第2話 2019年7月7日

 死にたいな────。

 1人海を眺めてそう思った。誰もいない夕暮れ時。雲一つない空。茜色の空に照らされたどこまでも青い海。胸が苦しくなるくらい美しかった。美しくて本当に美しくて、どこまでも広がる海原に感動と同じくらい心のもやがこみ上げた。

 ここで死ぬことが出来たら、どんなに幸せなんだろう────。

 あれは本気では無かった。発作のようなものだと今でこそ分かっている。ただその時はすぐに死ぬべきだと思い込んでいた。

 住宅街にある祖母の家を出て真っ直ぐ進むと海が見えて来る。

 生への恐怖すら受け入れてくれる穏やかな瑠璃色の海原。その美しさに取り憑かれた私は浜辺に降り立った。

 ミュールと足の間に砂が入ってきてその不快さに思わず眉をひそめる。中身はクソガキでも一応25歳の成人女性なのに何だか我慢が出来なくて、そのままミュールを投げ捨てた。

 久しぶりの帰省ということでなけなしのバイト代をはたいて買った白のリボンのついたミュール。まだ数回履いた程度の新品のそれは放物線を描いて海の中へと落ちてゆく。

(これ、人に見られたらマズいやつだ。)

 そう冷静に考える自分もいるけど、それ以上に解放感が強かった。ミュールが私の足に合ってなかったからかもしれない。

 火傷しそうなくらい熱い砂浜を踏みしめて海へと向かっていく。日暮れも近いからか、比較的涼しくて吹きつけてくる潮風が心地よい。磯の香りが鼻を通り抜けていく。麦わら帽子のつばと白いワンピースの裾が風にはためいた。

(もしかして、私は今世界で一番自由なのかもしれない。)

 そのまま進み、寄せては返す波に足が浸る。ぬるい海水が火照った体を冷ます。夕陽に向かってゆっくりとゆっくりと足を進めていった。どんどん深くなり、ワンピースが水を吸って重くなる。しまいには胸の辺りまで浸かってしまい、一歩一歩脚を踏み出すのも困難になる。でもそんな事がどうでも良くなるくらい爽快だった。このまま沈んでしまえれば。

(私は……)

 自由になれる。そんな絵空事を考えていたら、向かい風が麦わら帽子を私の左斜め後ろにさらっていった。

「あっ!!」

 風が強いせいか、帽子はそのまま浜辺へとふらふらと飛んでいってしまった。海に向かって半円状に砂浜が広がっており、両端は岩場となっている。帽子はその岩場に落ちた。

(ヤバ!)

 正直そのままスルーしても良かったのだが、そうはいかなかった。

(……人がいるんだけど。)

 1人雰囲気に酔っていたせいで気づかなかったが、その岩場で座っている人がいる。しかもよりにもよってその人の足元に帽子は落ちたのだ。

(マズイ事になった……。)

 若い女が服を着たままひとり海に入っている。確実に自殺を疑われる。いや、実際そうしようとしてたんだから言い訳出来ない。面倒臭い、厄介だと思いつつもこのまま海に進もうものなら絶対止められるし、止めたところで絶対に明日には噂になってるだろう。小さな田舎町だ。話が広がるのは早い。うんざりしつつも表情には出さないように気をつけながら岩場へと向かう。

「すみませ〜ん。なんかついはしゃいじゃって。普段はこういう事しないんですけど、なんていうか〜、たまには1人で着衣水泳もありかなって! フフッ。」

 我ながらすごい苦しい言い訳だと思いつつも大きな声で相手に呼びかけた。反応は無い。浜辺へと上がる。濡れたワンピースが体に張り付いて気持ち悪い。相手は岩場のより高いところで海を見下ろしている。

「本当にすみませ〜ん。帽子取ってもらってもよろしいですか?」

 いくら呼びかけても一言も言わない。少しムッとしたが仕方なくその人の居るところまで登ることにする。無視したかった。でもここで無視したら、余計に疑われそうというか何というか。

 遠目からもスタイルの良い人だと分かった。黒のスラックスに白のワイシャツ。シンプルな装いなのにモデルかと思うような雰囲気がある。座っている姿を見ても背が高いんだろうなと分かるくらいスラックス越しの脚が長い。茶髪のショートで肌が透き通るように白かった。

(かっこいい人だな。)

 美醜に疎い私でも、思わず息を吞むような浮世離れした美しさを感じる。と同時にその日本人離れした容姿から、言葉が通じていないのではないかと一抹の不安を感じた。

 先程からその横顔はこちらをちらりとも見ない。私の疑惑は確信に変わった。

「失礼しま〜す。ちょっとお邪魔しま……」

 だからといってスラスラ英語を話せたら苦労しない。こちとらゆりかごから現在まで日本在住の純ジャパだ。目の前の彼には郷に入っては郷に従えということで、こちらに合わせていただこう。

 彼の足元に辿り着き、ようやっと彼を近くから正面を捉える。白いシャツははだけており、たくましい腹筋や胸筋が露わになっている。そしてさめざめと静かに泣いていた。

(えっ、……もしかして、この人も?)

