1876

 バイロイトでの音楽祭の準備は、着々と進んでいた。ニーチェはそれを、苦い思いで眺めていた。

 舞台づくりに奔走する友人は、彼をバイロイトまで呼びつけて、試演を観るようにと言づけた。“Götterdämmerung”の一部始終を、隅々まで観るように、と。

 だから、彼は芝居を観た。ブリュンヒルデが激昂するのを。ジークフリートが殺されるのを。何度も、何度も、彼は観た。


 ――しかし、どうにも駄目だった。舞台が終盤に差し掛かると、決まって頭痛に襲われた。退席すれば収まることもあったし、中々痛みが引かないこともあった。酷いときには、あまりの辛さに吐き気さえも催した。


 日に日に病状が崩れた彼は、ついにワーグナーの呼び出しを食らった。いつものようにカップが置かれ、香り高いコーヒーが注がれた。


「どうやら君は、少し顔色が悪いようだね。芝居の観過ぎが祟ったかな?」


 ワーグナーにそう言われ、ニーチェは曖昧な笑みを見せた。こめかみと生え際の辺りを、少し強めに押してみせる。


「実は先日から、体調が優れないのです。激しい頭痛と、目の病で……」

 

 ……事実、彼は具合が悪かった。だが、これが単なる体調不良なら、どれほど良かったことか。ワーグナーへの不信や反感、疑心に疑念。言葉にならない全ての感情が、彼の頭を支配していた。だから余計に、気分が重い。


「ならば、あまり無理をし過ぎないように。私の楽劇を正しく理解するには、健康であることも大切だからね」


 正しく、理解する。たったそれだけの短い言葉が、ニーチェの頭で何度も響いた。


 ――正しい、理解? 正しい理解とは、一体何だ?


 ニーチェは深く、息を吸った。心が乱れて、苦しかった。


 ……だが、いくら自分を問いただしても、それは全くの無駄でしかない。なぜなら、答えはすでに、でているのだから。


 ――いや、正しい理解など、必要ない。それが、私の結論だ。


 彼はか細く、しかし明確に、己の過去と決別した。そして、絞り出したような声で、こう答えた。


「――いえ。もう、良いのです」


 言葉の端々が震えた。しかし、迷わなかった。


「今の私には、貴方の芸術は理解できない。だから、もう、良いのです」


 毅然とした風を装って、彼はそう言い切った。カップの中のコーヒーが、感情とともに小さく揺れた。


「……一体、どういうことかね?」


 ワーグナーは首をかしげる。理解できない、とでも言いたげに。


「そのままの意味です。私は、貴方が音楽の本質を理解していると思っていました。しかし、それは私の勘違いでした。惨めで愚かな、私の間違い――」


 ニーチェは一瞬、口をつぐんだ。自分の思考をなぞるように。


「――いや、違う。貴方は確かに、理想の芸術、そのものだった。だが、今は違う。今の貴方は、貴族なんかを無駄に集めて、音楽を俗物のように扱っている。私には、それが……! それが、許せないのです……!」


 我慢のきかなくなったニーチェは、心の底から声をあげた。ワーグナーの前で叫んだのは、後にも先にも、これきりだった。


「何故だ!! 何故あなたは、興行的な世界に堕ちてしまったのだ!!」




 ……沈黙。果てしなく、長い時間だった。




「君はそもそも、私とは違うのだよ」


 ついに口を開いた友人は、実に冷たい声をしていた。当たり前のことを、当たり前だと言うように。


「私は哲学者ではない。君だって、それを分かっているはずだ」


 ワーグナーは、至って冷静だった。全く心を乱すことなく、彼はそこに座っていた。


「それでも……!! それでも、私は……!! 貴方の音楽を、愛していたのに……!!」


 ニーチェはその場に崩れ落ちた。感情と言葉が混ざり合い、嗚咽となって地に落ちた。


「……変わったね、君は」


 かちゃり。

 カップとソーサーの擦れる音。それは、一種の崩壊に似ていた。




 音楽祭が終わったのち、ニーチェはワーグナーに別れを告げた。

 「あまりに人間的な」ものを、全て置き去りにするために。

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