2章

第39話 パン屋

 一人の少女が田舎から上京して働き口を探しに来た。ありふれた光景ではあるがいささか選んだ職場が似つかわしくなかった。


「おはようございます、あの表の張り紙を見たんですが?」

 若さと美貌に恵まれた、だがこれと言った技能も資格もない少女が街の名もなきパン屋に声を掛けて来た。


「おう、おはよう。張り紙って、パン屋の手伝いなんか大した賃金を払えないけど良いのかい?あんたなら、夜の店で働けばもっと簡単に金が転がり込んでくるだろうに」

 パン屋の親父は年の頃なら三十代後半、ちょうどバイト志望の娘と親子くらい年が離れていた。


 少女は、きっぱりと返事をした。

「いいえ。私、どうも夜の仕事とか馴染めませんので。もしよろしければここで働きたいんです」

「そうかい、そういうことなら今日から働いて貰うけどいいかい?」

「はい、喜んで。私、ローラと言います。店長、今日からよろしくお願いします」

 少女の笑顔を見たときパン屋の親父は、なんだか心が洗われたような気がして、得をした気分になった。一年前に妻が亡くなり、気力が落ちていたがなんだか以前に戻ったような気がする。

 発酵したパン種をオーブンに入れると、今日はいつもよりいいパンが焼けそうな予感がして嬉しくなってきた。



 

「ふう、今日はいつになく売れたなあ。やはり、若い娘が手伝ってくれると売れ行きも良くなるんだなあ」

「店長、明日はもっと売れると思いますから材料を多めに仕入れましょうね」

「そんなもんかなあ?まあ、ちょっと問屋に相談してみようか?

 ああ、ヤスかい毎度ありがとう。今日は、いつになくパンが売れてね。原料がなくなったんだがいつもより多めに仕入れたいんだが?

 … … ほう?じゃあ、その新しい産地の粉を貰おうかな。ふーん、結構安くなるんだな?じゃあ、試しに倍増しで頼むよ」


 なんだか、人生本当にいい感じに転がって来たな。


 こうして、新しいバイトが来て十日が過ぎる頃。パンの出荷数は普段の千倍以上になっていた。正確には、千二十四倍にもなっていた。

「ふう、なんでか知らんが滅茶苦茶売れるようになったなあ。しかも、どんなに作っても売れ残る気がしないぞ。

 どうなって、しまったんだ?」

「店長のパンが美味しいだけですよ。私だって賄いのパンを頂くのが毎日楽しみですから」

「そんなもんかなあ?」


「あ、それで私いいこと思いついたんですけど。店長、移動売店を始めてみませんか?実は、田舎から出て来た妹がいるんですけど。妹に移動売店を任せれば売り上げがもっと伸びると思うんです」

「まあ、そんなにうまく行くもんじゃないが。妹さんも働き先がなくて困っているんだろう?

 じゃあ、今まで君が稼がしてくれた分の還元だと思ってその移動売店の件、了承しよう。妹さんには、気楽にやって貰えばいいからね」

「わかりました、店長ありがとうございます。三日後には妹に挨拶させますので、とりあえず内定を頂けるということで、妹を呼びますね」

「ああ、それでいいよ」


 ふう、移動売店とか正直考えたこともなかったが。時流に乗るとはこういうモノなのかな。時代遅れの食パンが主体で、最近の流行に沿ったお洒落なフルーツやチョコレートなどを美しく飾ったパンやケーキに押されて売れ行きも悪かったのになあ。


「店長、この娘が妹のミラーカです。ミラーカ、この方が今日からあなたもお世話になるこの店の店長さんです」

「姉がお世話になっております、今後は姉ともどもどうかお引き立てのほどをお願いいたします」

 ふむ、ローラさんんと大変良く似た娘だな。双子なのか?


「はい、こちらこそよろしくお願いします。ローラさんが来てくれてからはパンの売れ行きが良くて、取っても助かってます。

 最初は、失敗もするでしょうけれど気楽にやってください」


「はい、できるだけ失敗しないように頑張ります」



 こうして、パンの移動販売も軌道に乗ってますます街の名もなきパン屋は繁盛することになった。


 だが、不思議なことに街の名もなきパン屋は売れ方から言って大ブームを巻き起こしていても良さそうだが、特別名前が売れるとか新聞、ニュース等の取材で騒がれることもなかった。

 店主の意向通りなのだが、いささかこの情報化された時代において奇妙なことであった。

 ただただ、近所で評判の昔からある腕の良い「街の名もなきパン屋」として知られるだけであった。

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