 良く見ると服と髪が濡れそぼっている。私と同じように死のうとして入水したのかもしれない。そして結局失敗してここでボーっとしていたのでは。

 もしかして、もしかすると私がさっき言ったふざけてるとしか思えない着衣水泳とやらを、目の前の彼はやったのかもしれない。

 でも、彼の雰囲気は何やらこちらが口を挟むのを躊躇してしまうようなものだった。

 ここは一人にしてあげた方がいいのかもしれない。また自殺しようとするかもしれないが、止めるのも酷な話だ。自殺を考えるほど苦しんでいるのに一時の正義感で邪魔するなんて、その後の人生の責任を取れる訳でも無いのに。私は生きていれば良いことがあるという綺麗事が嫌いだ。

 もういっそ大人しく、帽子を諦めてしまおうか。気が抜けたと言えばいいのだろうか。自殺への衝動は収まったが、依然として憂鬱なままだ。

 この帽子に特に思い入れがあるわけでもないし、でも家に帰るのも面倒くさい。

 結局その場から動けなかった。ここを立ち去るわけでもなく、だからといって彼に話しかける勇気も無い。

 突っ立ったままの私は彼から目を離すことが出来なかった。今思えば、あまりにも不躾だったと反省している。どちらかというとクールな印象がある彼の熱に浮かされたような横顔が余りにも美しかったからかもしれない。水も滴るいい男とは正に彼の為にある言葉なのだろう。でも何より印象的なのはその瞳だった。涙で揺れる瞳がなんというか……。

(海の中にいるみたい。)

 まるで海の底から見上げた空のように深い深い紺青だったから。

「……何?」

 私の不躾な視線に気づいた彼がこちらを向いた。邪魔されて少し不機嫌そうだ。ごめんなさい。

「……あの、」

「お姉さん、なにしてんの?」

 甘く優しい声だった。男性にしては少し高めで耳に残って離れない。

「えっと、帽子を……。」

「ぼうしぃ? ああ、この落ちてるやつ? ……はい、どうぞ。」

(良かった。私が海で自殺しようとしてたところは見られてないみたい。)

 彼が立ち上がって、帽子を拾い上げる。そのままこちらに歩み寄って渡してくれた。大きな手だった。正面に立たれると彼の背が高くて顔を見上げるような形になる。

「ありがとうございます。……あの、大丈夫ですか?」

 そのまま、ハンカチを手渡す。ワンピースのポケットに入れてたせいで、湿っていた。我ながらこういう時にスマートに出来ない自分に腹が立つ。

「なんで?」

「その……。」

 泣いている事を指摘するのも野暮だと思い、無言で自身の頬を指さした。彼もつられて彼の頬に触れた。驚いたような顔をして頬に触れた手を見つめている。

「オレ、泣いてたんだ……。ハハッ、マジウケんねぇ~。」

「…………。」

「すぐ治まるから。ハンカチ返すわ。あんがとね。」

 どう言葉を返していいか分からなくて押し黙る。

「あの、……。」

「一緒に海見てかね?」

「えっと、……。」

「いいから、いいから。」

 どこか幼さを感じるような甘い喋り方だ。腕を優しく掴まれ、気づいたらそのまま一緒に岩場に腰掛けていた。

(もしかして、この人結構強引⁉︎)

 私があまり異性と関わって来なかったからというのもあるけど、あまりにも一連の動きが手慣れていて慄く。

(結構遊んでる人なのかな?)

 景色に集中出来ず、左隣の彼を見つめる。目をキラキラさせて夕暮れの海を眺める彼は幼子のように見えた。なんだか見ないでいるのが無性に勿体無く思えて、前を向く。自殺への衝動が治まった今も、そこには変わらず美しい光景があった。

「キレーだね。」

「ええ、本当に。」

「あのさ、その畏まったしゃべり方辞めね? オレたち、たぶん歳近いっしょ。」

「じゃあそうしようかな。」

「うん、そっちの方が自然でいい。」

「そういえば歳いくつなの?」

「17」

「……マジで?」

 驚きのあまり彼を凝視する。見た目があまりにも洗練されていて、同じ20代だと、少なくとも未成年ではないと思っていた。

「なにそんなに驚いてんの。」

「いや、驚くわ。まさかこんなに年下だとは思わなかった。」

「へぇー、歳上なんだ。」

「うん、25。今日が誕生日。」

「おめでとー。全然見えねえや。もっと年近いと思ってた。」

 彼がちらりとこちらを見やる。他意はないのは分かっていたが、その時猛烈に恥ずかしくなった。私は幼く見られる事があるが、それは若々しいという意味では無い。同い年の女性たちに比べてメイクも下手で人生経験も乏しい。私の未熟な人間性が顔に出てるだけのことだ。

