モラハラ夫

@omatsusan

モラハラ夫



 今日、ふと感謝を伝えたいと思った。妻は専業主婦として、子育てと家事を自分がいない間、行ってくれている。誕生日でも記念日でもないけれど、思い至ったが吉日と言う。会社から、そのまま横浜駅へと向かい、妻が好きだと言っていたお菓子や似合いそうなマフラーを買った。私はよく他人からもセンスがないと言われる。衣類には尚更だ。こちらから勝手に購入したプレゼントであるから、失敗は恥ずかしい。時間をかけて、店員とああでもこうでもと言い合いながら、よく吟味して決めた。妻には言っていない。サプライズである。

 電車内で同族の男達に揉まれていても、今日は不思議と気分が落ちなかった。それも、僕の手にぶら下がっている紙袋の中身のおかげである。それだけはサラリーマン達に潰されぬよう大事に扱った。夜景は僕の心情を表現しているかのように光輝を放っていた。

 明日は休みである。帰りにコンビニへ寄って、お酒を買った。

 付き合った当初から妻はお酒が好きだった。社会人になって知り合ったため、デートの行き着く先は須くお酒であった。僕もお酒は好きだ。二人でお酒を飲んで、連夜、楽しんだ。お酒を飲んだ後も楽しかった。今日も楽しめるといいな。

 自宅はマンションである。子供には不便な高層階。妻は一軒家がいいと言っていた。もう少しで僕は昇進する予定である。その時になったら引っ越しを打ち明けようと思う。妻の希望通り、スーパーが近いところにしよう。子供が遊べる公園が近いところにしよう。そんなことを考えると、毎日の帰り道が楽しくて仕方がない。

 僕は車が好きである。妻には無理を言って、少し家族向けではない車を買った。勿論、自分が無理を言ったわけであるから、お返しはした。妻が欲しがっていた衣類や家電を全て買い揃えた。それでも妻は時々小言を言う。「もっと広い車がよかったなあ」僕は笑って聞き流す。「今度の車はもっと広くて機能性のある車にしよう」「ほんとよ。楽しみにしてるわね」そう言い合えるのも夫婦の特権であり、幸せの形である。


 帰宅時間はいつもと一時間と少しほど遅れてしまった。私は駆け足でマンションに入り、意味もない連打をエレベーターのボタンに喰らわせる。足踏みもする。気持ちの高鳴りと四肢を連動しておきたい。そうでないと、なんだかムズムズする。僕は今、大変高揚していた。

 勢いよく、インターフォンを押した。子供の声が聞こえる。足音が近付く。妻だろう。鍵が捻られる音がする。扉が開くと、生暖かい空気と橙色の靄のような明かりが外気に触れる。僕は笑顔で、楽しい雰囲気で、家に入った。

「ただいま」

 返事はない。でも、僕は何も思わない。いつものことだからだ。妻は忙しい。疲れていることが多い。「おかえり」の一言も、仕事帰りの夫を労うことも面倒くさくなることだってある。それに、妻は夫を労わなければならないということもない。夫婦は常に対等だ。お互いに仕事をしているのだから、どちらかがリスペクトを過剰にする必要はないし、そもそも、男女の関係にそれを求めたら、時代錯誤と言われるであろう。

 妻は、リビングに入ると、円卓の上に乗せられた料理に指を差した。ラップが乗っている。色とりどりで食べなくても美味であることがわかった。妻は結婚する以前から料理が上手かった。変に外食するより、妻の料理を食べたほうが僕は幸せになれる。

「遅れてごめんね。美味しそうだね。ありがとう」と、僕が言うと、

「違うわよ。ふざけないで。遅れてくるなら連絡しなさいよ。こっちは帰宅時間に合わせて料理を作っているのよ。何時間も遅れるなら、連絡するのが基本でしょう。冷めてるのよ、料理。私に対しての冒涜なんだけど」

 と、妻は言った。

 僕は謝った。妻には喧嘩に勝てたことがない。それに、僕は今、プレゼントを持っている。早く空気を直さねば、それを渡すチャンスすら失うと思われた。サプライズで遅れたなどという子供じみた理由は今の妻には逆効果になるかもしれない。僕は頭を下げ、何度も謝罪の言葉を口にした。

