1873

 ワーグナーがトリプシェンからバイロイトに移住した後も、ニーチェは好んで彼の下を訪れた。この頃になると、ニーチェは最早、ワーグナーの弟子のようになっていた。忙しい師匠の合間を縫っては、自分の作った曲を聴かせたり、抱いた思想を語ってみせたりした。


 当時ワーグナーは、自作を上演するための劇場を建てようと、資金繰りに頭を悩ませていた。彼の苦慮を感じたニーチェは、何とか彼の役に立ちたいと、様々な策を講じていた。自分は文章を書くのが得意なのだから、資金協力を募る宣伝文を作ろうだとか、彼の足の代わりになって、そこら辺で広告を立ててみようだとか、ああでもないこうでもないと考えた挙句、ついには彼に捧げるピアノ曲まで作り上げ、彼の前で披露してみせた。


 ニーチェは音楽が好きだった。同時に、自分の音楽に対しても、ある程度の自負があった。そうでなければ、尊敬する友人の前で、自分の曲を弾いたりしないだろう。




 ――だからこそ、彼はショックを受けた。まさか、自分の創り上げた音楽を、頭ごなしに否定されることになるとは。




「……あえて厳しいことを言うがね、ニーチェ君。この曲には、『センス』というものが感じられない」


 演奏を終えた彼に、ワーグナーは至って平然とした様子で、そう言ってのけた。その心は、全く、微動だにしなかったのだ。


「まぁ、リズムが良いのは認めるがね。音楽というものは、それだけでは全くの空洞なのだよ」


 空洞、という言葉が、彼にとってどれだけの屈辱であったことか。それは、ワーグナーの芸術と最も離れたところにあった。つまり、彼の聞きたくない言葉だった。


「どうかな、ニーチェ君。私の言いたいことが、分かるかね?」

「……分かりません」


 自分でも驚くほどに、かすれた声が出てしまう。自分が肯定する世界が、尊敬する

者に否定される。だからある種の反抗をもって、無意味な否定を被せてしまった。


「私の言いたいことが分からないようでは、君には音楽の才がないよ。少なくとも、私はそう思うのだが」


 ワーグナーは席を立ち、奥の自室へと戻ってしまった。靴のかかとを鳴らしながら。弟子の届かない世界へと。


 ――相反する音がした。それは曖昧なようで、しかしはっきりと聞こえた。

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