「はは、うん良く言われるの、幼いって。まあ、うん、私歳上の威厳が無いっていうか。あはは。」

 思わず自虐してしまう。誰も愉快にならないなんて分かってるはずなのに。

「オレ、そんなこと言ってねえけど。勝手に人のはなし歪めるのやめてくんない?」

「……ごめんなさい。」

 不可解だと言わんばかりの顔で、言われた。初対面の男子高校生に怒られるという地獄。

「お姉さん、疲れてんの?」

「そうかもしんない。……不愉快な事言ってごめん。」

「だぁから、そういうのだって。」

「ごめっ、……こういうの良くないわな、うん。」

「せっかくこんなキレーなものが目の前にあるのに、なんでそんなに落ち込んでんの? もったいなくね?」

「鬼のポジティブ思考だね。」

「お姉さんがネガティブすぎるだけっしょ。」

「ぐうの音も出ないや。フフフ。」

(不思議な感覚。この子と喋ってると何だか悩んでるのが馬鹿馬鹿しくなる。)

 聞こえるのが潮騒のみのこの場にいると、まるでこの世界で2人っきりになったみたいに思えた。ささくれだった心が波に包まれたかのように穏やかになっていくのが分かる。

「夕焼けってこんなにキレーなもんなの?」

「そうだね。特にここは海もあるし。」

「毎日こんなのが見れるなんてぜいたくだなぁ。」

「もしかして、地元の人じゃない?」

「うん。」

「旅行で来たの? 連れはどこに?」

「いいや。ひとり旅。」

「ひとり旅⁉ その歳で⁉ すごいね。」

「歳なんて関係なくね? オレはその時やりたいって思ったことをやるだけ。」

「……かっこいいね。」

 当然のことのように言い切る姿が眩しくて眩暈がしそうだ。

「別にあたりまえじゃね。お姉さんもそうでしょ。」

「……私には無理かな。」

「無理って決めつけるのやめたら?」

「……なんかキミさ、達観し過ぎじゃない? 私がそのぐらいの時なんて、毎日推しに狂ってた記憶しか無いんだけど。」

「昔語りはきらわれるよ、おばさん。」

「うるさいぞ、高校生。まだ25だわ。ピッチピチの極みですけど!!!!!!」

「ウケる。確かに威厳ねえわ。それにオレ高校生じゃねえし。もう辞めたから。」

「えっ!! …………なんでさ?」

「通う意味が分からなくなったから。」

「……思い切りがいいでやんすな〜。」

 聞いていいことなのか分からなくて視線がさまよう。夕日に惚けている横顔に負の感情は見当たらなかった。

 その後、ぽつぽつと話していると夕日が水平線へと姿を消し、星空が満天の輝きをもって瞬き始めた。空が茜色から深い藍色になっても、私たちは相変わらず景色を眺めながら岩場で2人語り合っていた。

「あれ、なに?」

 彼は東の方角へと指さす。その先には星空の中でも一際輝く一等星があった。

「あれはね、こと座のベガ。七夕のおりひめ星。で、ベガから右下の方向にあるのがわし座のアルタイル、ベガから左下の方向のはくちょう座のデネブだよ。 この3つの星を結ぶとね、夏の大三角になるの。」

(唐突だなぁ。)

 少し喋っただけでもかなりいろんな意味でマイペースな子だと分かったので、驚きは無かった。

「今日が晴れてて良かった。織姫と彦星もきっと会えただろうし。」

 憂鬱な誕生日が少しだけ報われたような気がする。

「学校で習ったけど、写真なんかより実物がいちばんいいねぇ。普段オレのいるところだと、ぜんぜん見えないし。」

「ここ田舎で空気が綺麗だもんね。」

「オレ、ここの空好きだわ。」

 (こんな純粋な気持ちで空を見上げるなんて、何年ぶりだろ。)

 彼のはしゃぎぶりにこちらの心も浄化されたような気分になった。

「私も。……名残惜しいけど、帰るね。時間も遅いし。」

「もう帰っちゃうの? もっと一緒に見ようよ。お姉さんがいないとつまんない。」

 ずっと景色の方を見ていた彼がこちらを向いた。少し寂しそうに眉根を寄せるところを見て、悪戯心が湧いた。

「口説いてんの? 未成年。」

「安心して。お姉さん、タイプじゃないから。」

「それはそれで傷つくんだが。」

 結局返り討ちにあった。若者の心無い言葉に傷ついた胸を抱えて、彼に背を向ける。

「送ってこうか?」

「いいよ。徒歩で5分もかからないところだし。じゃあ、またどこかで。」

 岩場を降りて、振り向くとこちらへと元気いっぱいに手を振る彼が見えた。こちらも振り返して、家路へと急ぐ。

(こんなに緊張しないで喋れたの久しぶりだな。)

 スキップしたくなる脚を抑えながら、街灯に照らされた薄暗い道を歩く。人通りも少ない通りを抜けて家の玄関が見えたところである事に気づいた。

(……ミュールどこにやったっけ?)

 結局その後見つからず裸足で帰って来た私が祖母に怒られるのはまた別の話。

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