「謝っておけばいいってわけじゃないのよ!」

 そう言った妻は、部屋に戻ってしまった。僕は、夕飯を温め、テレビもつけず食べた。以前、喧嘩した際に僕がテレビをつけたら、「いいご身分ですね」と言われたことがあった。そんなつもりはなかったのだが、妻を怒らせたら怖いので、すぐに消した。だから、テレビはつけない。テレビは妻にとって火薬になり得る。部屋中に僕のゆっくりとした咀嚼音だけが響いた。

 

 僕は女性と喧嘩はしないよう努めている。やむを得ない場合もあるが、その際はすぐに謝る。それは妻が喧嘩に強いからというわけではない。僕には妹がいて、その妹にも喧嘩には勝ったことがないのだ。すぐに言いくるめられる。勿論、母が相手でも同様だ。どうせ、僕が負けるのだ。謝っておいたほうが丸く収まるだろう。

 それに、あまり妻には強く言わないようにしている。最近、妻はSNSを始めたらしく、日常の出来事を呟いて、同じ主婦仲間と共有しているらしいのだ。そこに、僕の強がりが載せられたら恥ずかしい。顔から火が出てしまう。できるだけ穏便に済ませておきたい。

 翌日も妻にプレゼントは渡せなかった。起きたら子供と共に妻がいなかったのだ。僕はプレゼントを妻のベットの横に置いて、身支度をして家を出た。妻が行きつけのカフェに向かった。午前九時である。

 一人席に座り、コーヒーを頼んだ。この店には数ヶ月ぶりに来る。店主に挨拶をしておこうと思った。

「お久しぶりです。妻がいつもお世話になっております」

 女性の中年の店主は合点している様子ではなかったので、僕は苗字と妻の名前を述べた。

 すると、店主は気難しい顔をして、僕に一揖しただけで、去ってしまった。何か気の触ることでも言ったのだろうか。何も言ってなさすぎて、不安になる。

 コーヒーをちびちびと飲んだ。お小遣い制の僕にはコーヒー一杯でも大金である。じっくりと大事に飲んで、会計へと向かった。昨日の妻には謝罪しかないが、今日の朝に限っては、大変良い朝である。会計には、店主がいた。僕は、先ほどのことも気になっていたので、お金を渡すがてら、訊ねた。

「すいません。僕、何かお気に触ることでもしてしまいましたか?」

 店主は下を向いて、淡々とお金を取り出していた。無視されたのかもしれない。いや、聞こえていないのかもしれない。どちらにせよ、はっきりしないし、僕ももどかしいので、もう一度聞こうと思った。その時だった。

「奥さんのこと、もっと大事にしてあげたらどうです?」

 店主は刺すような目つきで、明らかに軽蔑と毒のある言い方で、はっきりとそう言った。僕は一瞬、なんのことだかわからず、見るからに動揺した。深呼吸して、真意を訊いた。僕には点でわからなかったのだ。妻のことは、僕はいつも大事にしているからだ。

「すいません。なんのことだかさっぱり」

「やっぱりわかっていないのね。そういうところが嫌なんですよ、奥さんは」

「詳しく教えてくれないでしょうか」

「あなた、奥さんにモラハラしているんですってね。最低ですよ、本当に。奥さんのこと、全くわかっていらっしゃらないんですねっ」

 聞くところによると、僕はモラハラをしているらしい。妻がそう言っているらしい。どのような行為がモラハラに該当するのかはわからないが。とにかく妻はそれに苦しんでいる。  

僕は昨日のことを思い出した。自分勝手なサプライズで、妻のリズムを乱してしまった。妻の料理が一番美味しいときに食べることができなかった。これらもモラハラに該当するのだろう。

 店主に携帯を見せてもらった。そこにはSNSのアカウントがあった。

 凪です@夫からモラハラを受けています

 凪は妻の名前である。


 妻と子供は昼過ぎに帰ってきた。今日は運悪く、お小遣いの支給日であった。

「ごめん。昨日のこともあるけど、お小遣い貰えないかな。それと、昨日遅れたのはプレゼント買ってたからなんだ。ベットの横に置いておいた」

 妻は何も言わなかった。まあ、お小遣いはいずれ貰えるだろう。

 適当にパンを食らい、昼飯とした。妻はなにやら携帯に夢中である。子供は僕の胸元で寝ていた。

 店主が見せてくれたアカウントが頭にこべりつく。モラハラ。凪。気付けば、僕はそれを検索していた。新しい投稿があった。一分前。

【昨日喧嘩した夫から、お小遣いをねだられました。ほんと、男って空気が読めない。私がまだ怒っているのわからない? 少しは気を紛らわしてから、言ってきてほしいものです。お小遣い、いつもより減らします。車も家も満足できていないんだから、これくらい我慢してってことで。 #モラハラを受けています】

