2.開幕の章 うららかな日々

 アリスを拾って数年の月日が過ぎた。あの時痩せ細って泣いていた少女も、今ではすっかり元気なお嬢さんだ。


「リージンさん、どこ行ったんですか! 食べた後の皿はそのままにしないでって何度言われたら気がすむんですか! 屋根の修理とか、壁の修理とか、床の修理とか、やらなきゃいけないことはたくさんあるんですよ!」


 元気だなぁ。ああやって俺を一生懸命探す姿は何度見ても飽きない。

 だけど見つかったらしばらく怒られてしまう。だから今は彼女の怒りが落ち着くまでやり過ごそうと、庭の高木の上から様子を伺っているところだ。


(あの可愛らしい顔で怒っているのもまた可愛いんだけどねぇ)


 そんな考え事をする木の下、森から家に向かう小道を猫が駆けていくのが見えた。猫はチラリと木の上にいる俺を見てニヤリと笑うと、家に走っていった。


「あれ、マリオン。どうしたの?」

「おはよう、アリス。またリージンの奴を探してるんでしょ? さっき外の木の上で見たよ」


 耳を澄ませていると家の方からそんな声が聞こえてきて。


(マリオンのおしゃべりめ)


 ストン、と木から降りて、どこへ逃げようかとうわついた気分で辺りを探っていると、背後からアリスの声が近づいてきた。


「あぁ、アリスが来ちゃったじゃないか。よし、逃げるが勝ち!」

「あっ、逃げないでくださいよ!」

「まぁアリス、ここはあたしに任せて」


 風を切る音と共に、背中に熱にも似た痛み。さすがの俺でも痛みに声を上げた。


「痛っ」


 アリスのいたところから全力で駆けてきたらしいマリオンは、その勢いを殺すことなく俺の背中を鋭い爪で切りつけたのだ。君が飛んでくるなんて反則だと思う、などと言っても反論されるので、黙って傷を癒すことに専念する。こういう時、魔法が使えて良かったと思うよ。

 近づいてくるアリスはそれはそれは愛らしい笑顔だった。手に縄を持っていなければ。


「さて、今日の午前中は昨日の続きで家の修理をお願いします。この調子なら冬が来るまでには直せるはずです。昼食になったらお呼びしますので、それまでお願いしますね。午後は好きなことをしてくださって結構です。分かりましたね」

「アリスは怒った顔も可愛いけど、昔みたいに可愛く甘えてくれても良いんだよ」

「分かりましたね」

「……ハイ」


 圧を感じて大人しく従えば、足元の猫がまた笑った。


「無様だね、リージン」

「君のせいだろ」


+++


 リージンによくよく用事をお願いしたアリスはマリオンを連れ、ギルディの店に出かけた。

 今のマリオンはアリスより少し年上ぐらいの少女の姿だ。マリオンはアリスがこの森に住み始めて出来た初めての友達だった。彼女もまた自由自在に姿を変えられる性質を持っていたため、この森に捨てられたのだという。


「アリス、あの犬に嫌なことされたらあたしに言うんだよ。あたしが喰ってあげる」

「ありがとう。でもギルさんはそんなことしないし、食べちゃダメ」


 猫のようにすりよってくるマリオンに頬が緩む。


「また今日もあの夢を見たの?」


 不意に心配そうにマリオンが口を開いた。あの夢、とは一年ほど前から眠ると同じように見るようになった夢だ。夢の中では、かつてアリスを捨てた母がアリスを捕まえようと探していた。かつての夢を見ることは珍しいこととではなかったが、この夢はどこか異質で、あれから随分経った今でも恐れがあるのだと、アリスに示しているようにも思われた。


「うん、あの夢だった。でも大丈夫、ここにあの人はいないし、それに何かあってもリージンさんが守ってくれるから」


 普段はダメダメな人だけど、やるときはやるんだから、と自慢げに言うアリスを見て、マリオンはニヤリと笑う。


「何だかんだ言って、アリスはリージン大好きだよね。さっきの台詞、リージンの奴に言ってやりなよ。きっと泣いて喜ぶよ」

「こんなこと言えないよ! 恥ずかしいじゃない……。それに、あの人絶対調子にのるからダメ」

「あぁ、それも面倒だね。ううん、今はこのままでいいか。まだあたしのアリスでいてね」


 ぎゅうっと抱きついてきたマリオンの頭を撫でつつ行く先を見ると、ようやく目的地が見えてきた。


(最近来てなかったけど、ギルさんは元気にしているかな)


 ドアを開けると、コロコロンと手作りのベルの音が店の中に転がる。小さい頃からアリスはこの音が好きだ。


「こんにちは」


 店に入ると、ギルディが奥の倉庫から出て来た。


「ひさびさだな、アリス。元気そうで何より」


 ギルディはそう言ってアリスの頭を撫でようとして、その隣のマリオンに腕を掴んで止められた。マリオンの手を振り解いたギルディは手を戻して、あからさまに顔をしかめた。狼と猫の間で視線の火花が散る。


「猫まで来やがったのか」

「あたりまえだろ。どこぞの駄犬がアリスに良くないことを教えるかもしれないからねぇ」

「おい、その駄犬って俺のことじゃねぇだろうな」

「あれぇ? 今ここにアンタ以外の犬がいるわけ? アンタのことに決まってるだろ。今だってあたしのアリスに触れようとして。やっぱり犬並みの脳しかないから考えることもできないんだね」


 あぁかわいそ、と肩をすくめて挑発するマリオンに、ギルディはわなわなと怒りに身を震わせてる。


「黙って聞いてりゃさっきから勝手なことばっかり言いやがって……っ」

「黙ってないじゃん」

「うるせぇっ!」


 そんな二人をよそに、アリスは店内の商品から今日買いに来たものをバスケットに入れていく。これで良いか、と思ったところでまだ二人が喧嘩していることに気付いたアリスは大いにため息をついた。


(これは止めないと家に帰れないな)


「マリオン、お店では静かにしないとダメ。早く帰って昼食を作らないといけないんだから」

「はぁい。ごめんアリス」


 アリスに叱られたマリオンは飼い主に叱られたペットのように、いつの間にか頭上に生やしていた耳をぺたんと倒して落ち込んだ。それをざまぁみろとばかりにギルディが笑えば、アリスが今度はギルディへと向き直る。


「笑っていますけど、ギルさんもですよ」

「お、俺もか?」

「はい、店の人が客を放りっぱなしにしていて良いんですか? お会計お願いします」


 我に返った様子の二人は先まで出ていた耳や尻尾を仕舞う。それでも少しバツが悪そうにしているのを見ると、先までの獣耳を思い出して微笑ましく思えてしまう。アリスはマリオンの繋いだ手を反対の手でぽんぽんとして、ギルディには「お願いします」と再度微笑む。今度こそギルディは店主の顔になった。


「悪かったな。おわびに今日は安くしとくよ」

「じゃあ、買いだめしておかないと。私たちだけじゃ持ちきれないと思うので、後で残りの荷物を運ぶの手伝ってくれませんか?」

「ハハ、よろこんでお嬢ちゃん。ホントちゃっかりしてるよ。いつものでいいか?」


 アリスがいい笑顔で「はい」と答えると、ギルディは倉庫に入っていった。


「マリオン、あんまりギルさんをいじめないで」

「だって、おもしろいんだもん、あの犬」

「分からなくもないけど、ほどほどにね」


 マリオンは「はぁい」と軽く返事をしたが、アリスはその返事を信じなかった。だってそれはこの数年で何度も聞いた返事だったから。


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