駄菓子屋ゆかり

古蜂三分

駄菓子屋ゆかり

 久しぶりに帰ってきた故郷は、駅へ向かう市バスが二十分にいちど通るようになっていた。なんだか信じられない。きっとわたしにとってこの場所は、ただひたすらに田んぼに囲まれていて、どこからともなく虫の鳴き声が聞こえてくるあの頃から変わっていないはずだったのだ。今の故郷は商店街の代わりに大型のショッピングモールが建てられ、バスの循環が速くなり、田んぼではなく数々の住宅街で視界が埋め尽くされていた。虫の鳴き声は、ひとつもしなかった。


「帰ってくるのは三年ぶりくらい?」


 台所で夕食の準備をする母が言った。懐かしい肉じゃがの匂いが、あのころと同じ優しさでわたしの鼻腔を撫でる。


「久しぶりの故郷はどうだった?」母は訊いた。「東京とは空気の質が違うでしょ」


 わたしは、そうだね、とだけ返事をする。それから、リビングのテレビを見つめる。久しぶりに見る地方局の番組だった。どこかの幼稚園で、県のマスコットキャラクターと園児たちが音楽に合わせて踊っている。東京では絶対に聴くことのない音楽だ。


 テレビを見つめていると、「あらやだ」と母が言う。わたしはため息をついた。


「なにがきれたの?」

「うん、お味噌。買って来てくれる?」


 わたしはもう一度、さっきよりも大きなため息をつく。このやり取りも数年ぶりのものだった。ひとつ違うのは、わたしが母から小銭をもらうことなく、自分の財布をポケットに入れて家を出て行くことだけだった。


 わたしは近所の商店に向かって、赤く染まった住宅街をしばらく歩く。小学生のときに通っていた通学路。夏休み中、ラジオ体操をしていた公園。やたらと狭い市民プール。それらを横目で眺めながら歩く。懐かしさに浸っているうちに、目的の商店へと着いた。


 けれど正確に言えば、そこは商店ではなかった。看板の文字が掠れ、雑草が生い茂ている、当時は商店だった空家が、そこにはあった。その商店は、とっくの昔に潰れていた。


 そしてその隣には、同じような風貌をした空家がもう一軒建ち並んでいた。看板にはうっすらと「駄菓子屋ゆかり」と書かれ、店前には色褪せたゾウの置き物がある。それは置いてけぼりにされて寂しがっている少女のようにも見えたし、店をいつまでも守り続けようとしている少年のようにも見えた。


 わたしは膝をかがめて、ゾウの置き物に目線を合わせる。そこにはたくさんの落書きがあった。小学生が黒板に絵描くような落書きだ。相合い傘の下に男女の名前が書かれていたり、当時人気だったらしいキャラクターが描かれていたりしている。


 それから、わたしはもうひとつ、手書きの貼り紙を見つける。それは店の引き戸の低い位置に、ちょうど小学生の目線くらいの高さに貼られていた。

 そこには閉店のお知らせと、店主の死去が簡潔な文体で記されていた。


 わたしは記憶を思い起こす間もなく、もとからそこにあったかのように、自然と店主のことを頭に浮かべた。あのおばあちゃんだ。いつもおまけでうまい棒を一本くれて、しわくちゃの顔で昔は別嬪だったんだけどねと笑って、けれど万引きとかの悪さに対してはきちんと叱りつけていた、あのゆかりおばあちゃんだ。


 わたしはそこで、そういえば、と思い出す。そういえばあのとき、わたしがまだ小学生で、母に叱られて家を飛び出して来たあのときも、わたしが泣き止むまで待って、お菓子をくれて、家まで送り届けてくれたのも、あのゆかりおばあちゃんだったな、と。




「あなたみたいな子はうちの子じゃありません」


 夕食を囲む夏の夕暮れ時。母がそんな定型分みたいな台詞を吐いた理由を、わたしはもう覚えていない。わたしが夕食のメニューにケチをつけたのかもしれないし、何か買って貰いたいものがあってゴネ出したのかもしれない。けれど唯一確かなのは、母と喧嘩をして、その拍子にわたしが家を飛び出したということだった。わたしは泣いていたと思う。


 家を飛び出してすぐに、真っ赤に焼けていた町は暗く静まり返り、鳴り止むことのないと思われていた蝉の大合唱はコオロギの子守唄へと変わった。いつも遊んでいる公園に来れば安心できると思ったけど、昼間との温度差でかえって怖くなった。