 僕がプレゼントを買ったことは一切触れられていなかった。どうしてだろう。僕はそんなに生意気にお小遣いをねだっただろうか。上から目線だっただろうか。わからない。ただ、僕はそのアカウントはもう妻のアカウントだと思っている。間違いない。アカウントの写真が妻と娘が手を繋いでいる後ろ姿だからである。僕は映っていない。そりゃそうだ。僕が撮ったからだ。「女の子同士で撮ってみよう」と僕が言って、妻が「いいね! 将来、この子が大きくなったら、こんなに大きくなったのよって言えるね」と笑って承諾した写真だ。その後、通りがかりの人に頼んで、三人で並んで写真を撮った。その写真は僕の携帯のトプ画になっている。

 妻はコメントに返していた。

【わかります。凪さん、今が耐え時です。モラハラ野郎に不利な証拠を集めて、慰謝料をぶんどっちゃいましょう】

【みよさん、ありがとうございます! 本当に今が耐えどきですね。車も家も納得いってないですから、慰謝料でもっと良いものを買っちゃいます】

 僕は今すぐにでも謝ろうと思った。でも、すぐに思いとどまった。なぜなら、ここで謝ると、僕が妻のアカウントを了承無しに見ていたということがバレるからだ。これは大変悪いことである。金輪際、検索するのをやめようと決心した。そして、心中で妻に何度も謝った。

 車と家は、僕の給料で全額払ったものである。


 二日後の月曜日、仕事に行く朝、妻は起きていなかった。子供も幼稚園の創立記念日か何かでまだ寝ている。洗濯も昨日の夕飯の皿もそのままだった。僕はそれを片付け、急いでおにぎりを作った。具材はめぼしい物がなかったので、塩をかけただけとした。塩分量には気をつけなければならない。最近、血圧が上がってきている。お小遣いはまだ貰えていない。

 会社についてすぐにおにぎりを頬張っていると、上司が話しかけてきた。気さくな人である。奥さんと大変仲が良いという噂だ。

「珍しいね。奥さんが作ってくれたのかい」

「いえ、自分で作りました。妻は子供が休みなので、今日はゆっくりする予定だと思います。おにぎりを作るためだけに妻を起こすと、怒られてしまいますから」

「それもそうだね。今日のお昼、カツ丼を食べに行こう」

「すみません。今日はおにぎりで済まします」

「どうして? お金に困っているのかい」

「お小遣い、もうギリギリなんです」

 

 上司はカツ丼を食べに行かず、コンビニで適当なものを買って、オフィスに戻ってきた。僕の横に座る。おにぎりをまじまじと見る。上司のでっぷりと出たお腹がベルトの上に乗っている。腹をさすると、上司は言った。

「喧嘩しているのかい」

 僕は正直に肯定して、経緯を話した。上司は、うんうんと頷きながら、カップラーメンを啜っていた。

「女性は難しいよね。僕達が良かれと思って言っても、神経を逆撫でしてしまうことがある。男として生きて、もう四十年思うが、男はいつになっても女性の体が好きだし、かっこいい物が好きだ。女性はそう単純じゃないのかもしれない」

「僕はどうやらモラハラをしているようです」

「そうなのかもしれないね。人によって、モラハラだと感じる基準はそれぞれだ。でも、君も奥さんからは相当な仕打ちを受けているように感じるよ。お小遣いをあげないのは、餓死しろって言っているようなものだ」

「妻も僕にモラハラをしているということでしょうか」

「モラハラではない。奥さんは厳しい人なんだろう。恐妻家ってことだよ。それに、恐妻家ぐらいが家族は上手くいくものさ」

 妻は恐妻家なのであろうか。どうしてだろう。上司の言う通り、恐妻家と聞くと、なんだか聞こえは良い。僕の妻は怖いだけではない気がする。ただ、妻が恐妻家と言われると、家のことに厳しい真面目な妻のような印象を与えることができると思うので、上司には「妻は恐妻家です」と言った。妻のことを落とし込めることはしたくない。モラハラなんて、僕は受けたことがないのだ。

 

