Grave of Steel

アオイ・M・M

Rats.


――吐く息はずっと白かった。


鋼の壁にはところどころ赤錆が浮いている。

床はそれでも滑り止めらしい灰色の塗料が塗られて。

それもところどころ剥がれ落ちて同じように赤錆が浮いていた。


鼠色の配管が壁と天井を這い回る。

その中の1本に、わずかなりとも熱を帯びたそれに背中を預けて。

彼女はうずくまり、体を丸めて白い息を吐く。


天井にはでたらめに並んだ明滅する蛍光灯。

LED灯とかいう、熱のない。

もっとキレイな電灯があるらしいが、彼女はそんなもの見たこともない。

噂で聞いたことがあるだけだ。


――この世界は狂っている。

どうしようもなく、狂っているのだと思う。

ぺたりと、頭部に生えた獣の耳を倒して、体温を少しでも維持しようと試みる。


指先はかじかんで、既に感覚もない。

頭に沿って畳んだ獣耳の隙間に指先をねじ込んでみる。

少しでも温まらないかとつまらない事を考えて。


だが、無駄だった。

足首についた足枷と、そこから伸びた彼女の手首ほどもある鎖は容赦なく彼女の熱を奪っていく。


この鎖が最悪な、彼女の自由を奪うほとんどすべてだった。

数十m先には配管のバルブがある、蛇口もだ。

あれを開ければ熱湯か、蒸気か、最低でも水くらいは出るだろう。


けれどこの鎖は彼女をそこにたどり着かせない。

長さは絶望的に足りない。

見えているから、だからこその絶望。


寒さと渇きはもう限界を超えようとしていて。

それでもなお彼女に刻まれた烙印ブランドは彼女を死なせてはくれない。


なんでこんなことになっているのか、彼女は思い出せない。

頭にもやがかかったように思考は曖昧で。


ああ、そうだ。

烙印ブランド


烙印ブランド


烙印ブランド!!


――!!



それだけは霞がかったように遠い記憶の中でたった一つ確かな事。


彼女は悪魔と契約した。

彼女は獣に堕ち、人であることを剥奪された。


烙印ブランド


デタラメに追加された獣の要素。

人の耳とは別に生えたこの不自然な獣の耳がそれだ。


なぜ、いつ、どうやって。

それすらも覚えていないのに確かな事実として、現実として。

彼女は悪魔と結んで結果、この鉄鎖に繋がれている。


吐く息は白い。

瞳に映るのは鋼鉄の壁と床と天井。

這い回る配管と明滅する蛍光灯。


記憶はあいまいだ。

白く霞んだ頭が、思考が、行動を求める。

鎖を引きずりながら立ち上がり、どう考えても届かないバルブへと歩み寄る。


鎖が伸びる、伸びきる。

当然のように届かない。


諦めて、鎖を引きずりながら引き返す。

微熱を帯びた配管に背中を預けて座りなおす。


たった数十秒前だか、数分前にしたように。

折りたたんだ獣耳に指先を差し込んで暖を取ろうと試みる。


何度繰り返したのだろう。

それすらも彼女にはわからない。


鋼鉄と配管と蛍光灯。

そして足枷と鉄鎖だけが彼女の世界の全てだった。


ここで生まれて、ここで死ぬ。

そんな感情だけが円環を描いてぐるぐると回る。


だというのに、まだ死は遠い。


烙印ブランド

悪魔との契約が彼女を生かす、死から遠ざけている。


悪魔と結んだものは、契約を果たすまで死ぬことがない。


病も、毒も、餓えも、渇きも。

悪魔と結んだものを苦しめはしても死なせてはくれない。


――銀と、悪魔の爪牙だけが契約者を殺す。


誰かがそう、言っていた。

誰だったは思い出せない。


ここには銀はない。

彼女以外には誰もいない、何もない。

餓えと、渇きと、孤独だけが彼女の物だった。


息を吐く。

真っ白な息を吐く。

数十回、数百回、数千回、数万回か数億回か。


わからない、ただ白い息を吐き続ける。

それしか彼女にできることはなさそうだった。



ふと、影が差した。

気まぐれに明滅する蛍光灯がついに死んだのだろうか。


彼女はまだ死ねないのに。


影が揺れる。

気づけば目の前に誰かが立っていた。




灰色の、長衣ロングコート

頭部はフードと、良くわからない仮面に覆われていて。

それはガスマスクだったが彼女にはわからない。


男は、――たぶん男だと思った。

男からは、死の香りがした。

濃厚な銀の気配。


ああ、こいつは。

死だ、死神だ。

私の。



死神はただそこに立っていた。

白い息を吐いて、吐いて、吐いて。

彼女は何かを告げようとした。

言葉なんてもう長い事吐いていなくて。

どうやって言葉を紡げばいいのか思い出せなくて。


ずっと、そうしていた気がする。


男がゆっくりと、仮面ガスマスクを左手で外す。

白い息が、彼女のものではない白い息が大気に交じる。


そこで初めて、彼女は男が死神ではないと気づいた。


顔は見えない、明滅する蛍光灯の光は弱く。

フードの奥からじっとこちらを見ているらしい男の顔は見えない。



「……肉が久々に食いたくて」


ぽつりと、何の脈絡もなく男はそう告げた。

やはり、男だった、その低い声からそう思えた。



ねずみでも狩ろうと思って歩いて来たんだ。

 ――おまえは鼠か?」



男が、彼女の獣の耳を見ている気がした。


ふるふると、彼女は我知らず首を横に振っていた。

彼女は鼠ではない。

彼が死神でないように。



「そうか、なら喰うわけにはいかないな」



そんなズレたことを言って、彼は右手を懐に差し入れた。

抜き出された手には、拳銃。


回転式リヴォルヴァの、古臭い、使い古された、鉄と油の匂いが。


――の、匂いがした。



長い間、とても長い間、言葉を吐き出すことのなかった彼女の喉が。

痙攣し、血の匂いと味を滲ませながら。

どうにか言葉を吐き出す。



「――あなたは、誰。

 死神?」



「ウツロ」



短く、名前らしき単語を吐いて。

彼は拳銃をかざした。


目を閉じる。

ここが終点だと、彼女はワケもなく思う。


底冷えした空気の中に銃声が響く、轟く。

長く尾を引いて、六回。


痛みはなかった。


そっと目を開く、瞳に映ったのは砕かれた鉄の鎖。

彼女を縛るすべて。



「――腹減ってないか、何か食べに行こう。

 ママが言ってた、『食事は誰かと一緒の方が美味しい』って」



彼は、コートの中に拳銃を戻し、手を差し出した。

理由も、根拠になり得る記憶も思い出も彼女にはなく。

だがそれでも、彼女はそっと手を伸ばした。


手を握る、温かい、熱、他人の。



ほう、と白い息を吐く。


――それが、彼と彼女の出会いだった。










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Grave of Steel アオイ・M・M @kkym_aoi

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