1872
いつしか、ニーチェはこう思った。誰一人として、理解していない。ワーグナーの持つ、真の芸術性というものを。
ワーグナーはかのショーペンハウアーが示した音楽像を、「天才」と呼ぶに相応しい芸術を、ものの見事に体現しているのだ。だが世間は、彼を正当に評価していない。言わば、全く別の世界の人々が、奇異と独特の眼差しをもって、見知らぬ文化を評しているようなものだ。……つまり、何も分かっていない。
――ならば、私が書こうではないか! 他でもない、この私が!
自らきっかけを生み出した彼は、一心不乱に文章を綴った。評すのだ、親愛なる友人を。自らの言葉で、彼の存在を示すのだ!
ニーチェは原稿を書きながら、様々なことを考えた。それは時に突拍子もなかったが、全てワーグナーに関することだった。
例えば、神は我々の外側にある。自己の外に存在し、意味を与え続ける「敵」であること。……未だ明瞭ではないが、ニーチェは神を無条件に受け入れるような、そんな思想の持ち主ではなかった。だから、彼はいずれ、神を殺すことになるだろう。その「同志」となり得るのが、他でもないワーグナーだった。ワーグナーは神話を題材としながらも、その宗教性に囚われることがない。神々の世界の創造しながらも、その中で自由に動き回り、最後には必ず終止符を打つ。それが、彼の舞台なのだ。
だから、ニーチェは大いに感動したのだ。言葉の領域を遥かに超えた、ひどく曖昧な世界の中で。――そうだ、生きる意味を与える神などいらない。これからは神の掌にある合理的な世界ではなく、人間の意志を肯定する非合理的な世界になるのだ。
ニーチェは自分の思想を書き殴った。ショーペンハウアー以来の流れであった、芸術を哲学のテーマとする風潮。彼はそれに基づいて、現代文化を批判した。そして、彼の愛するワーグナーこそが、文化再生の希望であると結論づけた。
このときに執筆した彼の著作は、のちに“Die Geburt der Tragödie”と呼ばれた。心酔するワーグナーへ捧げた、彼の処女作であった。
時折寒い風の吹く、四月。愛しの友人ワーグナーは、スイスのトリプシェンから、ドイツのバイロイトへ移住した。
ニーチェは彼との別れを惜しみ、手元の書簡にこう綴った。――おそらく、誰にも分からないだろう。私にとって、トリプシェンで過ごした彼との日々が、どれほど素晴らしい意味を持つかということを。だから私は、“Die Geburt der Tragödie”の中に書き留めることにした。トリプシェンで見た世界を。そして、彼の生み出した芸術を。
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