 部下の女性にも話した。彼女はこう言った。

「男ですぐに謝るなんて最低です。何が悪いかわかっていないのでしょう。女性はわかるんですよ、そういうの。お見通しなんですから。そういうところが腹立つのです」

 僕は疑問に思ったことを言った。

「女性は男性の思っていることが全てわかるのかい? 僕は女性の考えていることがわからない」

「わかりますよ。男性は顔に出ますから。それと態度にも」

「では、僕は今、何を考えていると思う?」

 部下は口籠った。僕はそれを見つめた。言い過ぎたのだろうか。それでも、本当に疑問に思った事なのだ。僕は、「ちなみに、僕は君が今考えていることはわからない」と言った。

「そういう何もわからないところが悪いところです」

 僕は謝った。確かに、わからないのだが、わからなすぎるのも問題だ。表情、仕草から妻の気持ちを汲み取る訓練をしよう。そうしなければ、僕はモラハラと言われてしまう。妻はそういうところが嫌いなのだろう。

 ところで、部下は妻のことをわかったように言っていたが、どこかで会ったことはあるのだろうか。僕の記憶では、部下と妻は一度も会ったことがない。会ったことがない人の気持ちをここまで汲み取れるとは、さすが女性である。


 帰り道の足取りは正直、重かった。愉快とは言い難かった。

 僕はてっきり、妻が家や車のことを現状では了承してくれているものだと思っていた。衣類や家電を買ってあげたことで、納得してくれていたはずだと思っていた。それも僕の勘違いだったようだ。やはり、妻のことを何もわかっていなかった。言葉を介さず、気持ちを汲み取ることは大変難しい。僕は改めて実感していた。たとえ、喧嘩でこの話題が上がったとしても、僕は間違っても、「車のことだって、衣類や家電を買ってあげたじゃないか」とは言わない。妻の気持ちを考えた上では、「そんなことで納得したとでも思っているの?」と言われるのが関の山だ。その際はすぐに謝ろう。ただ、謝ってもいけないらしい。自分で言うのもなんだが、結局謝らなくても、僕が謝らないと喧嘩は治らない気がする。

 僕は、衣類や家電を買って、妻に無理を言った際、妻が可愛らしい笑顔で「昇給したら、大きい車にしてよ」と言ったことを思い出していた。そう思うと、僕は何だかコンクリートの地面に沈んでいきそうな気持ちになる。切望するのだ。あの時の笑顔は本物であってほしい、と。その場を濁す笑顔であってほしくない、と。笑顔には嘘はあってほしくない。車を購入してから、なんらかの僕の行為で全てが嫌になってしまったのだろう。そうであってほしい。昔から、僕は妻の笑顔が大好きだった。

 家には子供と母方のお義理母さんがいた。妻は急用ができたらしく、母親に頼んで、家を空けているらしい。僕にだって急用はある。妻にだって、急用があってもおかしくはない。

 円卓には、妻の料理ではない、質素な料理が並んでいた。


 その日以来、妻が家を空けることが多くなった。お義理母さんに聞いても、何も知らないという。子供は、「おかあさんはお友達ができたって言ってたよ」と僕に告げた。家で家事をすることが多かった妻である。友人と遊ぶことくらい、週の半分は友人と遊ぶことくらい、息抜きとしては当然であろう。金曜日の夜、僕がお酒を買って帰り、妻を誘おうとすると、「今日車借りていい?」と言って、すぐに家を出てしまった。妻が車を運転するなど、珍しい。

 土日も妻はいないことが多くなった。楽しんでいるに違いない。だから、僕のお小遣いのことも忘れているのだろう。楽しんでいる時に、お小遣いをねだっては、妻の気に触ってしまう。怒られてしまう。そう、妻は恐妻家だ。怒ると怖い。それだけだ。


 家の家事を僕が帰ってから済ますことが日常となった。子供の送り迎えは延長保育を希望して、退社後に走っていくことが常になった。食事は慣れないものは作らず、カレーなど作り置きで済ますようになった。妻が家を空けることが普通になった。

 一ヶ月もこのような生活をしていると、案外楽しくなってくる。最初は確かにきつかった。休まる時間がない、と叫びたかった。ただ、妻がやっていたことじゃないか、と思うと、自然と前を向くことができた。子供の小さな成長にも気付けるようになった。

