第六章 魔力の泉

 一晩が明け、暖炉で乾かしただけあって、服もすっかり乾ききっていた。


 昨日とは打って変わって、カラッと気持ちの良い晴れ模様。


 街の人々に礼と別れを告げて、アレン達は出発した。


「あーあ、良い街だったなー。もうちょっと居たかったかも」


 そう言って唇を尖らせるカノン。


「そんなのんびりもしてられないだろ?」


「そうだね。あんな強力な敵が現れたという事は、魔王が更に力を付けてきているからかも知れないし」


 ジークとアレンにそう言われると、カノンは小さく溜息を吐く。


「それもそうですよねぇ……魔王倒したら絶対遊びに来るんだから!」


 そう言うとカノンの表情はいつもの元気な笑顔になる。


 それを見たアレンとジークもつられて笑顔になった。


 




 一先ず、三人が目指すのはこの国の王都、『メダリアン』だ。


 三人の生まれ育ったこの国は、『ファーミッド』という王政の国である。


 ファーミッドとは、この国の初代国王の名前で、王都の名であるメダリアンは、その弟の名だ。


 現在はその子孫であるドメル国王が、この国を治めている。


 三人は王都へ向かい、魔王城へ向かう為出国許可を得るのだ。


 他の国へ行くには、王都で許可をもらわなくてはならない。


 それは、他の国からこの国へ来る場合も、他の国同士を行き来する場合も変わらない。


 魔王城は遥か北にある雪国『スィーア』にある。


 国境を越えなければ、魔王城には辿り着けない。


 出国許可を取るのは、必要不可欠だった。


「えっと……こっちだね」


 三人は地図を見ながら歩き続ける。


 王都へ行く方法は数通りある。


 森を突っ切り真っ直ぐ目指すルート。


 村や町を複数経由し、森を迂回するルート。


 王都への馬車や飛空艇が出ている大きな町を目指し、そこから乗り物に乗るルート。


 三人が考えたのは村や町を経由するルートだ。


 乗り物に乗るには、それだけのお金が掛かってしまう。


 道具や装備を整える為にも、大きな出費は避けたい。


 森を突っ切るのは、三人共首を横に振ったから無しに。


 ミネの村からジュビリアムの街に行く途中で、嫌になる程森は歩いた。


 消去法で、村や町を経由するルートに決定したのだ。


 遠回りになってしまうが、安全且つ確実なルートだ。


「次目指すのは、村と言うより集落に近い、小さな所みたいだな」


「えー、田舎か……」


 ジークとカノンは地図を見てそれぞれ言う。


 しかし、アレンが見ていたのは地図ではなく、森の方。


 勿論、アレンももう森には入りたくはなかった。


 けれど、何か、妙な感覚を感じていた。


 行きたくないけど、行かなくちゃいけないような……。


「おい、アレン? 行くぞ」


 ジークがアレンの肩を叩く。


 アレンは一瞬驚くが、すぐ頷く。


 きっと、気のせいだよね。


 そう思い、歩き出したその時だった。


『アイリスよ……こちらへは来てくれぬのか?』


「……え?」


 アレンは誰かの声に振り返る。


 それは、低く甘く、落ち着いた雰囲気を持つ男の声だった。


 声を聞けばそれだけで、その男が美しいのは誰にでも想像できるだろう。


「勇者様?」


「アレン、どうかしたか?」


 カノンとジークは振り返ったアレンに気付き、声を掛ける。


「二人は、聞こえなかったの?」


「え、何が?」


 アレンの問いに、ジークとカノンは首を傾げる。


「誰かに呼ばれたんだ。こちらへ来てくれないのかって……」


 アレンは真剣だが、ジークとカノンは信じてくれない。


「気のせいだろ。ほら、早く行こう」


「う、うん……」


 アレンがまた一歩踏み出すと、その声はまた聞こえた。


『こちらへおいで、アイリス……』


 辺りに響くというより、耳元で囁くような、すぐ近くで聞こえる声だった。


 優しく、声は呼び掛ける。


 その声からは、悪意は全く感じられない。


 寧ろ、愛しさすら思わせる。


「誰……? 何処に居るんだい?」


 小さく呟くと、アレンのすぐ傍から風が吹いた。


 その風は、敵を傷つける為の刃を持った風ではない。


 アレンを中心に渦巻き、包み込み、優しく頬を擽り、髪を遊ばせる。


 そして、森へと誘うように吹き抜けて行った。


 アレンはそれが何を意味しているのかよく分からなかった。


 けれど、何者かが自分を森へ呼んでいる……。


 それだけは、確信が持てた。


「二人共、ごめん。やっぱり、こっちのルートにしない?」


 アレンは森を指し、既に歩き出していたジークとカノンに声を掛ける。


 二人はキョトンとするが、アレンが指している方向を見て勢い良く首を横に振る。


「アレン、あれでもう懲りただろう!? またあんな思いしたいのか!?」


「そうですよ勇者様、前の森でも遭難しかけたのに! また!? また行くんですか!?」


「ちょ、ちょっと二人共、落ち着いて……」


 怒涛に言葉を浴びせ掛けてくる二人に困った顔をしながら、アレンは説明を試みる。


「誰かが僕を呼んでるんだ。こっちに来いって」


 アレンは森を見て言う。


 しかし、二人は訝しげだ。


「またあの魔王直属七天皇とやらに洗脳されてるんじゃないか?」


「『また』って言うけど、洗脳されたのお兄ちゃんだからね?」


「うっ……」


 そんな二人のやり取りにアレンは首を横に振る。


「悪意は感じられない。きっとこちらの味方だと思うんだ」


 そうは言われても……。


 ジークとカノンは困ったように顔を見合わせる。


 アレンの事は信じたいけど……自分達にはその声とやらが聞こえない。


 信じるには、まだ判断材料が足りなかった。


「アレン、証拠とか……出せるか?」


「証拠? うーん……」


 ジークに言われ、アレンは考える。


 そして、小さく呟いた。


「何処に居るか、もう一度教えてくれないかい?」


 すると先程のように、風がアレンの背を押す。


 その風は、またアレンの周りを包み、そして、森へを吹き抜けた。


「ほらね?」


 アレンは得意げに二人に笑う。


 しかし、それでも二人は疑う。


「……アレンが自分で魔法を発動したんじゃなくて?」


「偶然じゃないですか?」


「違うよ!」


 思わずアレンは頬を膨らませる。


 訝しげにアレンを見つめるジーク。


 でも、アレンがわざわざそんな嘘を吐く理由も無いだろうし……


「とにかく、アレンがやってたり、偶然風が吹いている訳じゃないんだな?」


 ジークの問い掛けに、アレンは力強く頷く。


 ジークがちらりとカノンの方を見ると、カノンは肩を竦めた。


 カノンも半信半疑だが、着いて行くことに決めたらしい。


 ジークは大きく溜息を吐き、アレンに地図を渡す。


「分かった、お前に任せるよ」


 アレンは地図を握り、嬉しそうに笑う。


「ありがとう、二人共!」






 森の中を暫く歩いて、三人は気付いた。


 時折魔物とは違う気配を感じる事に。


 キラキラと光り、綺麗な音を立てて三人の近くを通り過ぎる。


