第七話 ありがとう

 翌日、紫は氷樹のクラスを訪れていた。けれども氷樹は祐輔と食堂に行っていると言うので食堂へ向かった。


「氷樹くん」


 紫は氷樹と祐輔を見つけ、声をかけた。


「今日、放課後空いてる?」

「……カーチャと約束がある」

「嘘。カーチャはそんなことは言っていなかったわ」

「……」

「放課後、部室まで来て。話があるから」


 そう言って紫は行ってしまった。



 ◇ ◇ ◇



「氷樹、宝条は……いや、どうするんだ?」


 紫が去った後、祐輔は心配するように氷樹に問いかけた。


「……」

「宝条とは色々あったのかもしれないけど……そろそろはっきりと言った方がいいと思う」

「……」

「もし、氷樹にその気が本当にないのなら――」

「俺に人を否定する資格はないんだ」


 祐輔の言葉を遮るように氷樹が口を開いた。


「俺はあいつに色々とひどいことをした。だから」

「違う。氷樹、それは違うよ」


 祐輔は辛抱強く続けた。


「それは却って宝条にとって酷だ。宝条は氷樹のことが好きだ。氷樹にその気がないのなら、やはりきっぱりと言わなきゃ」

「…………」


 けれども、氷樹は黙ったままだった。



 ◇ ◇ ◇



 放課後、紫との約束通り氷樹は部室前にやってきた。すると、部室の中から紫が出てきて「入って。訊きたいことがある」と言った。

 氷樹が部室の中に入ると紫は改めて向き直って訊いた。


「ねえ、昨日カーチャの家に泊まりに行ったって本当なの?」

「……ああ、そうだな」

「……そう。本当のことだったのね」


 紫は氷樹の口から真実を確認し、心は動揺したものの気を取り直した。


「それは、カーチャが誘ったのね?」

「違う。俺がカーチャに言った」

「……氷樹くんが?」

「そうだ」

「…………」


 今度ははっきりと紫に動揺の色が見られた。


「それは……氷樹くんは……カーチャのことを……」

「……」

「どうして……? どうして私じゃだめなの……?」

「そういう話ではない」

「…………」


 紫は押し黙ったかと思うと部室の鍵をかけた。


「宝条――」


 氷樹がそう言いかけた次の瞬間、紫の唇が氷樹の唇に重なっていた。


「…………」


 氷樹はなされるがまま紫に唇を押し付けられ、壁際に背中をつけた。

 やがて唇が離れると紫は氷樹に抱き着いた。


「私は氷樹くん、貴方のことが好き――もう抑えきれないの。この気持ち」

「…………」

「カーチャに勝てないことはずっと前からわかってた――けど、私は……! 私はどうしようもないくらいあなたのことが好きなの!」

「……」

「私はあなたの心の支えになりたいと思ってた――誰よりもあなたのことが大好きだから――」


 紫は氷樹の胸元から見つめ上げるようにして言った。


「氷樹くん、お願い。私を愛して?」


 紫はそのまま氷樹を床に押し倒すようにして再び彼の唇に自分の唇を押し付けた。


「お願い……私はカーチャに負けたくない……」


 そう言いながらブラウスのボタンを外し始める。

 すると、氷樹は床に仰向けになったまま、冷静な口調で言った。


「お前は、俺が――実の妹と関係を持とうとした男と、こうしたいのか?」

「……っ」


 紫は一瞬動揺して動きを止めた。


「麻世は俺のことを異性として見ていた。そして俺も麻世を受け入れた。それが、真実の俺の姿だ」

「……」

「……悪いことは言わない。もう、俺のことは構わない方がいい」

「……抱いたの? 麻世ちゃんのことを……」

「もはやそうなってもおかしくないところまでいっていた」

「…………」


 紫はぐっと唇をかみしめたかと思うと、再び問いかけた。


「氷樹くんは……カーチャのことが、好き?」

「…………」

「答えて」


 氷樹はしばらく宙を見つめていたが、やがて呟くように口を開いた。


「カーチャは……俺にとって光を当ててくれるような存在だ。いつも周りを明るく照らし続けてくれるような――」

「……」


 そして紫と改めて面と向かい、はっきりと言った。


「宝条、俺はお前と一緒になることはできない。何故なら――俺は今でも、立花――麻矢のことが好きだから」

「……!」

「……昨日までの俺は、カーチャに身を任せてあるがままになりたいと思っていた。けど、それは単に全てから逃れたいという俺の甘え――カーチャの意思と反するものだ。それを理解した途端……わかったんだ。俺が好きなのはやはり麻矢なんだって」