 妻は僕に会っても相変わらず、素っ気ないが、それでも心配はしてくれる。

「ご飯食べた?」

「洗濯は?」

「明日、車の掃除しておいてね」

 会話は少し増えた気がする。家族らしいのかどうかはわからないが、家族の形に定型はない。それぞれの家族にそれぞれの形がある。僕達の家族は今、こういう形をしている。

 子供の卒園式も僕が行った。会社は休んだ。それでも大変有意義だった。これからは、もっと子供の行事に参加しよう、と思った。上司もその点に関しては理解がある。給料に影響がないというから、ありがたい限りだ。

 お小遣いは結局貰えていない。自分の隠していた貯金からやりくりしている。これは、家族に何か大事があった時のために密かに作っていた隠し口座だ。


 昇進した。ボーナスも出た。ちょうど、その日、妻は帰ってきていた。僕は嬉々として家に帰り、お酒を買い、夜、妻を誘った。お酒までは嗜んでくれていた妻だが、少し体が優れなかったらしい。ボーナスの少しを貰うと、「薬を買ってくる」と言って、家を出た。その日、妻は帰ってこなかった。携帯には、「友達に会ったから、遅くなる」とあった。

 子供はすやすやと寝息を立てている。眠ったまま口をとがらせているのがとても可愛い。人差し指で少し触ってみた。ぷるぷるしていた。触りすぎたのか、子供は唸り声を小さくあげて、寝返りを打った。子供が寝ていた場所に手を置くと、炬燵のように暖かい。寝ている時の子供を見ると、いつも「僕がこの子を守らなければ」と切に思う。寝るという動作が、あまりにも無防備であるがために、そういう本能が生まれるのかもしれない。

 風呂に入り、少し微睡んでから、子供の横に寝た。人の気配を感じたのか、子供は僕の方を向き、お腹を触ってくる。人の皮膚に触れていると安心するのだろう。

 子供が起きない程度の明かりで本を読む。芥川は難解だが面白い。『河童』は傑作だ。あんな本、思い付きもしない。天才とは、芥川のことを言うのだろう。そうこうしているうちに眠くなる。妻からの連絡がないことを確認して、明かりを消した。

 目を閉じた刹那、ふと思い出した。

 凪です@夫からモラハラを受けています

 僕は、見てみることにした。怖いもの見たさではない。僕はここ最近、妻の気に触らぬよう努めてきた。その成果というか、なんというか。とにかく、妻が喜んでくれていることを期待した。あわよくば、検索に該当するものがないほうがより嬉しい。

 思いの外、簡単にヒットした。

 押してみる。数秒のロード時間の末、アカウントが表示される。

 あいも変わらず、妻と子供の写真だ。見ると、ほっこりする。

 最新の呟きを探した。三十分前であった。写真が付いていた。


【モラハラ夫の安いボーナスが出たので、夜の誘いを断って、彼と遊びに来ています。彼とは結婚を考えています。もうすぐ、モラハラ夫ともお別れです。もう、家にもあんまり帰っていないです。子供には事情をちゃんと話してます笑。子供もあんな父親と離れられるのを楽しみにしていると思います。さあて、今夜は楽しむぞ! 主婦の疲れを吹っ飛ばす! #モラハラを受けています】


 僕は、子供に「そんな風に思っていたのか。ごめんね」と言った。それしか、思い付かないのだ。一体、なんと言えばいい。僕は察しが悪いし、口も達者ではないから、適切な言葉もわからない。

 

 妻は僕がプレゼントのマフラーをして、見知らぬ男と肩を寄せ合っていた。とても楽しそうだ。これが友人なのだろう。


 妻の顔はとても綺麗だった。化粧は外でしたのかしら。それにしても。可愛い笑顔である。


 妻は僕にモラハラなどしていない。僕が妻にモラハラをしている。


 妻は、恐妻家なのだ。別に、僕のことが嫌いなのではない。ただ、厳しい。そして、怖い。それだけ。


 妻はやはり子供のことがよくわかっている。さすが、女性だ。部下の言った通り。女性は、人の気持ちがわかるらしい。


 妻は僕の気持ちがわかっているのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。モラハラをしているのは僕だ。僕が妻の気持ちをわかればいい。それだけで済むのだ。


 その男性の友人はいつ紹介してくれるのだろう。何歳くらいだろうか。少なくとも、僕よりは若い。早く友達になりたいものだ。


 明日は土曜日だ。久しぶりに家族三人で出かけよう。妻はあのマフラーをしてくれている。僕の選択は間違っていなかった。これなら、一緒に洋服選びができる。付き合いたての頃みたいに。


 そのためには、まず、しなければならないことがある。


 妻には、なんと言って、謝ろうか。

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