第六話 裏切り行為

「カーチャ、ちょっと」


 翌日の朝、恵花が教室に入ろうとすると紫が恵花を呼び止めた。


「どうした?」

「ちょっと来て」


 紫に呼ばれ、入ったばかりの教室を出ると一階の中庭までやってきた。そして振り返るなり「どういうことなの?」と言われた。


「どういうことって?」

「今朝、みんなの前だから言わなかったけど、いつもの待ち合わせ場所に行く前にあなたたちを見たわ。カーチャと氷樹くんが一緒にカーチャの家の方から歩いてくるのを」

「――っ」

「……ねえ、まさかとは思うけど、氷樹くんを……家に泊めたの?」

「……」

「昨日、部活の後二人でカーチャの家に行ったのよね」


 恵花は今初めて自分のやったことがいかに間違っていたかを思い知った。一人暮らしの家に男である氷樹を泊めるということは、周りから見ればそれがどういうことを意味するかは明らかだ。


「その……」


 ここで変にごまかしたところで余計にこじらせるだけだ。けれどもそれを認めても目の前の彼女はどう思うか――


「ああ……氷樹は私の家に泊まった」


 その言葉を聞いた紫は表情を変えて、


「それって――それってカーチャと氷樹くんは……」

「違う! そういうことじゃない。氷樹とは本当にそういうことは何もない。ただ、本当に泊まっただけなんだ」


 しかし紫は怒りを込めた表情で「ずるい……カーチャのことは信じてたのに……」と呟いた。


「待て、紫、本当にそうじゃないんだ――」

「そうじゃなかったとしても!」


 紫の大きな声に恵花はビクッと後ずさった。


「あなたのしたことは――私の気持ちを知ってて……」

「決してそんなつもりでは……」

「今さらどんな言い訳したって氷樹くんと二人だけで一晩過ごしたことには変わりないでしょ? そう……カーチャは最初から……。氷樹くんが麻矢ちゃんと別れて、そして妹の麻世ちゃんが亡くなって私が慰めてあげるって?」

「違う! 私は決して――」

「だってそうじゃない! あなたがどう言おうが、やっていることはそういうことでしょ?!」

「――っ!」


 恵花は何も言い返せなかった。確かに自分は麻矢のことを支えようと――そして氷樹との仲が元通りになればと思いながら、それを裏切るに等しい行為をしていたのだ。


「カーチャ……あなただけは信用していたのに……」

「紫……」


 思わず恵花は紫の手を取ろうとしたが、「触らないで!」と紫は恵花の手を払って行ってしまった。


「…………」


 恵花はその場に立ちすくんで、紫に言われた言葉のショックと、そして自身の行った罪深い行動を今更ながら思い知っていた。


「カーチャさん?」


 教室に戻ってきた恵花の様子がおかしいことに気付いた翠妃が声をかけた。しかし恵花は動揺した様子で何も言わなかった。

 そのまま朝のホームルームが始まってしまい、翠妃は理由を聞くことができなかった。しかし、紫と何かがあったのには間違いなかった。



 ◇ ◇ ◇



「それって完全に紫さんの一方的な思い込みじゃないですか!」


 昼休み、恵花がいつもの屋上で今朝のことを翠妃とかえでに話すと、翠妃は怒った様子で言った。


「……いや、私のやっていることは紫の言う通りだ」

「そんなの――紫さんの方こそ自分のことを棚に上げてカーチャさんのことを責めるなんて間違ってます! カーチャさんは本当に心から氷樹くんのことを――」


 しかし恵花首を振った。


「……麻矢ちゃんや麻世ちゃんから見たら、私のしていることは裏切り行為そのものだ。私の考えが浅はかだった。そりゃそうだ。男である氷樹を一人暮らしの私の家に泊めるなんてそりゃ誤解されるに決まってる……」

「確かにそうかもしれないけど……でもカーチャ、貴方の場合は氷樹くんの方から言われて応えてあげたのでしょう?」

「そうですよ! 紫さんはあくまでも自分の都合で氷樹くんのことを……」

「私は……氷樹が何かをしたい、という意思表示をしてくれたことが嬉しかったんだ」

「わかっているわ、カーチャ」


 かえでは恵花の手を握って言った。


「麻世ちゃんを亡くしてからの氷樹くんは……本当に生きる気力もなくしかけていたわ。けど、学校に来られるようになったのはカーチャのおかげじゃない」

「私だけの力じゃない。みんなのおかげだ。そしてその中には紫もいる。紫も氷樹のことを元気づけてくれていた」

「紫さんは自己のための気持ちが強すぎます。私、紫さんにカーチャさんはそんなつもりじゃなかった、って言ってきます」


 翠妃が立ち上がったが、恵花は「やめてくれ」と彼女を止めた。


「これ以上紫と……」

「けど言うべきことは言っておくべきです」

「待って」


 かえでも翠妃のことを止めるように言った。


「いま私たちは無駄な争いをしている場合ではないわ。今はやらなければならないことがあるはず。そうでしょう?」

「…………」


 翠妃はかえでに言われて引き下がった。けれども恵花の心は揺れ動いたままだった。



 ◇ ◇ ◇



「カーチャさん……」


 麻矢は中等部の校舎前にいた恵花を見て少し驚いた。


「麻矢ちゃん、話したいことがあるんだ」

「……」


 麻矢は視線を少し落としたが、恵花は麻矢の手を取って「来てくれ」と彼女を連れて行った。

 やってきたのは学校のカフェテリアの裏の広場だった。


「麻矢ちゃん、考え直してくれ」

「カーチャさん、私はもう、氷樹先輩とは――」

「お願いだ」


 恵花は悲痛な声を上げた。


「氷樹には麻矢ちゃんがいないと――でないと氷樹は……」

「……無理なんです」

「え……?」

「私は氷樹先輩と一緒にいることはもうできないんです」

「麻矢ちゃん……」

「麻世ちゃんに対して私がしたことの罪は一生消えません」

「そんなこと――」

「麻世ちゃんを追い詰めたのは私。麻世ちゃんから氷樹先輩を奪ったのも私です」

「違う。奪っただなんて――麻世ちゃんは決して麻矢ちゃんのことを恨んでなんかいない。絶対にだ」


 しかし麻矢は憂える表情をして、静かに言った。


「カーチャさん……それはカーチャさんだから言えることなんですよ」

「……!」

「すみません……さよなら」


 麻矢はその場を立ち去っていった。恵花はその場に立ちつくしていた。



 ◇ ◇ ◇



 恵花は半ば放心状態のまま自宅に帰っていた。


「……」


 部屋の中に入っても佇んだままだった。


(私は麻矢ちゃんたちのことを支えると言っておきながら……私のことしか考えていなかった。私の考えを押し付けていた。麻矢ちゃんにとって、それがどんなに残酷なことだったか――)


 しかし、麻世が麻矢のことを恨んでいたとは思えなかった。最期、麻世が自分の家を訪れたとき、彼女は自分のしたことを悔いていた。そして、自分が氷樹の妹であるが故に氷樹と結ばれないことへの絶望で命を絶ったのだ。


(けど、麻矢ちゃんの言う通りだ。麻矢ちゃんの立場に立ってみたら、私の言っていたことはただの都合の良い解釈――どうしたら……)

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