「…………」

「そして、カーチャは俺にとって最高の親友だ」


 紫はその言葉を聞くと、フッと顔を綻ばせた。


「やっと――言ってくれたね」


 すると氷樹の頬に温かいものが降ってきた。紫が肩を震わせ、瞳から大粒の涙があふれ落ちていた。


「やっと…………あなたを諦めきれる」

「宝条」


 氷樹は起き上がって紫の肩に手を置いた。


「……すまない」


 紫はゆっくりと首を振った。


「……そっか。麻矢ちゃんのことはまだ……想っていたんだね」

「……」

「麻矢ちゃんは氷樹くんにとって本当に素敵な存在だったのね。知らなかった」


 そしてスカートのポケットからハンカチを取り出した。


「私の方こそ……ごめんなさい。あなたの唇を無理やり奪った。私は最低な女。こんなことじゃ気休めにもならないかもしれないけど」


 そう言って紫は震えた手でハンカチを手にして氷樹の唇を拭こうとした。が、氷樹は紫の腕をつかんだ。そして彼女を抱き寄せた。


「そんなことをする必要はない」

「……」

「好きになってくれて、ありがとう」

「うん……ありがとう、氷樹くん」


 紫は再び涙を流しながら、頷くようにして言った。



 ◇ ◇ ◇



 氷樹は数ヶ月ぶりに人間味を取り戻した気がした。紫が自分に想いをぶつけてきたことで、彼女に対して感謝の気持ちが芽生えた。

 彼女のことを傷つけたことには変わりないが、再び人の気持ちを感じられる自分に戻った気がした。


(……)


 過去の紫とのやりとりを思い出す。自分の都合で彼女の気持ちを利用したこともあった。彼女は麻世を亡くした自分を支えると言ってくれた。

 もちろん紫だけではない。翠妃、かえで、祐輔、そして恵花――みんな自分のことを心配してくれている。

 そしてずっと自分のことを一番寄り添って支えてきてくれたのはきっと、恵花だったに違いない。彼女は常に明るく、前向きで、自分に光を当ててくれた。そしてそのおかげで初めて人のことを――麻矢のことを好きになることができた。一緒になることができた。


(麻矢……)


 今でも自分の心の中で麻矢の存在は大きく残っていた。



 ◇ ◇ ◇



 翌日、恵花がいつも通りに駅前に行くと、そこにはもう紫がいた。


「紫……」


 恵花は気まずい表情をしながらも「お、おはよう……」と声をかけた。

 すると紫は「カーチャ、あなたを待っていたの」と言って、恵花と面と向かって「ごめんなさい」と頭を下げた。


「紫……?」

「カーチャ、私、あなたに謝らなきゃいけない。ううん、あなただけじゃない。翠妃ちゃんやかえでちゃんにも」


 恵花はどうして突然紫が謝ってきたのか戸惑っていた。


「私は氷樹くんに夢中になるあまり……自分を見失っていたわ。あなたたちのことを一方的に批判して……ごめんなさい」

「なんでだよ――どうして紫が謝るんだ。私の方こそ、昨日紫に言われたことを痛感した。私は間違っていた。自分が良かれと思ってしていたこと――それは私の押し付けだった。周りのことを考えずに……私だけが……」

「違うよ、カーチャ。あなたが正しかったの。あのね、私……」


 紫は言いよどんだが、続けた。


「氷樹くんのことはあきらめる」

「えっ?」

「あ、でもね。氷樹くんのことを支えていきたい、という気持ちはあるわ。友達として――彼は麻世ちゃんを亡くして大変だから……」

「一体どうして……」

「……いつか、きっとわかるわ」


 紫は少し寂しげに微笑んだ。

 すると、かえでと祐輔、そして氷樹もやってきた。


「おはよう、氷樹くん。かえでちゃんと木下くんも」

「……」


 氷樹は紫を見ていた。彼女は微笑んでいる――氷樹も「おはよう」と返した。

 一方かえでは自分や翠妃たちとは上手くいっていなかった紫が笑顔で挨拶してくれたことを意外に思っていた。

 すると教室に入ると紫の方から切り出した。翠妃にも謝罪したのだった。


「ごめんね、あなたたちに対して本当に嫌な態度をとってしまって……」

「そんなこと……私の方こそ……」


 翠妃は慌てて頭を下げて言った。


「……あのね、カーチャにも言ったのだけど、私は氷樹くんのことはあきらめる。一人の友達として彼のことを支えたい」

「紫ちゃん、一体……」

「かえでちゃん、あなたたちの言う通りだったわ。私は自分勝手が過ぎた。氷樹くんのことを支えると言いながら、けどそれは結局自分のためで……。気付いたの」


 すると紫は一歩進み出て、


「あの……本当に今さら虫が良すぎるかもしれない。けど、私もあなたたちと一緒に……氷樹くんのことを支えていきたい」

「……」


 かえでと翠妃は顔を見合わせたが、


「もちろん。私からもよろしくね」

「わ、私も……よろしくです」


 三人は微笑み合った。これまでのわだかまりが消え去っていた。

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