「この森には、精霊も住んでいるみたいね」


 カノンが言うには、その気配は精霊の物らしい。


 精霊とは、この世界の創造主である女神が創った、人ならざる者の事だ。


 人間より長寿で、魔法の扱いに長けている。


 人間と契約を結び、その魔法を貸してくれたりと人間と友好な関係を築いている者が多い。


 アレンも、シルフと言う精霊と契約を結んでいる筈なのだが……


 不思議な事に、アレン自身もその姿を見た事は無かった。


 精霊は、美しく魔力が蓄えられている場所を好む。


 実際、この森は鬱蒼さが無く、美しい。


 それに、木々が魔力を発しており、カノンとアレンが魔法を使い魔力を消費しても、少しすればすぐ回復する。


 精霊達が住んでいるのも納得だった。


「魔力がすぐ回復するのは有難いですねー!」


 魔物から受けたジークの傷を治療しながらカノンは言う。


「確かにな。怪我してもカノンの魔力さえ回復していればすぐ治せるし……」


「僕も、すぐ風魔法を使えるから戦闘もかなり楽だね」


 魔力の心配をしなくて良い事もあって、三人の心にはかなりの余裕があった。


 軽快な足取りで、三人は進む。


 しかし、進んでも進んでも、アレンが言っていた『誰か』には会えない。


 ただ森を歩いただけで、日が暮れてしまった。


「おいアレン。本当に居るのかよ? その誰かって奴」


 ジークが言うと、アレンは唇を尖らせる。


「絶対に居るよ! 声が聞こえたんだもん」


「でも、空耳かも知れませんよ?」


 カノンも疑うように声を掛ける。


 しかし、アレンは居ると言い張る。


 あー、これは折れそうにないな。


 ジークは苦笑を浮かべた。


「……何笑ってるのさ?」


 膨れ面でアレンはジークを睨み付ける。


 絶対疑ってるんでしょ……


 そんな内心が顔に書いてあった。


「まあまあ、そんな顔すんなよ」


 そんなアレンの表情を見て、ジークは宥めるように頭を撫でる。


「その誰かが見つからなくても、森を抜ければすぐ王都だ。まさかここまで順調に進めるとは思わなかったし、お前の判断は正しかったよ」


 頭を撫でられながら、アレンは複雑な表情をする。


 褒められてるんだろうけど、信じてもらえてはいないみたい……


「……絶対に、居るよ」


 アレンは拗ねながら訴える。


「はいはい、居るんだな。会えたら良いな」


 まるで小さな子供のように膨れるアレンの頭を、ジークは機嫌が直るまで撫でてやるのだった。






 三人は野宿の準備を始める。


 草の無い開けた場所で焚火を焚き、森で採ったキノコや木の実、パン等で食事を済ます。


 そして、またあのゲームで見張りの順番を決める。


 相変わらずカノン、ジークと勝ち抜け、アレンが負かされた。


「アレンはすぐ顔に出るからな、それで手がバレるんだよ」


 手札を見て唸っているアレンに、苦笑しながらジークは言う。


「顔に出さなければ、勝てるのかな……?」


「さあな? でも、負ける確率は減るんじゃないか?」


「……試してみようかな」


 アレンは次こそは負けないようにとジークの言葉を胸に留めた。


「じゃあ、私は一番最後で!」


 カードをしまいながら、カノンは元気良く言う。


 纏めて睡眠をとれた方が、疲れもとれやすい。


 それに、一番最後に見張りをすれば寝惚けながら支度をする必要もない。


 ゲームを一位で勝ち抜けた者だけの特権だった。


「じゃあ、俺は一番最初かな」


「なら、僕は二番目……って、これ前回と同じじゃない?」


 不満げに首を傾げるアレン。


 それを見て、ジークは苦笑する。


「まあ、最初と最後の方が得だからな……」


「勇者様もいつか勝てるようになりますよ、ね?」


 カノンもアレンをフォローしようと声を掛ける。


「うーん……ありがとう、次は勝てるように頑張る……」


 小さく溜息を吐きながらも、アレンは言った。


 カノンはカードをしまうと、二枚の毛布を引っ張り出して来てアレンに一枚渡す。


「じゃあ、おやすみなさい!」


 毛布に包まり、カノンは横になる。


「うん、おやすみ。ジーク、後で起こしてね」


 アレンも毛布を被り目を閉じる。


「分かってる。おやすみ、二人共」


 ジークは二人に声を掛け、眠るのを見守るのだった。

 



その夜、アレンは夢を見た。


 十年前……あの、悪夢の夜の夢だった。


 燃え盛る故郷の村を、母に手を引かれ走り抜ける。


「ママ……パパは、置いて行くの……?」


 泣きながら母親に声を掛ける幼き日の自分。


 母――アメリアは、走りながら言う。


「パパなら大丈夫よ、それより走って! 逃げるのよ!!」


 父のニイスは、愛する妻と子を逃がす為、剣を取り時間を稼いでいた。


 母のアメリアは、夫を心配に思いながらも子を守るために駆ける。


 しかし逃げる親子の前に、黒い影が降り立ち、立ちはだかった。


「っと……やっと追い付いたぜ……!」


 アメリアは幼き日のアレン――アイリスを庇うように立つ。


 そして、影の人物を睨み付ける。


 その人物はこちらを見てにやりと笑う。


「ったく、手間かけさせやがって……まあいいさ。あっちは始末したし」


 その人物の言葉にアメリアの表情は険しくなる。


「どういう意味……?」


 アメリアが低くに放った声に、その人物は口角を上げる。


 その表情は、悪意に満ち、歪み切った笑みだった。


「お前の旦那だったか、あの男? アイツならもう始末したんだよ。この俺様、『魔王直属七天皇』の一人、「傲慢のプライド」がな!!」


 声を上げ、人物――傲慢のプライドは自分を親指で指差し主張する。


 アイリスは、恐怖と悲しみで目にいっぱい涙を浮かべ、アメリアの手を引っ張る。


「パパ、殺されちゃったの……?」


 アメリアは、アイリスの声も聞こえていないようだった。


 真っ白になる頭。


 嫌な予感を振り払うように、叫ぶ。


「嘘よ! あの人が負ける筈ない!!」


 しかし、そんなアメリアの叫びをプライドは鼻で笑う。


「じゃあ、何故俺様がここに居る? 何故お前達の前に居る? 答えは一つだろう?」


 プライドの言う通りだった。


 ニイスは二人を逃がす為、敵を喰い止めてる筈だ。


 けれど、現に今、敵は二人の目の前に居る。


 それは、ニイスが倒されたという現実を突き付けていた。


 心から恋し、愛している者を殺された。


 その事実が、アメリアの心に噛みつき、噛み殺そうとしている。


 アメリアの顔は、心からの出血で真っ青になった。


 嘘だ、こんなの嘘だ。


 そう思おうとするが、目の前にプライドが居るという事実がそれを許してはくれなかった。


「さて……勇者は、根絶やしにしろというのが魔王様の命令だ。……死んでもらおうか」


 プライドはそう言うと手の中に闇の塊を作り出す。


「ママ!!」


 泣き叫ぶアイリス。


 その声でアメリアはハッとする。


「死ね!!」


 プライドは作り出した闇を二人に放つ。


 まずい……!


