が死んだのも、旭日が貴女を誘き出すために仕組んだことだったのですか」


 銀青の姿が、脳裏を過った。

 華月がこくり、と頷く。


「何の罪もない龍や人を、貴女を誘き出すために殺したと?」

「止めてください! 大佐!!」


 そんな理不尽なことがあっていいのか、とシアンが問い質したくなる気持ちは痛いほど、よく分かる。

 けれど、華月には何も出来なかった。

 争いが嫌いな彼女にとって、例え相手が堕ちた同胞であっても旭日を傷付けることは出来なかったのである。

 だから、彼をあの場所に封じたのだ。

 華月はハッと、顔を上げた。

 旭日の身体はまだ完全に目覚めてはいない。

 その証拠に、彼はネイヴェスの血を引く者を依り代としていた。


『ユタ。貴女の一族で器と成りうる者は居ませんか?』


 突然、華月から投げられた言葉にユタは首を捻った。

 そして、ある人物のことを思い出すと「あ、」と小さく声を漏らす。


『居るのですね!?』


 華月の声にそれまで、小競り合いをしていたシアンと桔梗もそちらを振り返った。


「私は直接会ったことがないので分かりませんが、私とホロの異母兄にあたる人が『取り込む』力が強いと父が言っていたような気がします。……それから、何年か前に世界樹で行方不明になったとも」


