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「虚栄心」
それが頭に浮かんだ直後、ニーチェは再び瞳を押さえた。脳の血管が拡張している。神経が痛い。痛いのだ。
ニーチェはワーグナーを愛していた。彼の芸術を、音楽の本質を、心の底から愛していた。
しかし、彼はどうだ。自分のために劇場を建てて、ゆくゆくは音楽祭を開くのだそうだ。
そんなことをして、一体どうするつもりだ。人など集めて、どうするのだ。芸術への理解のない、知識の乏しい者を集めて。
彼を取り巻く、世界はどうだ。貴族は彼の音楽祭に積極的だ。彼のためなら、金でも何でも出すと言った。
権力者などに頼って、一体どうするつもりだ。飾りだけを立派に揃えて、どうするのだ。彼の音楽は、その程度のものだったのか……。
今まで曖昧であったものが、不気味な輪郭を持ち始めた。それが余計に、ニーチェの心を騒がせた。
人間とは、自分を正当化する生き物だ。憎悪や妬みを抱いたときは、自分は大抵、それとは全く逆の方向にいる。相手を「悪」だと思うことで、自分を「善」だと決めつけて、心の安寧を図ろうとする。
――これも、その内の一つだろうか。ワーグナーに対する疑念も、その内の一つだろうか。
ニーチェは必死に考えた。考えれば考えるほど、心の奥が抉られた。
――しかし、本当に、それだけなのだろうか。たったそれだけのことで、人はこんなにも、苦しい気持ちになるのだろうか。
ニーチェは机の端に縋り、自作の譜面を払い落とした。それは何の音もしなかった。つまり、あるだけ無駄だった。
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