 アメリアは急いで構えを取る。


「シルフ、力を貸して! ブレイヴテンペスト!!」


 アメリアが叫び、手を突き出すと嵐のような強風が放たれた。


 闇と風がぶつかり合う。


 ほぼ互角の力は、大きな衝撃を生じながら爆発した。


 辺りの灰や砂が巻き上げられ、周りが見えなくなるほどの煙が上がる。


 そして、暫くして煙が晴れてくると、プライドは無傷で立っていた。


「お前……風魔法の使い手か」


 驚いたような、感嘆したような表情をする。


 しかし、それは褒め称えるというより、皮肉るような、見下しているような、悪意の籠った表情だった。


「でも、俺様の方が上手みたいだな?」


 プライドがニヤリと笑みを浮かべる。


 見ると、アメリアの方は傷だらけになっていた。


 痛みに顔を歪め、血が溢れる傷口を手で押さえている。


 どうやら魔力はプライドの方が勝っていたらしい。


 アイリスはアメリアの後ろに隠れていた為無傷だが、その衝撃の強さを感じていた。


「ママ……!」


 心配そうにアメリアを呼ぶアイリス。


 アメリアは苦しそうに息をしながらも、愛する娘を安心させようと微笑む。


「大丈夫よ、アイリス……それより、早く逃げるわよ!」


 血に濡れた手で、アメリアはアイリスの手を握り走り出す。


「逃がすかよ!!」


 プライドがまた闇魔法を放つ。


 親子は建物と建物の狭い隙間に入り躱す。


 建物を燃やす炎の熱さに顔を顰めるアイリス。


 しかし、アメリアは強引に手を引き走る。


 逃げ切らなければ。


 この子を、守らないと。


 プライドも後を追い、走り出す。


 闇魔法を放ち親子を狙う。


 アメリアはそれを見定め、横に逸れて避けたり、瓦礫や建物を盾にして躱す。


「チッ、この……ちょこまか鬱陶しい!!」


 プライドは舌打ちし、親子の遥か上方に闇魔法を撃ち放った。


 苛立って闇雲に放ったのかしら……?


 プライドを振り返り、アメリアがそう思った時だった。


「! ママ、危ない!」


「!?」


 アイリスが強く手を引っぱる。


 その声と力で、アメリアも立ち止まる。


 すると、二人の目の前に破壊された建物の大きな瓦礫が落ちてきた。


 燃え盛るそれは、砕けて火の粉を巻き上げる。


 先程、上方にプライドが放った闇魔法が建物を破壊し、道を塞いだのだ。


「さて……もう逃げられないぜ?」


 プライドが一歩ずつ近付いて来る。


 もう逃げられない。


 アメリアはアイリスを背後に隠しプライドに向き合う。


「さあ、鬼ごっこもお終いだ。死んでもらおうか」


「っ……」


 アメリアはまた構えを取る。


 せめて、この子だけでも守りきらなければ……!


「ママ……」


 涙でグシャグシャになった顔で、アメリアを見上げるアイリス。


「大丈夫よ、アイリス。大丈夫……」


 アメリアは、プライドを睨みながらアイリスに声を掛ける。


 しかし、その声は震え、表情も険しい。


「それじゃあ……」


 プライドが手の中で闇を蠢かせる。


 あの破壊力の闇魔法をまた撃たれたら、今度こそ……。


 アメリアは魔力を集中させる。


「シルフ、頼むわよ……」


 小さく呟き、風を纏う。


「死ねぇ!!」


「ブレイヴテンペスト!!」


 同時に放たれる闇と風。


 先程のように灰や砂が巻き上がり煙となる。


 アイリスは伏せた顔を、そっと上げた。


 煙が晴れて、だんだん状況が見えてくる。


 周りの炎は、その風や衝撃で消し飛んでいた。


 向き合って立つアメリアとプライド。


 アイリスの位置からアメリアの表情は見えなかったが、母が立っているという事実にアイリスは感動していた。


 ママの魔法は、あの魔王の仲間に負けなかったんだ!


 じっと母の背中を見つめるアイリス。


 しかし……現実とは、無情なものだった。


 ぐらり、と、アメリアの身体が揺らぐ。


 たった一瞬の事の筈なのに、アイリスには永遠に思えた。


 静寂に包まれる中、パタリと音を立てて、アメリアが倒れた。


「ママ……?」


 ポツポツと、落ちる雫のように零れる声で母を呼ぶアイリス。


 しかし、倒れた母は何も答えない。


 それが、アイリスの胸の中を掻き回す。


「ママ!!」


 アイリスは悲鳴を上げる。


 傷だらけの母に駆け寄り、揺すり起こそうとする。


「ママ、しっかりして! ママ!!」


 アメリアは苦しそうに顔を歪めながらも、薄く目を開ける。


 そして、泣き叫ぶ娘を見つめ、そっとその頬を優しく撫でる。


 消えそうな程、か細い声で、言った。


「アイリス……生きる、のよ……逃げ……て……――」


 次の瞬間、アイリスの頬を撫でる腕が崩れ落ちた。


 瞼が閉じられ、一筋の雫が母の頬を伝う。


 息が――止まった。


「ママ……?」


 アイリスは目を見開く。


 崩れ落ちた手を、そっと握る。


 その手が、握り返される事は無かった。


 アイリスの瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れる。


「ママ、どうして寝ちゃうの? 一緒に、逃げるんでしょ? ねぇ、ママ……?   ママ!!」




「っ!!」


 ハッと目を開けると、木の枝の隙間から星空が覗いていた。


 すぐ傍でパチパチと薪の燃える音がする。


 火の感覚に一瞬怯えるが、それはあの炎より遥かに小さく、周りをぼんやりと照らしている。


 ……夢か。


 アレンは早鐘を打つ心臓に顔を顰め、胸元をぎゅっと掴む。


 息が喉元で詰まっている気がして苦しい。


 浅く呼吸しながら、もう片方の手で額に浮かんだ冷や汗を拭う。


 もう二度と見たくなかった光景。


 まさか、十年も経った今、こんな夢を見てしまうなんて。


「アレン?」


「!」


 突然名を呼ばれ、アレンは肩を跳ねさせる。


 声の方を見ると、ジークが心配そうにこちらを見つめていた。


「大丈夫か? 魘されてたみたいだが……」


「あ、うん……ちょっと、昔の夢を見ただけだよ。大丈夫」


 アレンは引き攣った笑みを浮かべる。


 その笑みを見て、ジークは一層アレンが心配になる。


 アレンの昔の夢と言ったら、きっと辛い夢だったに違いない。


 なのに、それでもお前は強がるのか?


