迎え入れたモノ

牛尾 仁成

迎え入れたモノ

 幼い頃、事故に遭った。


 命に別状は無かったが、左目を負傷したため、ほとんど左目が見えていない。医者の話では眼球に傷は無いのだが、視神経そのものにダメージが入ったようで、極端に視界が悪くなったそうだ。確かにぼくの左目はかろうじて光を感知する程度の力しかなかった。だが右目は無事だったため、日常生活が送れなくなるほどの重傷というわけではない。


 ただ、お母さんはずいぶん心配して、ぼくをいろんな医者に診せた。それが成功することは無かったが、子供心に毎週毎週遠いところの大きな病院にぼくを連れて行ってくれるお母さんに苦労をかけているな、と申し訳なく思った。


 それを見たのは、そんな病院の帰り道だった。夕暮れ時の茜色の空をそれは飛んでいた。長くうねうねとした蛇の様なものに見えた。最初はただの飛行機雲かと思っていたが、明らかに動いていたものだからぼくはびっくりして隣のお母さんに聞いた。


「お空に何かいるよ。うねうねしていて不思議だね」


 その言葉を聞いた母は空を見上げたが、何も見えなかったらしく何もいないよと優しく言った。ただ、ぼくが見える見えると言い続けたものだから、「稜太にだけ見えるものなのかもね」と言って話を切り上げてしまった。


 西日に隠れたお母さんの表情は真っ黒に塗り潰され、ぼくはその時お母さんがどんなことを思って言ったのかが分からなかった。


 それからしばらくするとお母さんは家の中にいくつか棚を設えてそこに鏡だの札だのを飾り出し、塩や酒をお供えするようになった。お母さんはぼくの目を医者に診せるのではなく神様に診せようとしているらしかった。


 そのせいなのかはわからなかったけど、やがてぼくの左目に一つの変化が訪れる。事故の影響で目が少し白っぽくなっていたのだが、虹彩が明らかに茶色から銀色のようになってきた。そして、そいつはぼくの家にやって来た。


 居間の隅っこにお坊さんがいるのだ。あまりにも唐突に、ある日いきなりいたものだからぼくはびっくりして、ひっくり返りそうになった。梅干しみたいにしわくちゃの顔で、真っ黒に日焼けしているのに、妙に顔が細長くて背も高い。ぼろぼろの袈裟のようなものを着ていたので、てっきりどこかのお寺の人なのかと思ったが、それと同時に何だか普通の人っぽくない雰囲気を放っていた。


 何がどう、と説明し辛いのだが、とにかく着ている服やその様相がちょっと普通に見えなかったのだ。だからぼくは少し怖くなって、お坊さんを無視した。お母さんにはこのお坊さんが見えていないらしい。お坊さんがいないところでお坊さんのことを聞いてみようとしたが、その度あのしわくちゃの顔が頭をよぎり切り出せなかった。何でかはわからないけど、この話を人にしてはいけない気がしたのだ。


 このお坊さんは何かをするわけでもなく部屋の隅で静かに佇んでいるだけだった。ぼくたち親子が食事をしたり、くつろいだりしている時もお坊さんは何もしゃべらなかった。テレビ番組を見てると、一緒にお坊さんが見ていたり、ある時はどこからか取り出した竹とんぼをくるくる回して遊んでいた。あとたまにおやつを盗み食いしている時があった。


 お坊さんが見えるようになってから、ぼくの左目はどうもぼくにしか見えないものを見始めるようになってきた。街や学校のいたるところでソイツらはいた。電柱の陰、家と家の隙間、交差点、店の隅っこや天井などにいる。形が定まらない黒い影っぽく見える時もあれば、大きなカエルだとか、やたら巨大な頭をした人間っぽいヤツとか色んな種類がいた。