 わたしは急速に熱を失っていく町が寂しくて仕方なくて、両膝を抱えて、嗚咽を漏らしながら、道端でうずくまっていた。


 そしてわたしの目元が真っ赤に腫れてしまったころ、強い光がわたしに向けられた。それは懐中電灯の光だった。


「大丈夫かい?」という嗄れた声が聞こえて、わたしの心臓は凍りつきそうになった。けれどその声の正体が駄菓子屋のおばあちゃんだとわかると、今まで抱いていた寂しさとか怖さとかは嘘みたいに消えた。


「お母さんと喧嘩でもしちゃったのかい?」

 うんと返すと、おばあちゃんはそっか、とだけ言って、わたしの手を引いて身を起こさせた。それから、服についた土を払ってくれる。わたしは急に優しくされて、また涙を流してしまう。

「泣き虫さんだね」おばあちゃんはわたしの頭を撫でて、わたしが泣き止むまでそうしてくれていた。


 枯れるほどの涙を流し終えると、おばあちゃんはわたしを駄菓子屋に入れて、チロルチョコとフルーツ餅、それからチェリオを一本くれた。わたしはそれらを食べながら、母と喧嘩してしまったことを話した。その間おばあちゃんはわかりやすく相槌を打って、けれど静かに最後まで話を聞いてくれた。


 わたしが話し終えると、ゆかりおばあちゃんは言った。

「お母さんに、ごめんねしなくちゃね」

 街灯の少ない田舎道を、わたしはゆかりおばあちゃんと手を繋いで帰った。その間もゆかりおばあちゃんは相槌を打つみたいに「大丈夫大丈夫」とか「許してくれるよ」とかの言葉をかけてくれた。


 そのあと、わたしはおばあちゃんに言われた通り、母に謝った。ごめんね、と。それ以外のことはよく覚えていない。わたしはひどく疲れきっていたし、母と仲直りできた安心からすぐに寝てしまったのだと思う。

 けれど確かなのは、わたしが母と仲直りすることができたのは、間違いなくゆかりおばあちゃんのおかげということだ。


 近くのコンビニへ向かって、わたしは夜道を歩く。その途中、わたしは子供の啜り泣く声を耳にして足を止めた。暗がりの中をスマホのライトで照らすと、道端に小学生くらいの男の子がうずくまっていたのを見つけた。

「大丈夫?」わたしは膝をかがめて訊く。

 男の子は泣いたまま、強がった様子で「大丈夫」と返した。


 わたしはこんな状況をどこかで知っていた。きっとこの子は夕食中に家族と喧嘩してしまって、家を飛び出してきたのだと、最初から知っていたみたいにすぐ理解した。そしてこういったとき、最もかけてもらいたい言葉、最もして欲しいこと、最もためになることを、わたしは心のどこかで知っていた。


 「ちょっと待っててね」と言ってわたしはその場を離れ、近くのコンビニに寄り、味噌のほかにうまい棒ととブラックサンダー、それからカルピスを買う。わたしにはそうすることがたまらなく正しいことである気がした。


 男の子のもとに戻る。彼の手を引いて身を起こし、服についた土や汚れを払ってあげる。

 それから近くの公園に移動して、さっきコンビニで買ったお菓子を二人で半分ずつ食べた。全部あげると言ったのだけど、夕食前にお菓子はあまり良くないと言われてしまった。いい子なんだろうなと思う。だからわたしは太ることを覚悟してお菓子を食べながら彼の話を聞いてあげた。

 男の子は母親に欲しいゲームをねだって断られ、喧嘩になってしまい家を飛び出してきたのだと話した。

 それらの話を聞いて、わたしは言った。


「お母さんに、ごめんねしなくちゃね」

 男の子はうんと答えた。わたしは彼の頭を撫でた。


 それから、わたしは夜の街を少し歩いた。右手では味噌の入ったコンビニ袋を持って、左手では男の子の手を握りながら。そうしているうちにふと、「ねえ」と男の子が言った。

「おねえちゃんは、どうしてこんなに優しくしてくれるの?」

 困った質問だった。わたしはうーんと逡巡して「きっとね」と前置きをしてから言った。

「こうするべきなんだよ。泣いている子を見つけたら助ける。それはいわば文化みたいな『変えてはいけないもの』なんだよ」

 男の子は「なにそれ」と言った。わたしは「なんだろうね」と返した。


 住宅街の一角、暖色系の光が溢れる家が彼の家だった。わたしは「ありがとね」と手を振って去っていく彼の背を見て、もしも、と考えてみる。


 もしも、これから先、彼もこの町みたいに変わっていって、それでも泣いている子を見つけたら、お菓子をあげて、優しい言葉をかけて、頭を撫でてあげるようなことがあったら。


 そうだったら、すてきだなと思う。

 ずっと未来の、変わってしまったこの町に「泣いている子どもにはお菓子をあげて、頭を撫でてあげる」みたいな優しさが変わらず残っていたら、それはもっとすてきなことだなと思う。

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