 そう言いたい気持ちを抑え、言葉を呑み込む。


 そんな強がりも、受け止めてやらないと。


 自分に言い聞かせる。


「……そうか」


「うん」


 ジークの一言に、アレンは頷く。


 やはり表情は苦しそうだった。


 その表情にジークは堪らなくなって腕を広げる。


「アレン、来い」


 その言動に、アレンは首を傾げる。


「来いって……?」


「ほら、小さい頃は悪い夢見た時、こう、抱き締めてやっただろ?」


 そう言われ頭の中で合点がいくアレン。


 しかし、首は勢い良く横に振られた。


「小さい頃って、どれだけ昔のことだい!? もう、そんな歳じゃないよ、バカ!!」


 子供扱いされた事への不服さからか、それとも照れ臭さからか、アレンは声を荒げる。


 予想外に強くアレンに反対されたもので、ジークも思わず声を大きくする。


「バカってな……! だって、あの頃はお前から「ギューして~」とか言ってきたじゃないか!!」


「あの頃はあの頃! 今は今!! 本当にいつの話してるんだよ!? ホント、バカ!!」


「今も昔もお前が俺よりガキな事に変わりはないだろう!?」


「何を!!」


 夜の静寂に似合わぬ大声。


 言い合いに夢中で、二人は気付けなかった。


 自分達に忍び寄る怒りの影に……。


「煩ぇええッ!!」


「!?」


 二人が振り向くと、そこには悪魔の形相のカノンが立っていた。


 二人の声で眠りを妨げられ、怒りに瞳が光る。


「この夜中に何だぁテメェら……人が寝てるの分からねェのか? あぁ!?」


 この声が、あのカノンの声だというのか。


 それは、魔物の咆哮よりも恐ろしい叫びだった。


「ヒッ……!?」


「お、落ち着けカノン! 悪かったから……!!」


 怯むアレンと宥めようとするジーク。


 そんな二人を暫く睨んだ後、カノンはパタリと倒れ、そのまま眠り込んだ。


 恐る恐るそれを見つめる二人。


 虫の声も鳥の声も、精霊達の声も、カノンのあの一声で止んでしまった。


 完全な沈黙に耐え切れず、アレンは逃げるように毛布に包まる。


「おやすみ……!」


「お、おう、おやすみ……」


 ジークも頭を掻き、胡坐をかく。


「……ありがと、ジーク」


「!」


 小さく、本当に小さくアレンは声を発した。


 それに気付いてジークが目を向けると、アレンは知らん振りで目を閉じていた。


 そんな幼馴染が微笑ましくて、ジークはクスッと笑う。


「どう致しましてな、アレン」


 アレンも擽ったさを感じながら、その言葉を嬉しく思う。


 この距離が、アレンにはとても心地よかった。






「おはよう……」


「あ、おはようございます勇者様」


 アレンが目を覚ますともうとっくに日が昇っていた。


 木々の枝の隙間から柔らかく朝の日の光が差し込んでいる。


 既にカノンは朝食の支度を始めていた。


 ジークの姿は無い。


「あれ、ジークは……?」


「ああ、お兄ちゃんなら水を探しに行ってくれましたよ」


 周りを見回し言葉を漏らすアレンに、カノンは手を動かしながらそう返す。


 思えば確かに、そろそろ手持ちの飲み水も心細くなってきていた。


 補充出来たら、それは有難い事だ。


「……あ。来た来た」


 噂をすればなんとやら。


 カノンがそう言って顔を上げるとジークが木々を掻き分け帰って来た。


 その手に持っている容器からはタプタプと水が揺れる音がする。


「ただいま。あ、アレン起きたか」


「うん、おはよう」


 寝惚けつつもアレンはニコリと笑って見せる。


 ジークはそれに笑い返すとカノンに水の入っている容器を渡す。


「案外早かったね」


「ああ、すぐ近くに泉があってさ。そこで汲んできたんだ」


「へー、助かったね!」


 カノンはジークに渡された容器を開ける。


 そして次の瞬間、カノンは目を見開いた。


「これ……!」


「? どうかしたの?」


 その様子を不思議に思いアレンも歩み寄る。


 そして、アレンもまた、驚いた表情をする。


「これは、凄いね……」


 カノンとアレンの様子に、ジークは首を傾げるばかりだ。


 ただの水じゃないのか?


 そんな心情が顔に書いてあったのだろう、アレンがそれを見かねて説明する。


「ジーク、この水にはね、魔力が溶け込んでいるんだよ」


「魔力が溶け込む?」


 ジークはピンと来ない。


 魔法を使えないジークには、魔力とやらは感じられないのだ。


 というか、魔力って水に溶けるのか?


 ますます難しい顔をするジークに、アレンは苦笑する。


 それを見てカノンはフォローを入れる。


「お兄ちゃんは、魔力が溶け込んだ水が売られているのを知っている筈よ?」


「えっ」


 更に混乱するジーク。


 え、俺が知ってる? えっ?