 華月は膝から崩れ落ちそうになるのを寸でのところで堪えると、桔梗の方を見た。


『その者の名前は?』


「確か……アギア、アギア・サザーです」


 ゆっくりと息を吐き出して呼吸を整えると、華月は桔梗の手を握った。

 少しだけ冷えた指先の温度が鼓動と共に伝わってくる。


『まだ間に合います。それには貴女たち全員の力が必要です。どうか、今一度妾に力を貸してはくれませんか?』


 微笑んだ華月の眼には希望の光が宿っていた。

 先ほどまで怒りをぶつけていたシアンも、暫し惚けてそれに視線を奪われる。


「勿論です!」


 桔梗は満面の笑みでそう答えるのであった。



◇ ◇ ◇


 華月は中庭に出ると、その姿を本来の龍へと変えた。

 突然現れた巨大な龍に、事情を知らない騎士たちが何だ何だと中庭へ押しかける。

 その中にはシャムと桜花の姿もあった。

 桜花は華月の姿をその目に収めると、大勢の人が居るのも忘れ、自らも龍へと姿を変える。


『華月様!』


 桜色の龍は嬉しそうに華月の前へ頭を垂れた。

 若々しいその姿に、華月はゆるりと口角を上げる。


『桜花、貴女には礼を言わねばなりません。あの時、霊王宮から桔梗を救ってくれて助かりました』

『そんな……! 私はただ、華月様と姉様に助けて頂いたご恩を返したかっただけです』


 礼を言うならこちらの方だと、桜花は涙ながらに訴えた。

 あの祠で桔梗を庇った黒い炎が華月であると気が付いたのは、いつも祠に描かれている彼女の姿を見ていたからだ。

 黒炎に身を包み、空を駆ける我らが母に、桜花はいつも想いを寄せていた。


『これより妾の鱗を使って新たな「鳴雷」を生み出します。人々に危険が及ぶやもしれません。貴女の結界を張ってくれませんか?』

『ですが、私の結界は……』

『大丈夫。貴女が真に守りたいと願えば、その想いが力に変わります』


 華月はそう言って微笑むと、そっと瞼を閉じた。

 桜花が言われた通り結界を張るために、人の姿に戻る。

 そこへ遅れてシャムがやって来た。

 人の波を縫って走った所為かその額にはびっしりと大粒の汗が滲んでいる。


『初めまして、桜火龍の守護者よ。そなたも桔梗を守ってくれましたね。礼を言います』


 僅かに頭を垂れた華月にシャムは慌てて首を横に振った。


「そ、そんな! 止めてください!! お、俺は桔梗さんたちが居なかったら今頃ここには立っていませんでした。あの時も、桜花と一緒に無我夢中で……」


『ふふっ。桜花、貴女は心根の優しい、真っ直ぐな良い子を選びましたね。新たな龍と人の関わりに妾からこれを授けましょう』


 フッと華月が軽く息を噴き出した。

 やがて、それは空気中で形を成して、シャムの手に届く頃には小さな赤い宝石と化する。


「これは?」

『龍の護石です。それは持つ者の心に作用した武器を作り出します。強く念じてみなさい』


 シャムは言われた通り、心の中で「もっと強くなりたい」と念じた。

 すると、掌で宝石が熱を帯び始める。

 じわり、と溶けだしたかと思うと、宝石は鎖鎌へと姿を変えた。


『ほう。鎖鎌ですか。命を守るものにして、狩るもの。森の民に相応しい武器ですね』

「あ、ありがとうございます」


 華月はシャムの頭にそっと鼻先を近付け、こつりとぶつけた。

 それが龍における最上級の感謝を示す行為であるということは、後に桜花から教えられるのだが、シャムは何だか擽ったい気持ちになって笑った。


「では、結界を張ります」


 桜花の声に、華月は頷いた。

 中庭一体を桜色の薄い膜が完全に覆うのを見届けて、ゆっくりと瞼を閉じる。

 破壊の魔力を使うのは実に千年振りであった。

 ぶちり、と己が左前脚の鱗を噛み千切ると、口から黒い炎を吐き出し、鱗を溶かしていく。

 結界の向こうでは、桜花が華月の魔力を抑えようと懸命に戦っていた。

 少しでも気を抜いてしまえば、結界は壊れ、隙間から華月の魔力が漏れ出てしまう。

 そんなことになれば、この建物とここにいる騎士たちは無事では済まないだろう。

 それを思うと額に大粒の汗が滲む。

 すると、印を結んでいる手に誰かが触れた。

 ちらり、と一瞬だけそちらに視線を遣ると、そこには穏やかな表情を浮かべたシャムが居た。

 シャムが自分の手を握っている。

 桜花はそれだけで心に巣食っていた不安が晴れるのが分かった。


「大丈夫、大丈夫だよ。君の結界は強い。自信を持って」

「ええ、ありがとう」


 ぎゅっとシャムの手を握って、桜花はその上から印を結び直した。

 すると、結界が淡く光を帯び始めた。

 円形だったそれは形を変え、にょきにょきと枝が分かれるように空中へと伸びていく。

 それは大きな桜の木のようだった。

 八本の桜からなる結界が華月を中心に中庭を、遂には騎士団本部の建物全てを覆い隠す。


「そうか、八重って桜の名前だったんだね」


 シャムがぽつりと景色を見上げながら呟いた。

 淡い桜色の魔力が八本の柱を軸として、強固な陣を張り巡らせる。


『いつ見ても、「八重の護り」は美しい……』


 龍の姿から人の姿になった華月が、自身を覆う結界を見上げて笑った。

 桜花はそれを見ると、印を解いた。

 ぱりん、と音を立てて結界が崩れる。

 宛ら、桜の花弁のようにひらひらと宙を舞う淡い魔力に、その場に集まっていた者は魅了された。

 桜花とシャムの元に歩み寄った華月の手の中には一本の刀が握られている。

 夜空を思わせる美しい漆の鞘に、赤い柄がよく映えていた。


「華月様っ!」


 建物の中から事の次第を見守っていた桔梗が走ってくる。

 華月は彼女に刀を差し出すと、その後ろを付いてきたシアンに空いているもう一方の手を差し出した。

 その手には黒い宝玉が握られている。


「これは?」

『私の魔力を込めたものです。貴方の剣に使ってください。少しの間ではありますが、旭日にダメージを与えられるはずです』


 受け取った宝玉の重さにシアンは顔を顰めた。

 次いで、華月の前に深く頭を垂れる。


「先程の無礼をお許しください。貴女は我々を思うが故、彼女の中で眠り、力を使わなかった。『破壊の女神』よ。未熟者ではありますが、どうか貴女の刃となることをお許しください」


 その声は震えていた。

 そんなシアンの肩に、桔梗はそっと触れた。


「華月様はそんなことで怒ったりしませんよ。ただ、この方は全て受け止めてしまう。それが偶に瑕なんですけれど」


 くすくすと笑う桔梗に華月も釣られて笑みを深める。


『桔梗、貴女にはこれを』


 差し出された刀に、桔梗は見覚えがあった。

 それは霊王宮の奥深く、華月のご神体を祀っている部屋に飾られていた刀と瓜二つであったのだ。


「あ!」


 桔梗は思わず声を上げた。

 何年か前に、手入れのために霊王宮から王都ミツバに持ち出された。そして、鍛冶屋に保管されていた際、刀身が半分に折られ、盗まれたと被害報告が入っていたことを思い出したのだ。


「どうして、今になるまで気が付かなかったのだろう! あの時、刀を探したのは私の隊だったのに……!」


 刀の性質上、それに触れることが出来るのは龍の魔力に耐性があるものだけだ。

 そのため、クラウドも危険を承知で桔梗を東の国に派遣した。

 華月も桔梗の記憶を遡って思い出したのだろう。同じようにハッとした顔つきになって、それから苦痛に顔を歪めた。


『これは妾の失態です。己が造った武器であるのに、その可能性を捨てていた』

「華月様の所為ではありません! 私がもう少し早く思い出していれば、今頃はホロさんを……」


 桔梗はグッと奥歯を噛み締めた。

 隣に立つシアンの手が握り拳を作るのに、強く瞼を閉じる。


「……これで準備は整った。後は、旭日とホロを抑えればいいだけだ」


 普段より数倍低い声でシアンが言葉を放つ。

 桔梗はそれに短く首を縦に振った。

 シャムや桜花も声を発さずに、こくりと頷く。

 華月は「頼もしい」と小さく呟くと疲れたのか、桔梗の刺青へと戻っていった。

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