1871

 その日、ワーグナーの下を訪れたニーチェは、とある楽譜を渡された。伝統色の音が強い、ヘ短調の連弾曲。余白の端には殴り書きで、“Ungarische Tänze”の文字があった。


「今日は連弾をしたい気分なのだ。新しい楽譜も手に入ったことだし、私も自分の曲のことばかりで、息抜きをしたくなったからね」


 ニーチェは楽譜の休符記号と、友人の顔を交互に見つめる。……見たことのない譜面だが、ワーグナーの新曲のようには思えない。音楽仲間の伝手を頼り、未発表曲を手に入れたのだろうか。


「君はプリモをやるといい。確か、楽譜をぽんと渡されて、すぐに弾くのは得意だっただろう?」


 ピアノの連弾曲は、二人合わせて四手の演奏となる。第一奏者のプリモと、第二奏者のセコンド。同じ旋律を共有しなければ、途端に破綻してしまうような、淡く儚い音楽だ。


「ニーチェ君。君は何も考える必要はない。私が君に合わせるから、君は自由に弾いてくれ」


 ワーグナーに言われるがまま、ニーチェはピアノの右側に腰掛けた。実際、彼はピアノの演奏が得意だった。作曲をしたり、即興をしたりする腕もある。だが、親しい友人とともに弾くのは、それはそれで緊張した。

 ワーグナーは微笑んでいる。まるで、息子の成長を見守る父親のように。


「さぁ、どうぞ。君の好きなタイミングで」


 友人に促され、ニーチェはピアノの鍵盤をなぞった。そして、演奏が進むにつれて、心が軽くなるのを感じた。

 思想の根底が同じならば、合わせることも難しくない。……いや、実際のところ、そのような生易しいものではない。単に演奏を合わせるだけでは、楽譜の奴隷になってしまう。しかし、彼にはできるのだ。それを克服した世界を生み出すことが。ワーグナーには、それができる。


 ――やはり、これがワーグナーだ。


 楽譜の最後の音とともに、ニーチェはこう思わずにはいられなかった。魂の震えとともに、感動を抑え切れずにいた。




 茶会の時間が始まると、ワーグナーは改めて楽譜を見せた。先ほど奏でた音楽が、頭に浮かんでは消えていく。


「この楽譜は、ブラームス君からの貰い物さ。彼は今、ハンガリーの民族音楽に興味があるらしい。どうやらそれで、こういう連弾曲を編集したそうだ」


 ヨハネス・ブラームス。古典主義的な音楽の中にも、想像力を持ち合わせる、多面的な芸術性。バッハやベートーヴェンと名前を並べて、高く評価されることもあった。


「……率直な意見をお聞きしたいのですが、貴方から見て、彼の音楽はどうなのです? あまり印象が良くないだろうと、評する人もいるようですが」


 ニーチェがこう尋ねると、ワーグナーは小さく笑った。「一体誰が、そんなことを吹聴しているのだ」とでも言いたげに。


「私は彼の音楽を高く評価している。まぁ、馬が合わないというのは、本当のことだけれどね。だが、そんな私情染みた理由では、彼の芸術を否定することはできないよ」


 世間の評価に関係なく、ワーグナーはワーグナーであった。本質を捨て去らなければ、人は人であり続ける。ニーチェには、それがよく分かった。


「それよりも、ニーチェ君。先ほどの演奏は、なかなか気持ちが良かったよ。また今度、次は二台ピアノなんてどうだろうか」

「ええ、もちろん」


 ――私は、音楽が好きですから。


 心の中で、ニーチェは密かに呟いた。

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