 それを見てカノンは腰のポーチから小さな小瓶を取り出した。


 その小瓶は、街の道具屋で買った『聖水』の入れ物。


 聖水は、魔力を回復するためのアイテムだ。


 それくらいなら、ジークも知っていた。


「聖水は、魔力の溶け込ませた水なの。だから、飲んだ時に魔力を回復できるのよ」


 成程、とジークは納得する。


 けれど、同時に疑問も浮かんだ。


「普通に道具屋に売ってる道具だろう? そんなに珍しいものでもないのにどうしてそんなに驚く必要があるんだよ?」


 その問いにはアレンが答える。


「溶け込んでいる魔力が桁外れに強いんだ。大体……三倍くらい?」


「えっ」


 改めてカノンが取り出した聖水と汲んできた水を交互に見詰める。


 全く持って違いが分からない。


 しかし、アレンとカノンにははっきり分かるらしい。


 汲んできた水と買った聖水を飲み比べてはしゃいでいる。


 何も分からないジークは疎外感を感じなんだか退屈になって来る。


「ねえ、お兄ちゃん!」


「うぉ!?」


 退屈さからぼんやりしていたジークは、カノンに呼ばれただけで大袈裟に叫び思い切り肩を跳ねさせた。


「ど、どうしたのジーク?」


 思わず心配そうにアレンが声を掛けてくる。


 カノンもキョトンと小首を傾げている。


「……あ、あ、いや、なんでも」


「ん、そう? あのさ、この水何処で汲んで来たの?」


「ああ、案内するよ」


 アレンが聞くとジークは着いて来いと進み始めた。


 アレンとカノンはそれに着いて行く。


 暫く歩くと、ジークが言っていたように泉があった。


 澄み切った水面が木漏れ日を反射させキラキラと輝いている。


「わあ、綺麗……!」


 アレンはそれを見て声を漏らす。


 カノンも目を輝かせている。


「近くに居るだけでも強大な魔力を感じるわ……精霊達が集まるのも納得ね」


「木々が魔力を放出していたのも、ここら辺の水に魔力が溶け込んでいたからかも」


「そんなに凄い泉だったのか、ここ……」


 アレンとカノンの様子から、ジークもじわじわとその凄さを実感していた。


 確かに、この泉の近くに居ると、体の奥から力が湧いてくるような、そんな感覚がする。


 不思議な感覚だが、これが魔力というものなのだろう。


「この水、持っていけたらかなり助かるよね!」


 そう言ってアレンは泉の水を汲もうと畔に近付く。


 その瞬間だった。


 突然、突風が三人の身体を煽る。


「うわっ!?」


「きゃあ!」


 カノンは思わず尻餅をつき、ジークもその勢いによろめく。


 アレンは、泉に落ちそうになるのを反対方向に倒れる事でギリギリ回避していた。


 風は、倒れて伏せているアレンを中心にくるくると渦巻き、その後泉に向かって吹きぬける。


 そして、泉の中心に何かが飛び込んだような波紋を広げ、消えていった。


 風が止んだのを確認すると、ジークとカノンはアレンに駆け寄った。


「アレン! 大丈夫か?」


「勇者様!」


 アレンもそれに気付き顔を上げる。


 風に吹かれ髪はぼさぼさだ。


「び、びっくりしたぁ……」


 へにゃんと情けない表情を浮かべると、大丈夫そうだなとジークとカノンは思わず笑った。


 ジークはアレンに手を差し伸べ、アレンもそれを掴む。


 それをしっかりと握り返すとジークは腕を引っ張った。


「しかし、さっきのは何だったんでしょう? 勇者様に強く吹き付けてましたけど……」


 ジークに引っ張り起こされるアレンを見ながら、カノンは首を傾げた。


 どう見ても不自然な風だった。


 アレンを攻撃しようとしていたのか。


 それにしては、攻撃に使用するような風でもなかった。


 不思議な現象に、カノンは唸るばかりだ。


 立ち上がったアレンは、口を開く。


「あのね、さっきの風……多分、森の入口で吹いた、あの風だと思うんだ」


 そう、アレンには覚えがったのだ。先程の風に。


 それは、森の入口で自分を誘った、あの風。


 あれと、同じ風が吹いたのだ。


 強さは違うけれど、確実にそうだと、自分達をここまで誘ったあの男がまたメッセージを送っているのだと確信を持っていた。


 間違いない筈だ。


 アレンの真っ直ぐな目と声に、疑う理由は無かった。


「じゃあ、お前が言っていた誰かさんは俺達を此処に誘っていたのか?」


 ジークの問いにアレンは頷く。


「多分、だけどね」


「じゃあ、その誰かに此処で会える……?」


 カノンがそう言葉を零したその瞬間、泉から水音が鳴った。


 三人はその音に泉を振り返る。


 そして、その光景に息を呑んだ。


 泉の中央、水面の上に、眩い光を纏った人影が立っていたのだ。


 その人物からは、爽やかな風が吹き抜けている。


 水面を揺らしながら佇むその姿は、神秘的な雰囲気を醸し出している。


 三人は動けなくなった。


 その美しさに目を離せない。


 光を纏った人物は、一歩ずつこちらに近付いて来る。


 その人物が一歩踏み出す度、水面を美しい波紋が走る。


 少しずつ、少しずつ、三人との距離が縮まる。


 人物が畔へ降り立つと、その光は少しずつ収束し始めた。


 光が完全に収まると、その人物の姿が露わになった。


 優しい緑の髪を持つ、美しい男だ。


 男はアレンを見ると、愛おしそうに目を細めた。


「やっと会えたな、アイリス」


「えっ……?」


 美しい異性に、愛しげに本当の名で呼ばれ、アレンの鼓動は大きく鳴った。


 聞きたい事が色々あるが、それどころではない。


 紅潮するアレンを見て、男はより一層笑みを深くした。


 そして、そっと傅いて、アレンの手を取る。


「さあ、アイリス。我と契りを交わそう」


 ぼんやりとそれを見ていたジークだったが、ここで我に返った。


 想い人が、全く知らない男に口説かれている。


 そう考えると途端に頭が活発に動き出した。


「おい、お前! 出て来ていきなり何言ってやがる!!」


 ジークはアレンを男から引き剥がした。


 そのジークの行動で、カノンもハッとする。


 アレンは思う事が多すぎて逆に混乱。


 カノンは、そんなアレンと、アレンを抱き留めているジークを庇うように男の前に立つ。


「いきなり何なんですか貴方は!?」


 そんな三人の様子に、男は悩ましげな溜息を吐く。


「人間の世界には馴染みがない言い方だったかな? では言い方を変えよう」


 そう言うと男は、届かぬ位置に居るアレンに手を差し伸べ、とんでもない事を言い出した。


「アイリス、我と結婚しよう」


「なっ……!?」


 ただでさえ混乱していたアレンの頭に、トドメと言わんばかりに言葉が突き刺さった。


 キャパオーバーしたアレンの頭は、真っ白になった。


「言い方とかそういう問題じゃない! って、おい、アレン?」


 叫ぶジークの声も遥か遠い。


 何も、考えられない……。


 突然のプロポーズに、完全に思考が停止していた。


「貴方は、一体何者なの? 何故勇者様の本当の名前を知っているの!?」


 アレンの疑問を代弁するように、カノンが声を上げる。


 男はアレンの様子に苦笑しながら、カノンの問いに答えた。


「我の名は、シルフ。風の大精霊だ」


 その言葉はアレンの耳に届いたようだ。


 アレンの目に色が戻った。


「シルフって……まさか……?」


 ポツリと呟くアレン。


 その呟きに、男――風の大精霊シルフは頷いた。


「そう。お前と契約し、風を操る魔法を与えた……風の大精霊シルフとは、我の事だ」






 ――十年前。


 目の前で母親を失った幼き日のアレン――アイリスは、絶体絶命の状況に追い込まれていた。


 息を引き取った母を前に、動けないアイリス。


 彼女に、魔王直属七天皇の一人傲慢のプライドが一歩ずつ近付く。


「さて、お前が最後の生き残りだな。勇者サマよ」


「!」


 恐怖でアイリスは動けなくなる。


 自分を守ってくれる存在は、もう無い。


 このままだと、わたしも殺される……。


 嫌、死にたくないよ……!


