第二話 変化

 氷樹の変化が表れ始めたのは二学期が始まってから間もなかった。

 これまで一度も――麻世が亡くなる前も――恵花がアルバイトをしている時に彼女の店に訪れることはなかったのに、今日、氷樹がやって来たのだ。


「氷樹――」


 恵花は驚いて氷樹を見たが、氷樹は至って普段と変わらない様子で、


「今日も十時までか?」

「ああ――そうだ」

「そうか」

「あ――もしあれだったら、店長に早くあがれるか訊いてみるよ」


 恵花はすぐに言った。


「――いや、いいんだ」

「待ってくれ。私に用があって来てくれたんだろ?」

「……」

「ちょっと訊いてみるから待っててくれ――アイスコーヒーでいいな?」


 氷樹はテーブル席に着いた。するとほどなくして恵花がアイスコーヒーを持ってきた。


「店長にお願いして七時まででもいいって――けど、やっぱりそれだと氷樹にとって遅くなってしまうし、その代わり休憩を先に取らせてくれることになった。あと三十分したら――」

「いいんだ。ただ、その代わり……しばらくこの店にいても、いいか?」

「ああ――もちろん」


 その後氷樹はテーブル席から恵花を見ていた。彼女は明るく接客をしている。確かにバイト仲間にも、そして客にも受けがとても良さそうで、彼女の笑顔はとても周りを明るくしてくれているようだった。


「……」


 彼女が休憩の時には氷樹のテーブルに来てここのアルバイトのことなどをしゃべっていた。氷樹は黙って彼女の話をずっと聴いていたが、やがて口を開いた。


「……久しぶりに、打ちたい気分だ。もし七時で上がれるのなら、打たないか?」

「ああ――もちろん私は……けど、氷樹はいいのか? 私の家に来るか?」


 恵花は氷樹の方からビリヤードを打ちたいと言われ、思わず意気込んだ。


「ああ、そうしたい」

「わかった――バイトが終わるまでまだ少し時間があるが、待っててくれ」


 恵花はにっこり微笑んで言った。



 ◇ ◇ ◇



 午後七時過ぎ、恵花はアルバイト先からあがって氷樹と一緒に店を出た。


「私の家で夕食を食べよう。帰りは祖父からもらってるタクシーのチケットがあるからさ」

 

 二人はスーパーに寄って買い物を済ませると、恵花の家に向かった。

 恵花は嬉しかった。氷樹の方から何かがしたいという意思表示をしてくれたことが嬉しかったのだ。麻世を失ってから彼の瞳には生気が感じられず、何事にも興味を失くしていた。そんな彼が自分に会いに来てくれたのだ。

 家に帰ると恵花は早速夕食の準備をして、二人で食事をとった。そしてその後はビリヤード台で二人で打ち合った。

 氷樹の腕は以前と同じように恵花に負けず劣らずのプレーを見せた。


「さすがは氷樹だな。ブランクを感じさせない」

「……」


 気が付けばもう午後九時を過ぎようとしていた。


「おっと、さすがにこれ以上は氷樹のご両親が心配してしまうだろ」

「……そうだな」

「いつでもまた来てくれよな。事前に言ってくれればバイトのシフトも調整するからさ」


 そう言って恵花はタクシーチケットを氷樹に渡した。けれども氷樹は受け取らなかった。


「大丈夫。電車で帰るから」

「けど――」

「カーチャ、楽しかった。ありがとう」


 氷樹がそう言って玄関に向かおうとした途端、恵花が引き留めるように後ろから抱き着いた。


「氷樹――行くな」

「…………」

「たのむ」

「カーチャ」


 氷樹は振り返って恵花をそっと離した。


「大丈夫だ。俺は、どこにも行かない。明日も、必ず学校に来るから」

「氷樹……」


 それでもやはり恵花の不安は拭えなかった。恵花は再び氷樹を引き留めるかのように抱きしめた。


「だめだ。氷樹、今日は泊まっていくんだ。頼む、私からのお願いだ」

「……」

「私はもう、喪いたくないんだ――」


 恵花の琥珀色の瞳から涙が流れ落ちた。あの日を――麻世がここを訪れた最後の日――絶対に繰り返したくはない――


「……」


 すると氷樹はスマートフォンを取り出して電話をかけた。そして「今日は友達の家に泊まることになった。明日、帰る」と言って電話を切った。



 ◇ ◇ ◇



「おやすみ、氷樹」

「……ああ、おやすみ」


 夜、寝る前に恵花は氷樹におやすみを言って自室に戻った。


「……」


 恵花はぎゅっと胸の前で拳を握りしめた。あの時、どうにかしてでも麻世ちゃんのことを引き留めていれば――


(いや、私がいつまでも立ち直れていないんじゃだめだ。私は氷樹の――みんなの心を救うって決めたのだから――)

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