M02. 調律
裏山までは森を抜けていく。人の足でけもの道が出来上がっているが、険しい道であることには変わりない。
しばらくその道を進むと、泉へと辿り着いた。水は高い透明度で飲料水として使っても申し分が無さそうだ。その為、村の井戸ではなく、こちらを利用する住民も多くいる。
泉のそばで休息を取ろうとしていたロディーナは妙な胸騒ぎを覚えた。泉周辺の空気が酷く重々しいのだ。風はあるのに、しんとして何の音も聴こえない。
「これって、もしかして…」
ロディーナはそう呟くと持ってきた荷物から片目のメガネの様な道具を取り出した。
「エレメンタルモノクル~!ボーダーチューナーには必須ね」
エレメンタルモノクルは音素の濃淡を視認出来るようになる道具だ。ロディーナのモノクルは同じくボーダーチューナーである母から譲り受けたものである。
モノクルを片目の眼窩(がんか)へとはめ込み、周囲を見渡してみた。すると、ロディーナの目に音素の濃淡が水彩画のように現れた。
「やっぱり…この辺りの音素濃度が高くなってる。…このままにはしておけない!」
ロディーナはこの地に調律を施すことにした。右手にチューニング・フォークと呼ばれる巨大な道具を持ち、地面へと突き立てる。そして、詠唱を始めた。
「我は聴く、彼の音を。我は蒔く、素の種を。
遠き恩寵を響かせし、大いなる言霊のしらべよ。
我は今、この地に清浄なる声を轟かせん」
「ピュアー・バイブラント!」
ロディーナの体から何重にも連なった波紋が広がっていく。そのまま泉の周りを覆うように静止し、やがて光となって空へと消えていった。
「…ふぅ。…終わったかな?」
辺りから重々しい空気は消え去り、水の流れる音、風に擦れる枝葉の音、鳥の声、森の賑やかな音が戻ってきた。調律が成功したのだ。
「良かった。これで大丈夫!
…でもやっぱり、一日に何度も出来ることじゃないなぁ」
調律は術者の音素の消費が激しい。今のロディーナでは一日に数回使うのが精一杯であった。
「私もまだまだだ。お母さんはこんなの全然へっちゃらだったのに…」
落ち込むように下を向いたロディーナだったが、
「…ダメダメ!こんなことで凹んでる場合じゃない!早く裏山の方に行かないと…!」
気を取り直して調査現場へと急ぐことにした。
泉で少しの休息を取って、森の奥へと歩みを進める。徐々に目的地へと近付いていく。 ロディーナは先ほどまで賑やかだった森の音が再び静かになっていくのを感じていた。
「ローグさんが言ってた通りだ。この辺りは音素濃度が高いみたい…。…でも、ここが中心じゃない…」
更に歩みを進め、ロディーナは裏山へと辿り着いた。そのまま崩落したという崖を探す。辺りを見回してみると、大きな岩がまるで上から落ちてきたようにゴロゴロと転がっている場所があった。岩の上の崖には崩れたような跡がある。
「ここみたいね」
ロディーナはこの辺りで調査を開始することにした。モノクルで周囲を観察してみる。すると、ロディーナの目に音素の色がハッキリと飛び込んできた。
「嘘…?!予想以上に濃度が高い…!」
音素濃度はモノクル越しに見える色の濃淡で判断するものである。モヤのように薄っすらしたものから、霧のように濃くハッキリ見えるもの、多くの場合、音素の偏りは高くとも霧レベルで、適切な調律を施せば大きな問題にはならない。
しかしー
「景色が染まっちゃってる…」
音素はモノクルの視界が色で染まるほどの濃さを放っていた。ロディーナは思わずモノクルを外して周囲を見た。辺りが陽炎のようにユラユラとたゆたっている。
「モノクル無しで見えるほど濃くなってる…どうしよう。…どうしたらいい?」
自問するように声を発してみるものの、答えは返ってこない。
しかしその時、ロディーナの聴覚が何かを捉えた。
――ジジッ―――ジジジッ――
「?!…この音は」
―ジジッ―ジジッ―
「そんな?!ノイズ?!」
ノイズと呼ばれるこの音はホロウノートが発現する際に鳴る音だと言われている。
「まさか、ホロウノートが発現するっていうの?!」
不意に周囲の音がしなくなった。ロディーナはハッとして足元に落ちている木の枝を踏んでみた。だが、やはり何の音もしない。まるで何の光もない暗闇に包まれたような気分だった。
周囲の音は聴こえないのに、自分の心臓の音だけは大音量で聴こえ、耳元で鳴らされているような感覚に陥る。
(このままじゃマズい!)
―キィィィイイン―
「くぅっ!」
ロディーナを耳鳴りが襲う。そして、目の前の空間が圧縮されていく。
「ホロウノートが…来る!」
―――パァァアン―――
大きな破裂音の後、再び静寂が辺りを包んだ。
先ほどと違うことと言えば、ロディーナの目の前にホロウノートが発現した…ということだけである。
顔と体は真っ白で、目玉の部分を真っ黒な闇が覆っている。吸い込まれたら二度と出られない、そんなことを思わせる恐ろしい姿だ。体は絶えず揺れ動く蜃気楼のようで、実態を捉えられない。揺れとシンクロして自分の周囲にバリバリとした音を放出している。
(しまった!今は対抗策が…!)
通常、ホロウノートはボーダーチューナーの手で葬ることが出来る。しかし、先ほどの調律が仇となり、今のロディーナには消滅させられるほどの音素が残っていなかった。
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