『生きたいか?』


 アイリスの心を見透かしたように、何処からか男の声がした。


「へ……? 誰……?」


 アイリスは、その声の主を探すように辺りを見回す。


 しかし、そこにそのような人物は居ない。


 気のせいなのかな……?


 そう思った直後、また声が響いた。


『死にたくないのだろう?』


 やっぱり、気のせいなんかじゃない。


 アイリスは縋るように、叫んだ。


「うん、死にたくない……死にたくないよ!!」


 その次の瞬間、辺りを猛烈な風が吹き荒んだ。


「な、何だ!?」


 思わず風に怯むプライド。


 アイリスも思わず顔を腕で覆う。


 薄く目を開け腕の隙間から覗くと、そこには男のような形を取る光が浮かんでいた。


 その光の男は、低く、力強く、アイリスに言った。


「我の名は風の大精霊シルフ。アイリスよ、我と契約しろ。そうすれば、我はお前に力を与え、お前を救う事が出来よう」


 大精霊? 契約?


 アイリスはよく分からず、混乱する。


 その様子を見て、シルフと名乗った男は焦ったように声を荒げる。


「何をしている、死にたくないのだろう……! 早く、我と契約を!!」


 その声に気圧され、アイリスは本当に小さな声で訊く。


「あなたと契約すれば……わたしは死ななくて済むの?」


 その言葉に、シルフは強く頷く。


「風の大精霊の名に懸けて……必ず、お前を守って見せよう」


 力強くも優しい、その言葉にアイリスは心を許した。


 そして、決意する。


「分かった。わたし、あなたと契約する……!」


 それを聞き、シルフは一瞬、ほんの一瞬だけ、安堵したように微笑んだ。


 そして、アイリスに手を差し伸べる。


「契約成立だ。これからよろしく頼むぞ、アイリス」


「……うん」


 差し伸べられた手を、アイリスは母の血で濡れた小さな手で握った。






 ――それ以降の記憶は、アレンに残っていない。


 気付いた時には、ジーク達一家に保護されていたのだ。。


 けれど、今自分が生きているのは、シルフのお陰というのは、容易に想像できた。


 が、この十年、お礼を言おうにもそのシルフの姿は見えず、声も聞こえず……


 そんなシルフが突然目の前に現れ、自分に求婚を申し込んでいる。


 ……アレンはますます訳が分からなくなった。


「ど……どうして、今頃僕達の前に? 今まで、君の姿を見たことなんて、無かったのに……」


 混乱しながらも、疑問を投げかけるアレン。


 シルフは小さく息を吐き、


「愛すべき花嫁の問いには答えねばな」


と語り始めた。


「私は今まで、魔力が不足していて姿を現すことが困難だったのだ。」


 精霊は、人間以上に魔力の影響を受ける。


 体内の魔力が全て失われれば、命を落としてしまう。


 更に、精霊は生きる上で人間よりも魔力を多く消費する。


 人間が普段使っている程度の聖水では、魔力の供給が間に合わない場合も多いのだ。


 シルフは大精霊というのもあり、多くの魔力を体内に維持する事も出来る。


 しかし長い年月、大きな魔力の供給が無ければ、限界も来る。


 シルフの魔力は、姿も現せぬ程に枯渇してしまった。


 そして今、二十年ぶりに多くの魔力を補給し、アレン達の前に姿を現す事が出来たのだ。


「二十年も魔力の供給が無かったのかい……?」


「二十年何してたんだよ、お前」


 話を聞いたアレンの零した言葉を聞いて、ジークは更なる疑問を投げつけた。


 シルフはジークの事が気に入らないようで、若干不機嫌そうに話す。


 シルフは、今まで強い魔力を持つ沢山の女性をその美しい姿で誘惑し、婚約してきた。


 そして、その女性が亡くなった時その魂を貰い受け、それを糧に長い年月を生き続けてきた。


 不老不死と謳われる程の年月を、だ。


 そんなシルフは、二十年前にこの泉でアレンの母親であるアメリアに出会った。


 アメリアも強い魔力を持っていた。


 いつものように、他の女にもそうしてきたように、シルフはアメリアを誘惑した。


 しかし、アメリアはそれをいとも簡単に一蹴したのだ。


 「貴方より、大切な人がいる」と。


 今までその美しさで幾多の女を落としてきたシルフにとって、それは屈辱的な出来事だった。


 自分より優れた男が居るとでも言うのか?


