4時間目

 両手を突っ込み、続いて頭を出す。小窓の向こう側には彼女の足があった。

 視線は勝手に足首を越え、ふくらはぎから順に這い上がると太ももを経由してスカートの中に吸い込まれる。

 しかし、理想郷への道は彼女の手によって閉ざされた。


「ちょっと」


 その一言で我に返ると頬を染めてスカートを押さえる彼女が見下ろしていることに気づいた。

 なんで、そんなところに立ってるんだよ。


 そんな文句は言えず「ごめん」と顔をそらして下半身を小窓の中に潜り込ませた。

 彼女の指示に従って小窓を閉めると鍵が壊れていて施錠できないことに気づく。


「けっこう使われてるんだって」

「え? 美術の授業って週一回だよね」

「違うよ。放課後、生徒だけで、こっそりと」


 人差し指を唇にあて、しーっとジェスチャーする彼女は本当に僕の知っている彼女なのか疑ってしまうほどにミステリアスな魅力を醸し出している。


「じ、じゃあ、その……えっと、だから」

「わたしは初めてきた。この教室の使い方を噂で聞いただけだから」

「な、なんで、それを僕に?」

「なんでだと思う?」

「えっと、分からない」

「そっか。残念」


 いったい彼女はなにを考えているのだろう。

 さっきまでの悪い想像が現実になるようなことはなく、この美術室に男子生徒が隠れている気配もない。

 しかし、僕が暴挙に出た決定的瞬間をどこかに隠したカメラに収める算段かもしれない。

 そう考えると下手なことは言えないし、できない。


「わたし好きな人がいるの」

「そ、そうなんだ」

「違った。好きかもしれない人。今はまだ気になってるだけ」

「そうなんだ。じゃあ、これで美術室への入り方は問題ないから、次はその人と来れるね。大丈夫。僕は誰にも言わないよ。今日のことは忘れるし、無かったことにするから安心して」

「……どうしてそうなるの」

「え?」


 赤みがかった頬と潤む瞳をきつく吊り上げた彼女が一歩二歩と近づく。

 そして、彼女の身体は僕との間にボールを一つ挟めるかどうかという距離で止まった。


「好きでもない人とキスできる?」

「……そんなの、できないよ」

「良かった。わたしも」


 まるで耳元で囁かれているような錯覚に陥るほどの甘い声に酔いそうになる。

 全然、会話についていけなくて放心状態の僕は彼女の顔を直視できなかった。

 ふと視界に映った彼女の唇が迫っていることに気づく。


 どうすればいいんだ。

 このまま受け入れてしまっていいのか。

 あれ、僕と彼女の身長差は何cmだろうか。

 こういうときは男が唇を迎えに行くものなのか。


 そんなくだらないことを考えている間に互いの唇が触れ合っていた。

 これまでに経験したことのない感覚。

 二の腕はキスの感覚に似ていると聞いて一度試したが、そんなものとは比べものにならないくらいの衝撃が脳を突き抜ける。


 だらしなく口元をゆるめていると制服を引っ張られ、重みに耐えかねて膝が折れそうになるのを必死に堪えた際に意図せず彼女の腰を掴んでしまった。


「あ、ごめん。腰が砕けるかと思った」

「あ、いや、その、ごめん」


 謝りつつも腰から手を離そうとしたが、思考とは裏腹に身体がまったく言うことを聞いてくれない。

 

「どうしたの?」

「な、なんでもないよ。今、手を離すからね」

「わざわざ言わなくてもいいのに。それとも声に出さないと手が動かない?」

「それは……」

「もう一回、したくなった?」


 彼女からの問いかけには答えられなかった。

 

「知ってる?」

「多分、知らない」

「わたしの好きな男子のタイプ」

「知らないと思う。ちょっと自信ない」

「……ばか」


 一瞬だけ伏せられた瞳の中に僕の顔が映り込んでいる。

 その不思議な光景は瞼の裏に焼きついて一生忘れられないと思った矢先、僕の中でなにかが千切れた音がした。


 そして――


 僕と彼女以外に誰もいない美術室では二つの荒い息づかいだけしか聞こえない。

 こんなにも頭の中が真っ白になったのは今日が初めてだった。


「このこと他の生徒にも先生にも言わないでね。ふたりだけの秘密」

「言えるわけないよ。それより、その、ごめん。大丈夫?」

「ん。次はもっと落ち着いた場所がいいな」

「えぇ!?」

「どうして?」

「どうしてって、だって、それは……」

「とりあえず、下校しよっか。後ろ向いてて」


 背後から聞こえる衣擦れの音に集中するように聴覚だけが研ぎ澄まされて、他の機能が麻痺しているような感覚だった。


「お待たせ。じゃ、帰ろうか」

「う、うん。あ、あの」

「ん?」

「お、お腹空かない?」


 気まずさからか、彼女と別れたくなかったのか、それとも本能に従ったのか、とにかく僕はそんなことを口走っていた。

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