 ジリジリとアスファルトが焼ける夏の日、学校からの帰り道でソイツに声を掛けられた。


「お前、オレが見えてるだろ? いつも道ですれ違う時に目が合うもんな」


 身長が三メートル近い真っ黒い影だ。顔の部分に目が七つあり、体中から影と同じ手の様なものが生えている。


 話しかけられた瞬間、反応しそうになったがとっさに気づかないフリをした。何がどうという理由はなかったのだが、ただそうした方がいい、と直感的に思ったのだ。


「おい、無視すんなよ。せっかく話しかけてやってるんだ。ちょっとは反応してくれてもいいじゃねぇか」


 家に帰るためにはそいつの目の前を通らないといけない。ぼくは意を決して、そいつの目の前を横切った。そのまま角を曲がって壁に背中を預ける。詰まった息を思い切り吐き出した。ソイツに気づかれないように、そっと角の陰から通りをのぞき込むと影はもういなかった。


「はー、これで大丈夫」

「何が大丈夫なんだ?」


 後ろから声がしたので振り返った瞬間、ぼくは息を呑んだ。夏なのに冷たい汗が額を流れ落ちるのを感じる。


 真っ黒な影が僕の目の前に立っている。全ての目玉をぐりぐりさせて、手は今にもぼくを掴んでしまいそうな距離にあった。


「ほら、やっぱり聞こえてた」


 ぼくは弾かれたようにその場を走り出したが、黒い影が後ろから追ってきているのが分かった。ぺたぺたと裸足でアスファルトの上を歩く音が迫って来る。追いつかれたら間違いなくヤバイ目に合わされるのが子供でも分かるほど、その勢いと気配はすさまじかった。もつれそうになる足を必死に動かし、家の前の通りの角を曲がる。


 この時、影から伸ばされた手がぼくのリュックをかすめたのか、布が破けるような音が聞こえた。ぼくはもうほとんど死に物狂いと言った有様で家の中へと転がり込んだ。


 どうして家へ逃げようとしたのかはよくわからない。でも、子供ながらに家の中まで行けば大丈夫だ、と思っていた。でも、こんな得体の知れない奴にそんなことは関係ないわけで。影は獲物を追い詰めたようにゆるゆると門から玄関の敷居を跨ごうと近づいて来た。


 ほぼ体力を使い果たしていたぼくはもう後ろ手で這うことしかできなかった。あと一歩で、アイツが玄関の中に入って来る。


 バチッと何か大きなものが破裂するような音が聞こえた。そうして、その音と同時に影は何かに跳ね返されたかのように、玄関前の敷石でのけぞり大きく態勢を崩した。


 この瞬間、ぼくもそして影の方も何が起こったのか分かっていないようだった。


 ふわり、と風がぼくの頬を撫でる。ちょっとかび臭い、古めかしい何かを思わせる臭いだった。風は家の中から玄関口へと流れていく。


 その風に合わせるようにがたがたと家中の扉が鳴り始めた。ぎしぎしと柱が揺れ、みしみしと家全体が軋む音が増える頃には、風は突風と呼べる勢いになって玄関へと噴き出した。


 影の声なのか、風の音なのか唸り声のような音を響かせながら風が影を押し出し、道路を挟んだ反対の塀へと叩き付けた。


 影は先程までの勢いが嘘のように、急に小さく萎んでいき、最後にはチリのように吹き消えていった。


 ぼくはただその様子を唖然として見つめるほかなかった。影が完全に消え去ると、急に外のうるさいセミの鳴き声が聞こえてきた。


 この家の何があの黒い影を追い払ったのかはわからなかったけど、たぶんあのヨレヨレのお坊さんが関係あるんじゃないか、と思った。だから、その晩ぼくはお母さんについに聞いてしまった。


「ねぇ、あの神棚みたいなものってぼくの目のために作ったんでしょ?」


 そうよ、とお母さんは頷いた。


「病気の他にもスゴイことするの?」

「えーと、結構スゴイ神様らしいわ。大抵のことは出来ちゃうみたい。きちんとお祀りすれば大きな幸運をもたらすんだって」


 あまり聞いたことの無い話だったのでぼくは更に詳しく聞いた。


「へー、なんていう神様なの?」


 お母さんは特段、何の不思議も無いような声で言った。


「疫病神」


 ぼくの視界の隅に、お坊さんのつるつるの頭が見えた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迎え入れたモノ 牛尾 仁成 @hitonariushio

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