 シルフはアメリアに着いて行く事に決めた。 


 そして、その男からアメリアを奪おうと企んだのだ。


 アメリアは、シルフが着いて来るのを拒もうとはしなかった。


 「貴方じゃ私の心は奪えないから、好きにすれば良い」と。


 その挑発的な言葉が、シルフを意地にさせた。


 その後、アメリアは数日歩いた場所にある、小さな田舎の村――アレン達の故郷の村で結婚式を挙げた。


 相手は、良く言えば穏やか、悪く言えば気弱なニイスという男だ。


 見た目は悪くはない程度……中の上くらいで、何故自分がコイツに負けたのか、シルフは理解できなかった。


 それからずっと、隙あらばシルフはアメリアを口説きに掛かった。


 ときには花やアクセサリーをプレゼントしたり、ときには風魔法で手助けをしたり。


 しかし、アメリアの想いは真っ直ぐだった。


 彼女が真に愛したのは、ニイスだけだ。


 アメリアを追い駆け続けるうちに、シルフの中にとある感情が生まれた。


 それは、生まれて初めての恋心。


 意地などではなく、心から彼女を慕い、守りたいと思っていた。


 アメリア自身も、だんだんとシルフに心を許していった。


 親友、いや、相棒と呼べる関係に二人はなっていったのだ。


 そんなある日、シルフはアメリアに契約を持ちかけた。


 婚約はせず、あくまで契約者として自身の風魔法を彼女に与えようと。


 今のアレンや、多くの人間たちが精霊と結んでいる、同じ条件の関係だ。


 アメリアは契約に応じた。


 それから、シルフはアメリアとニイス夫婦と、ニイスの父ガイアと共に暮らし続けた。


 いつしか魔力が枯渇し、見えなくなっても夫婦に寄り添い、風の魔法で守り続けた。


 勿論、生まれてきたアメリアの娘、アレンの事もだ。


「……ザッと語るとこんな感じだろうか」


 懐かしげに、そして楽しそうに語り終えるとシルフは一息ついた。


「じゃあ、あの時……母さんが殺された時、契約者が居なくなって、僕に契約を?」


 アレンの問いにシルフは頷く。


「魔力が枯渇していた我は、契約者であるアメリアの魔力を分けてもらって生きていた。あそこでお前と契約しなければ、我もお前も死んでいただろう」


「利害の一致ってやつな……」


 シルフの言葉にジークは難しい顔をする。


 カノンは暫く顎に手を当て考え、尋ねた。


「でも、どうして勇者様に突然結婚を持ちかけるんです?」


 確かに、と頷くアレンとジーク。


 シルフはよくぞ聞いてくれた、とでも言うように澄ました顔で言う。


「アイリス、お前はよく似ているのだよ。あの、アメリアに」


「えっ……?」


 きょとんとする三人。


 確かに、アレンは母親似だ。


 髪質や顔立ち、声、その他諸々……


 アレンに自覚は無いようだが、言われてみればとジークはぼんやり思う。


 シルフは、アメリアの姿をアレンと重ねているようだった。


「お前と婚約した時、本当の意味で私の想いは成就するのだ……!」


 声に力が籠るシルフ。


 アレンは完全に困惑顔だ。


 ジークとカノンに視線で助けを求めている。


 その視線をキャッチしたカノンは強めに言葉を返す。


「でも、それは勇者様の意思次第じゃないですか? 貴方の勝手で勇者様を無理矢理結婚させるなんて、あんまりですよ!」


 カノンの言葉にそうだそうだと続くジーク。


 シルフはその言葉に一瞬眉を顰める。


 しかし、フンッと鼻を鳴らすと気を取り直すように笑う。


「アイリス、お前はきっと我と契りを交わす事を選ぶだろう」


「……どういう事?」


 自分の意思を勝手に決めつけられた気がして、アレンは声を低くして言う。


 シルフはその睨みつけてくる顔さえ愛しそうに見つめる。


「契りを交わす事で、更に強くなれると言ったら、どうする?」


「!」


 その一言に、アレンは目を見開く。


「おい、どういう意味だ?」


 ジークは胡散臭いと言いたげに、シルフを睨み付けて言う。


 シルフはそんなジークを鼻で笑った。


「もし、契りを交わせば今よりも強力な魔法をお前に与えることが出来る。そうすれば、お前はもっと強くなれる。悪い話ではないだろう?」


 シルフの言葉に、アレンは思い悩む。


 確かに、強力な魔法が使えればこの先の旅もよりスムーズになるだろう。


 でも……結婚なんて、考えてもなかったのに、急に……?


 アレンの悩む姿を見て、シルフは優しく微笑む。


「急ぐことはない、よく考えてくれ。我と、自分と、そして『世界』のためにも、ね」


 そう言い残すとシルフは姿を消す。


 残されたのは、三人と静寂だけだった。






「もう、サイテー! 何アイツ、すっごいヤな感じ!!」


「本当にな、気取った感じが腹立つ!」


 その後三人は一度戻り、朝食を取っていた。


 大声で愚痴を叫ぶカノンとジーク。


 アレンは、考え込んでいるのか黙って俯くだけだ。


 食事にも殆ど手がついていない。


「……アレン、大丈夫か?」


 アレンの様子を見て、ジークは心配そうに声を掛ける。


 アレンは無理な笑みを浮かべて頷く。


「あんな奴、無理ってストレートに言ってやれば良いんですよ!!」


「そうそう、そんな急に好きでもない奴に迫られても困るだけだろ。断って良いと思うぞ」


「……うん、でも……」


 ジークとカノンにそう言われても、アレンは決断出来なかった。


 もし、今より強い魔法を使えるようになれば……二人を危険な目に遭わせなくて済むかも知れない。


 世界を救える可能性も高くなる。


 それに恋とかよく分からないし、魔王を倒した後の事なんて考えたことも無かった。


 ……自分が、我慢すれば。


 そんな考えが頭に纏わり付く。


 こんな考え、二人が知ったら怒るかな?


