Ⅱ フィニスの旅立ち
フィニスが意識を取り戻したのは襲撃事件の三日後の朝。襲撃事件の直後に運び込まれた隣町の病院、個室のベッドの上だった。
「なんだここ……痛ッ!」
痛みで意識を取り戻したフィニスは、自分の身に何が起きたのかを思い出すのにそう時間はかからなかった。かつて過ごした村がもうこの世に存在しない虚無感、大切な人たちが目の前で凄惨な死を迎えたところを思い出したところで、フィニスは目の前のシーツに胃の中を吐き出した。
「信じられない……本当に? 母さんも、兄さんも?」
汚れた口元を袖で拭う。フィニスは汚れた袖を見た。
「……なんで俺は生きてんだ?」
手をグーパーと握り直し、肉体的に問題がないことを確認する。全身に多少の痛みは残るものの、五体満足である。
覚えていることは、街を燃やされ、家族を目の前で殺されたこと。そして、その家族を殺したフードの人物──。
ドンッ!
記憶を遡るとフラッシュバックが起きた。耐え難い現実を理解し始め、テーブルを強く叩いた鈍い音が病室に響く。ベッドに備え付けられたテーブルが拳の強さに耐えきれず、ベッドとつながっていた金属の接合部が折れ傾いた。硬くなったパンが転がり、冷えたスープがベッドのシーツに垂れてしみわたる。
「俺に、あのときもっと力があれば──」
フィニスは自分の無力さに無性に腹が立った。力が欲しい、家族を守ることができる力が欲しいと。枕に後頭部を預け、悔し涙がこぼれ枕に染みる。フィニスは正午を伝える街の鐘が鳴るまで、顔と枕を濡らしていた。
正午を過ぎるとフィニスの病室には医者や看護師、街の新聞記者や警察官がひっきりなしにフィニスの病室を訪れた。胸に刺され傷があるのに外傷がないことや、街の惨状からどうやって生き延びたのか質問攻めにあったが、フィニスが答えられるものはほとんどない。結局同じような質問の繰り返しに苛立ちを覚え、夕方になると病室に出入りしようとする人がいるだけで威嚇をし始めた。
看護師から夜ご飯の病院食だけもらうと、フィニスは胃の中に食べ物を入れて落ち着きを取り戻し始めていた。誰かと分かち合うことはなくなってしまったが、習慣から一言「いただきます」と手を揃える。
異変が起きたのはその直後だった。病室の窓ガラスがすべて消し飛び、外に吸い込まれるようにフィニスの視界から消え去った。
「……は?」
突然のことにフィニスは呆気にとられた。カーテンも吸い込まれるようにバタバタと大きな音を立てながら外に飛んでいこうとする。
しかし、その流れに逆らうように一羽の小鳥が病室の外窓から病室の中心部に侵入してきた。フィニスの目の高さ、床から一メートル程の位置で高度を維持している。
小鳥の体は茶色く、翼は赤い見慣れない種類をしていた。目はカラスのように鋭く、黒い瞳をしている。
フィニスは痛みを堪えながらベッドから起き上がると、突如として小鳥がフィニスに向かって話しかけた。
「我の名前はカイム。汝の強い心の声を聞いて飛んできたが……なんだ、ただの小僧じゃないか」
人の言葉を話す上に失礼なカイムにフィニスは驚嘆した。だが、驚きよりも失礼な物言いに対して苛立ちを隠せないフィニスはカイムに応戦する。
「な、何なんだよお前は。人の病室に勝手に上がり込んで無茶苦茶しやがって。焼き鳥にして食ってやろうか」
「はっはっは。我を焼き鳥にするか、それは面白い。
ひとしきりカイムは笑うと、ゆっくりとフィニスに向かって近付いた。反射的に右腕を伸ばして制止しようとしたフィニスの腕の先、手首の上に止まる。
カイムはフィニスの目を見て質問した。
「汝、名はなんという」
吸い込まれるような真っ黒で大きな瞳にフィニスは息を呑む。
「俺は……フィニス。フィニス=クローバーだ。お前は何なんだ。教えろ」
カイムの体から発せられる禍々しいオーラにフィニスも気付いていたが、もう引き返せないと感覚的にフィニスは感じた。フィニスは強気に出て動向を伺った。
「我はカイムといったろう」
「そうじゃない。人の言葉を喋る鳥なんていない」
「あぁ、そういうことか」
カイムはフィニスの腕の先から肘、肩へと距離を縮め、大きく翼を広げる。広げた翼から放たれた禍々しいオーラは周りにも干渉し、病室の壁にヒビが入る。フィニスはまじまじとカイムの目を見つめる。フィニスの目には絶望、そして、強大な力の先にある希望を見出していた。
「我はカイム。七二柱のソロモンの悪魔が一つ。フィニスよ、汝を歓迎しよう。今から汝は我と契約するのだ」
「……いいぜ、カイム。悪魔を倒すには、悪魔の力しかないと思ってたんだ。お前の力を寄越せ」
「悪魔を倒すために悪魔を使うとは。フィニスよ、汝は偽善者だな」
偽善者という言葉に引っかかりはしたものの、実際そういうことだな、とフィニスは受け入れた。フィニスの伸ばした右腕の手の甲に青い紋章が浮かび上がる。カイムが続けざまに話す。
「さてフィニスよ。これから汝はどうしたいのだ」
「そんなの簡単だ。悪魔をこの世から消してやる。いつかお前もな」
「はっはっは。やはり貴様は面白いやつだ。それもまた一興。我は最後に消えるとしよう」
カイムは小刻みに笑うと姿を消した。手の甲の青い紋章が光る。フィニスは自らの体にカイムの禍々しいオーラを感じ、確実に契約したことを実感した。
窓ガラスが跡形もなく無くなった窓際に立ち、つい先程起きた信じられない出来事をフィニスは思い出す。
「悪魔を倒すために、本当に悪魔と契約しちまったよ」と一人ボヤく。
ほんの少し前までフィニスは北方の村に住むただの少年だった。だが、悪魔に村を焼かれ家族を殺され、その数日後には悪魔と契約をした。波乱万丈の数日間にまだ実感が湧かない。
廊下からフィニスの病室に向かって入り乱れた靴音が聞こえてくる。騒ぎを聞きつけて大人たちがやってきたのだろう。フィニスはいま起きたことを信じてもらえるよう話せる自信はなかった。
「とりあえず……逃げたほうがいいよな」
フィニスは窓際に足をかけ、そのまま思いきり外に飛び出した。
ふと頭の中を考えがよぎり、口からこぼれ落ちる。
「もう、元の生活には戻れないんだな」
医者たちが病室に駆けつけたとき、部屋の中は既にもぬけの殻となっていた。その後のフィニスの消息を知るものはいなくなった──。
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