1874

 ―― “Ritt der Walküren”が始まった。ニーチェは観客席に座り、まるで従順な犬のように、舞台を観ることを強いられていた。


 彼と役者以外、ここには誰もいなかった。オーケストラは勝手に鳴り響き、与えられたスコアをなぞり続ける。


 スポットライトを浴びるのは、神の娘のワルキューレ。普段はオペラの歌手ばかりだが、この世界では違う。彼女たちは真のワルキューレだ。空駆ける馬に身を預け、美しい声をあげている。


 彼女たちは実に愉快な様子だった。光の下で槍を掲げ、丸い楯をかざしながら、神の言葉を口にする。


“Hojotoho!”

“Hojotoho!”

“Hojotoho!”


 亜麻色の髪をなびかせながら、オペラハウスを駆け回る。天馬はやがて地を離れ、観客席へ飛び込んできた。何の迷いもためらいもなく、ニーチェの目と鼻の先まで。


“Hojotoho!”

“Hojotoho!”

“Hojotoho!”


「止めろ!!」


 ニーチェは顔を背け、ワルキューレたちを追い払う。しかし、彼の手が触れる寸前で、娘は溶けて消えてしまう。観客を嘲笑うかのように、舞台の奥で姿を現しながら。そして再び、彼の眼前にやって来るのだ。


“Hojotoho!”

“Hojotoho!”

“Heiaha!”


「止めろと言っているのが、分からないのか!!」


 思い通りにならないと、持病の頭痛がぶり返す。彼は肩を震わせながら、冷たい体を引き寄せた。やり場のない大声を、オペラハウスの床に叩きつけながら。


「私の手の届くようなところで、そうやって踊り回っているんじゃない!!」


 乾いた声で、娘は笑う。哀れに喚く哲学者など、全く気にも留めないように。


「おまえらはドイツの精神だろう!! ワーグナーが生み出した、ドイツの旗手!!」


 ヴァイオリンの重奏が、鋭く耳に突き刺さる。勇敢で壮大な名曲は、今や終盤に差し掛かっていた。


「そうならば!! おまえらがそうならば!! ドイツ人の手中に収まるようなことは、決してあってはならない――!!」


 ――何故、とニーチェは思った。ワーグナーの芸術は、遠いところにあるはずだ。舞台の上にありながらも、決して手の届かないところに。それなのに、何故。神の娘たちは、これほどまでに近い場所で、勇敢そうに振る舞っているのか。


 ワルキューレの騎行が終わるまで、彼は怒号を吐き捨てた。いつの間にか、涙を流していることも知らずに。




 泣き腫らした顔を見せると、ワーグナーは大層驚いた。それこそ、哲学を嗜む者はこれほどまでに浮き沈みの激しいものだったかと、思わざるをえないくらいに。


 ニーチェは夢の全てを語った。ワルキューレが目の前を飛び回っているのが、どうしようもなく悲しかったのだと。


「……ニーチェ君。私が思うに、君は少し、寝ぼけているようだね」


 案の定、とでも言うべきだろうか。友人から返ってきた言葉は、ニーチェの想定を上回ることはなかった。


「悪いことは言わないから、お茶でも一杯、飲んできたまえ。今日は実に良い天気だ。こういう日には、素晴らしいメロディーが思いつきそうだ。君もそうであってほしいのだが」


 そう言うと、ワーグナーはピアノに戻り、再びスコアをつけ始めた。音楽界の支援者たちが、早く"Der Ring des Nibelungen"の続きを書けと、彼を囲んで五月蠅いのだ。気の短い貴族たちに、暇さえあればせっつかれるのだ……。

 片や、名の知れた音楽家。片や、信用を失った哲学者。確固とした隔たりを感じた瞬間、ニーチェの心は冷たくなった。


 ――貴方の芸術は、大衆に近くなってしまった。それと同時に、私からは遠くなってしまった。


 彼の思想に、暗い影が降り始めた。もしかすると、それは今に始まったことではないかもしれない。しかし、彼が真に自覚したのは、これが最初の出来事だった。

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