真夜中、牛乳を注ぎ

朝凪千代

 

 未来の僕が今の僕を振り返る時、きっと何も思い出さない。

               


          ※ 



 空気に優しさがと儚さが顔を出してきた。

 花火の後の火薬の匂い、ご飯の炊ける匂い、土埃の匂い、金色の稲穂が揺れる田んぼの匂い。

 どれも愛おしい、大切なもの。


 例えば、それらがなくなったら。


 僕は、発狂するかもしれない。走って走って、近くの山まで走って木々に囲まれながら叫ぶ。


「匂いを返せっ」


 動物たちはびっくりするに違いない。鹿は素早く逃げ出す。僕の声が聞こえないところまで。でも僕は狂いながら叫ぶから、僕の声はいくらでも鹿を追いかける。鹿は神様にお願いする。あいつに匂いを返してやってください、と。猿も猪も熊も狐も。

 困った神様は、いやいや僕に返すだろう。

 そして僕は無くして気づいた溢れ出る匂いに歓喜し、家へ帰る。ガラガラの声と共に。


 けれど、きっと、必ず、僕はそんなことはしない。

 蜘蛛の巣が罠のように張り巡らされたあの森で叫ぶなど馬鹿げているし、鹿も猿も猪も熊も狐も神様と会話が出来るなんてもっと馬鹿げてる。

 少しの動揺と、少しの恨みを胸に何も変わらず生活するだろう。


 真夜中に牛乳を注ぎなら。


 冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。少しずつ水滴をまとうパック。

 僕はいつかこの水滴の初めを見たい。どんな風に丸い水滴ができるのか。

 いくら目を凝らしてもいつの間にかできている水滴。

 

 妖精がいるに違いない。


 指で押したところに水滴ができるのだ。指を離していくとパックから水が出てくる。彼らが何人もいて冷蔵庫から出された瞬間、僕には見えない速さでパックに指を押しあてていくのだ。

 それが彼らの芸術。

 僕は彼らの芸術を邪魔しないよう、できるだけパックを持つ面積を小さくする。四隅の角を持つだけでも注げるようになってきた。 

 カップを置くと、澄んだ音が静かなリビングに響いた。

 ガラスコップを使うのは、これが一番妖精たちのお気に入りだからだ。陶器のコップよりもよく芸術作品が見える。

 牛乳パックのひし形の口。そこから、真っ白の牛乳がよじれながら出てくる。何人かの妖精たちはカップに移り作品作りに勤しむ。今日も水滴ができる瞬間を見逃した。


 白すぎるものは僕を不安にさせる。例えば病院。例えば紙。例えば照明の光。例えば綿棒。

 何か色を与えなければ、何か変化を与えなければ、僕は飲み込まれてしまう。


 けれど牛乳は大丈夫。飲み込むのは僕だから。


 それに牛乳は黒いに違いない。

 僕が小さくなって、牛乳の中に飛び込んだらきっと真っ暗な世界だ。光は通らず、上も下も分からず、自分の手すら見えない世界。

 空気はないけれど息苦しくなく、冷蔵庫に入っていたけれど暖かさを感じられる。

 そんな世界がこのコップの中に広がっている。根拠などない。ただ、夜の気持ちを落ち着かせるのはやっぱり夜と同じ色ではないのか、と思うのだ。 


 コップの半分まで入れば、いれるのをやめる。

 牛乳パックを冷蔵庫に戻し、自分の部屋にいく。


 電気を消すと、月光が空気を照らした。

 窓を全開にする。

 虫のコンサートが始まっていた。どの音がどの虫のものなんて僕は知らない。知らない人にまで、感動させることができたなら、それは本物に違いない。


 人が寝静まる頃、世界はこんなにも騒がしくなる。秋の虫の合奏。夜と朝を繋ぐように飛ぶ渡鳥。酔っ払いの声。夜風は産毛を撫で、僕の部屋に迷い込む。そして、すべてを見守る月。

 牛乳を一口のむ。薄い甘味が舌に残り、豊かな匂いが鼻をぬける。

 二年後、この手に持つものはお酒だろうか。それとも、このままガラスコップだろうか。


 妖精たちが作った水の粒は集まって下に落ちる。ゆっくりと重力に引っ張られる水滴たちは、きっと落下することを拒んでいるのだ。ずっと、ガラスコップにくっついていたいのだろう。


 僕と同じだ。


 このままでいい。何も変わらなくていい。地面に落ちて、蒸発してしまうようならこのまま月光に照らされていたい。運よく水溜りに入れたとしても、その後優遇されるなんて誰も保証してくれない。

 でも、停止はできない。重力が水滴を落とすように、僕もまた天国か地獄に引き寄せられている。

 月は、僕を考えさせ、牛乳を飲ませる。


 きっと僕は酔っているのだ。牛乳に、あるいは月光に。


 お酒がなくともいいではないか。

 虫たちのBGMを聴きながら、月と語り合う。

 これほど素敵なことはない。

 これをも奪うものなら、あの森に行って叫んでやろう。


「あの夜を返せっ」


 声が枯れるまで。声が枯れてもなお。そして、鹿は猿は猪は熊は狐は、神様に訴える。何度も何度も。たとえ神様と喋れなくとも。

 いくら飲んでも、牛乳は真っ黒にはならない。けれど、真っ白ではない。辺りの闇と月の黄色を混ぜた、そんな色をしている。 

 一夜限りのドリンクを一気に飲みほす。

 虫のコンサートはそろそろ終わりをむかえる。

 本物の夜がやってくる。人間たちは知るべきではない世界。当然だ。僕たちは昼間を支配しているのだから。


 窓を閉めて、布団をかぶる。口の中は少し牛乳臭くなっている。それもいい。

 今はいない太陽の匂いに包まれ、ゆっくりと目を閉じた。



          ※



 未来の僕が今の僕を振り返る時、きっと何も思い出さない。

 それでいいのだ。

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