 シルフへの不満を言い合う二人を見て思う。


 でも……大切な二人のためにも。


 アレンの考えは、固まりつつあった。




 アレンは、ジークとカノンの目を盗んで一人であの泉にやって来た。


 きっと、二人が一緒に来たら自分の行動を阻止すると思ったからだ。


 自分は、強くならなければいけない。


 そのための手段は、選んではいられないのだ。


「シルフ!」


 泉の畔に立ち、契約者の名を呼ぶと強い風が吹く。


 そして、泉の中央に彼が……シルフが現れた。


「来たか、アレン」


 嬉しそうに目を細め、一歩ずつアレンに近付いて来る。


 アレンはそれをまっすぐに見つめる。


「考えは纏まったかい?」


 優しく穏やかな声で尋ねるシルフ。


 それにアレンはこくりと頷く。


「本当に、君と契りを交わせば強くなれるんだよね?」


 その問いにシルフは勿論、と答える。


 その肯定の返事に、アレンの決意はより固いものとなった。


 一度深呼吸すると、アレンはそっと口を開く。


「分かった。……僕は、君と」


 次の瞬間だった。


 アレンの言葉を遮るように何処からか悲鳴が上がる。


 最初は一つだけだった悲鳴が、次々と数を増やしていく。


 すぐに、森の中は悲鳴の洪水に呑まれた。


 この森に住む精霊達だろうか。


「何事だ!」


「シルフ、行こう!」


 アレンとシルフは話を後にし、泉から駆け出す。


 悲鳴の上がった地点に近付けば近付く程、気温が上がっている気がする。 


 赤い光が、先にぼんやりと見える。


 そこから逃げ惑う精霊達の波を掻き分け到着すると、そこは火の海と化していた。


 その火の海の中心には……炎を吐き暴れまわる猪のような姿をした大型の魔物が暴れていた。


「ひっ……!」


 その光景に立ち尽くすアレン。


 アレンは大きな炎が苦手なのだ。


 日常的に使用される程度の大きさなら平気なのだが……それ以上の炎を前にすると、足が竦む。


 固まるアレンの肩に、そっとシルフが手を置く。


「大丈夫だ、気をしっかり持て」


 その声に、気を取り直して小さく頷いた。


「アレン! ったく、何処行ってたんだよ!」


「勇者様! 良かった無事で……!」


 騒ぎを聞き付けジークとカノンも駆けつけて来る。


 魔物は木々を燃やし、精霊達を攻撃していたが四人を見つけるとこちらに突進してきた。


「うわあああ、こっち来たぁ!!」


 悲鳴を上げるカノン。


 魔物の突進は一直線でちゃんと動きを見れば躱すのは難しくない。


 全員上手く躱したが、魔物が突進してぶつかった木はいとも簡単にへし折られ、倒された。


 凄まじいパワーだ。


 あれに直撃したら、怪我では済まないのは目に見える。


「我は火を消し止める。お前達はソイツを頼むぞ!」


 シルフはそう言うと飛び出して行く。


 ジークは舌打ちしつつも、魔物と向き合う。


「アイツに指図されるのは気に喰わないが……やるしかないな」


「うん、なんか悔しいけど!」


 カノンも戦闘態勢に入る。


「よし、行くよ!」


 アレンも剣を構えた。


 戦闘開始だ。


 先陣を切ったのはアレンだった。


 素早く接近し、剣で切りかかる。


 ジークも続いて攻撃をし掛けた。


 魔物は苦痛で叫び、空気を震わせる。


 そして攻撃の為近付いていた二人に頭から突っ込む。


 アレンは飛び退いて躱し、ジークはその大きな剣で受け止める。


 しかし、木をへし折るだけのパワーを受け止めきれる訳もない。


 腰を落とし力を込めるが、そのまま押し負け体勢を大きく崩す。


 すぐには動けないジークに向かって、魔物は炎を吐き出す。


「やべ……!」


 熱さを覚悟し顔を覆ったその時、強い風が吹く。


 アレンが風魔法を発動させ、炎を押し返したのだ。


「大丈夫?」


「ああ! サンキュー、アレン!」


 自らが放った炎の熱さに悶える魔物。


 その隙にジークは体勢を立て直し再び攻撃を仕掛ける。


 カノンは後方から魔法で二人をサポートする。


 この森で出会った他の魔物よりも手強いが、勝てない相手ではない。


 魔物の大きな動きを見切り、立ち回り、攻撃する。


 ダメージを受けたらカノンが素早く回復する。


 絶妙なチームワークで魔物を追い詰める。


 あと一息で倒せる、その瞬間だった。


「! 勇者様、危ない!」


「えっ?」


 カノンが叫んだ直後、アレンのすぐそばに炎を纏った大きな枝が落ちた。


 焼け落ちて来たのだろう、熱を放ち、火の粉を舞い上がらせる。


 その強烈な炎の感覚に、アレンは動けなくなってしまう。


 カノンの叫びは、シルフの耳にも届いていたらしい。


 振り返ると、アレンは怯えて立ち尽くしていた。


幼い子供のように。


 そこに、容赦無く魔物が突進してくる。


 マズい、このままでは……!


 焦るシルフの脳裏に、いつか聞いた声が響く。


『この子の事、よろしく頼むわよ』


 それは、在りし日のアメリアの声だった――。






 ――アメリアがそのお腹に、アレンを宿していた頃だった。


 幸せそうにお腹を撫でるアメリアを見て、シルフも自分のように幸せを感じていた。


 アメリアはそんなシルフを見ると、優しい口調でこう言った。


「もし、私に何かあったら……この子の事、よろしく頼むわよ」


「縁起でも無い事を言わないでくれ、君らしくもない」


 シルフは苦笑してそう返す。


 アメリアもつられるように苦笑した。


「でも、こんな事言えるのアンタくらいなのよ」


 その言葉に、シルフはどうしようもない程の喜びを感じた。


 大好きな人に特別な言葉を掛けられたとなると、仕方ないことだった。


「分かった。我は君と、君の大切な者を守り抜くと誓うよ」


 傅き、アメリアの手の甲にそっと口づける。


 アメリアはそれにクスッと笑う。


 そして、言うのだった。


「頼むわよ、シルフ」






――そうだった。


 シルフは思い出す。


 あの子は……アイリスは、アメリアではない。


 あの人の、大切な娘だ。


守るべき、あの人の大切な者なのだ。


271p.psd


 アメリアとの約束を、果たさねば。


 あの子を、守らねば。


「アレン!」


「勇者様!」


 悲鳴を上げるジークとカノン。


 その声にハッとするアレン。


 しかし、既に目の前に魔物は迫っていた。


 覚悟してアレンは目を閉じる。


 しかし、その後感じる筈の痛みを感じる事は無かった。


 その代わり、感じるのは浮遊感。


 不思議に思い目を開けると、アレンの体は遥か宙に舞い上げられていた。


 風を、感じる。


 風はアレンの身体をまるで抱擁するように、優しくアレンを宙に浮かばせている。


 ジークとカノンはそれをポカンと見上げるだけだ。


 魔物も狙っていた標的が消え、驚きふためいている。


「何をしている小僧、早くトドメをさせ!」


 ぼんやりしているジークに、シルフが喝を入れた。


 その声を聞き、ジークは構え直す。


「うるせえ、お前に言われなくとも!!」


 そして慌てふためく魔物の脳天に剣を振り下ろした。


 魔物は悲鳴を上げ、大きな音を立て、倒れた。


「……終わった、かしら」


 カノンが恐る恐る魔物に近付く。


 魔物は頭から血を流し絶命していた。


 カノンが軽く足で突いても反応しない。


「大丈夫そうだな」


 ジークが言うと、全員安堵の溜息を吐く。


 シルフはそっと緩く腕を振るう。


 すると、風がゆっくりとアレンの体を降ろした。


 アレンが地面に降り立つと、ジークとカノンが駆け寄ってくる。


 そして、無事を喜んでくれた。


 アレンはシルフに歩み寄る。


 シルフも真っ直ぐにアレンを見つめる。


「ありがとう、シルフ。助けてくれて」


「いや、お前は守るべき存在だからな。礼を言われる事では無い」


「……うん、ありがとう」


 礼を言い、小さく深呼吸するアレン。


 暫く俯き、決心したように頷くとシルフの目を見て口を開く。


「シルフ、あのさ。僕は、君と契りを」


「言わなくて良い」


 シルフは、アレンの言葉を遮った。


 驚いて言葉を失うアレン。


 そんなアレンの頭を、シルフは優しく撫でた。


 そして、小さく絞り出すように、言う。


「すまなかった」


「え……?」


 今度は驚きのあまり声が零れた。


 シルフは申し訳なさそうに苦笑しながら、語った。


「お前の母親……アメリアに、お前のことを任されていたんだよ。大切な娘を、守ってくれとな」


「……ママが…………」


 アレンの言葉に、シルフは頷く。


「なのに、我は……彼女とお前を同一視し、自らの欲を押し付けてしまった。お前にも、彼女にも無礼な事をしてしまった。……すまなかった」


 シルフはそう言うとアレンに頭を下げる。


 アレンは首を横に振る。


「顔を上げて! ……君が、母をそんな風に大切に思ってくれていた、それだけで、僕は嬉しいから」


 そのアレンの言葉に、シルフは顔を上げる。


 胸の中で、何か蟠っていたものが、解れた気がした。


 きっと自分は、アメリアの死を受け入れ切れていなかったのだろう。


 彼女の死から目を逸らし、悲しみから逃れる為にアレンに縋った。


 しかし、アレンの言葉に救われた。


 彼女とアレンは違う。


 彼女の大切な者だ。


 彼女が……命と引き換えに守り切った者だ。


 ようやく、彼女の死を受け入れ向き合えるようになった。


 ……そんな気がした。


「ありがとう」


 それは、心からの言葉。


「アイリス……いや、アレン。風の大精霊シルフの名に懸けて……そして、アメリアとの約束を果たす為、我はお前を守り通そう」


「……うん、よろしくね。シルフ」


 アレンは、母親にそっくりな――けれど、確かに違う顔で微笑んだ。

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