M36. 湖の女

 そんなことを話していると、馬車のスピードが段々と緩み始めた。二人は窓の外を見るが、馬車の周囲には建物などはない。目を引くものと言えば以前ここを通った誰かが起こした焚火の跡があるくらいで、森だか湖だかがあるばかりである。しかし、どうやらこの辺りで停車をするようだ。御者が声を掛けてくる。


「お客さん、ここいらで一旦休憩しますんで。外に出て貰っても構いませんよ」


「はい、わかりました。ソーシさん、どうしますか?」


「えーっと、じゃあ。…ちょっくら気晴らしにその辺を散歩してきます」


「そうですか?わかりました。私はこの辺りにいますから何かあれば声を掛けてくださいね」


「はい!じゃ、ちょっと行ってきます」


 爽志はそう言って森の中へと入り、さっき車窓から見えた湖の方向へと向かう。実はここ数日お風呂に入っていない。プローロでもペルティカでも入るチャンスはあったものの、タイミングを逸して今に至っている。湖で入浴というわけにはいかないが、せめて顔でも洗ってスッキリしたいと考えたのだった。


「あった。どれどれ…」


 湖のほとりにかがんで湖面を覗き込んだ。水は澄んでいるように見える。顔を洗うのは勿論、飲み水としても差し支えは無さそうだ。両手で掬ってみる。日の光が森の木々に遮られているからか、水はとても冷たかった。そのまま口元まで持って行くとゴクリと飲み干した。喉が渇いていたわけでは無かったが、水道水はおろかペットボトルの天然水ですらも霞むほどの美味しさを感じる。ただの水には違いないのだが、今そこにある自然から直接施されている、そんな感覚を覚えた。

 再び両手に水を掬うと今度はそれを勢いよく顔へと浴びせた。チクチクと刺すような冷たさが神経を刺激する。だが、今の爽志にはそれすらも心地よく感じた。


「ふ~…」


「スッキリした?」


「うぇ?!」


 死角から突然話し掛けられ爽志は慌てて飛びのいた。声がした方には真っ黒いローブを着て如何にも怪しいという雰囲気を醸した女性が立っていた。白雪姫にリンゴを渡した魔女といった出で立ちで、現実で見かけることはまず無いだろう。ただ、魔女と言うにはいささか若い。魔女と言えば老婆だというイメージが爽志の頭の中にはあったのだ。

 ところが、この女性は20代前半といったところだろうか。端正な顔立ちをしている。しかし、どちらにしても見覚えのある人物ではなかった。


「?!」


「君さ、この辺の人?」


 さっきまでは周囲に女性どころか人の気配すらなかった。質問の意味はわかるが、ここは街角ではなく木々が生い茂る鬱蒼とした森の中だ。そんなところで突然目の前に現れた女性に聞かれるような質問ではなかった。爽志は警戒しつつ返答をする。


「い、いや、違いますけど…」


「ふ~ん、じゃあどこから来たの?」


 爽志はどうしたものかと考えあぐねる。答えたところで困るものではないが、聞かれている場所も相まって女性があまりにも怪しすぎるのだ。答えに窮したため、苦し紛れに質問に質問で返した。


「えっと…なんでそんなことを?」


「気になるから」


「いや、そんな理由で…」


「いいから~!教えてよ」


 女性は謎の迫力でにじり寄ってくる。思わず後ずさりをするものの、このままでは状況が好転する事は…無さそうだ。仕方なくここは当たり障りのない返答をすることにした。



「…ペルティカからです」


 嘘は言っていない。さっきまでは間違いなくペルティカにいたのだから。例えばファース地方からですと言ってしまっても嘘ではないのだ。まさか地球の日本という国からです、などと言った日にはどうなるかわかったものではない。それに、相手はいかにも怪しい女性だ。ボカして伝えるくらいでちょうど良いだろう。


「それは知ってる」


「え?!」


 さっきまでの自問が消し飛ぶほどに爽志は驚いた。知っているとはどういう意味だろうか。爽志のこれまでの行動を把握しているという意味だとすればこんなに恐ろしいことは無い。場所が場所だけに命の危険すら考えられる。

 だが、女性の次の言葉で肩透かしを食らうことになった。


「だって、あの馬車ペルティカのマークが付いてるじゃない?」


「あ、そ、そうなんですか?」


 爽志は少しだけホッとした。監視でもされているのではないかと勘ぐったが、思えばこの世界で監視されるような謂れは今のところない…はずだ。特に大きな問題は起こしていないのだ。強いて言えば、二か所の村を救ったくらいである。だが、良いことをしたのに監視されたとあってはたまったものでは無い。もしそうだったとしたら不条理極まりないことである。

 安心したらなんだか腹が立ってきた。急にやってきて不安を覚えさせるこの女性は一体なんなのだ。質問されっぱなしではどうにも癪である。

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