第二話 いっそ楽になりたい

 翌日、紫は学校にやってきた氷樹の元へ行き、帰りにどこかに出かけないか誘った。氷樹は紫の誘いに了承した。やはりそれは、紫へ罪悪感のようなものを感じていたからだった。

 紫が決して諦めないことを氷樹は悟った。あれだけのことをされてもなお、自分に対して尽くそうとしている。ああ――いっそのこと楽になれればいいのに。

 氷樹は心の中でそう思った。この人生を終わらせれば全てのしがらみから解き放たれる。

 決して周りの人間のことが嫌というわけではなかった。自身の心の問題だった。周りがこれだけ自分に対して尽くしてくれているのに、自分には何もないというギャップが氷樹を少なからず苦しめているかのようだった。

 そして一方で、何かに全てを委ねて楽になってもみたいという気持ちが無意識にわき上がっていた。

 一方紫は、教室で翠妃たちにこれ聞こえよがしに今日氷樹と一緒に出かける話を同じ部のマネージャーである友達にしていた。その話を聞いている翠妃とかえでは複雑な心境だった。翠妃やかえでとはほとんど口もきいていなかった。


「……紫さんは氷樹くんのためというより、自分のために動いています」


 昼食の時、翠妃は以前と同じことを恵花に言った。


「けど、氷樹のことを心配しているというのも本当のことだ」


 恵花は紫の気持ちもある程度尊重していた。


「わかってます……氷樹くんが学校を辞めない、って決めたのが紫さんのおかげだって……。けどあの子は……氷樹くんには麻矢ちゃんがいることをわきまえていません」

「……」

「氷樹くんと麻矢ちゃんは形式的には別れてしまったのかもしれません。けど、本当はお互いに想い合っているんです。それを知っていながら紫さんは……」

「氷樹が麻矢ちゃんのことを想っている限り、大丈夫なはずだ。けど、確かに氷樹の今の精神状態では……そうとも言い切れないのかもしれない……」

「私、もう一度氷樹くんとよく話してみたいです」

「……そうだな」


 夏休みまであと数日だった。



 ◇ ◇ ◇



 ―― 数日後


 今日は土曜日で学校は休みだった。一学期の最後の週末となる。恵花は星蹟桜ヶ丘駅の改札前に立っていた。


「おはようございます、カーチャさん」


 やってきたのは麻矢と紗香だった。麻矢に家に泊まりに来るように誘っていたのだ。


「私のことも誘ってくれてありがとう」


 紗香が言った。今日は紗香と麻矢の三人で恵花の家に泊まることになっていた。


「紗香は私の家に泊まるのは初めてだろう」

「ええ」

「まずは私の家に案内するよ」


 三人は恵花の住むマンションへ向かった。


「わあ……翠妃からは聞いていたけれど、こんなすごいマンション……」


 紗香はマンションを見上げて言った。


「お部屋はもっとすごいですよ。最上階ですしね」


 麻矢が言った。

 エレベーターで四十六階に上がり、恵花の部屋に到着した。


「こんな景色、初めて」


 思わず紗香は言葉を漏らした。広々とした部屋にそこから見える景色。荷物を置くのも忘れて思わず見とれてしまった。


「荷物はこっちの部屋に置いてくれ」

「本当、ここは素敵な場所ね」


 荷物を置いた後、再び外に出かけた。恵花が紗香に星蹟桜ヶ丘の街や公園などを案内して色々な場所に寄った。

 すると、ふと足を止めた麻矢がとある大きな木を見つめ上げていた。


「麻矢ちゃん?」

「……」

「……ああ、お花見に行ったんだよな」

「紗香さん」


 麻矢が口を開いた。


「氷樹先輩は、やっぱり昔から……寡黙な方だったんですか?」

「そうね……近所で同い年で……けど、彼はいつも私と一緒に遊んでくれて。……麻世ちゃんも一緒に」

「……」

「……麻世ちゃんは昔から氷樹くんのそばを離れなかったわ。本当にお兄ちゃん子で……可愛かった」


 紗香が懐かしむように言った。


「私には兄弟がいないからとても羨ましかったわ」

「そうですね……」

「…………」


 恵花は黙って聞いていた。


「麻矢ちゃんやカーチャさんならもちろん知ってると思うけど、氷樹くんは何も言わなくてもその優しさが伝わったわ。小学校に通っているときも彼は変わらなかったけど、不思議な魅力があるというか……みんな彼のことを慕っていたのは確かだわ」

「……」

「けど、中学からは別々になってしばらく会うこともほとんどなくなって……。そして中三の時、彼と麻世ちゃんが受験生の時に塾の関係で少し会うようになって……その時の氷樹くんは……なんだか、とてもつまらなそうに見えた。何の楽しみも見い出せないような……。けどね」


 紗香は麻矢の方に振り返って、続けた。


「貴方がいてくれたから氷樹くんは変われたのよ。以前会った時の氷樹くんとは違った。何か、生きることが楽しい、幸せだと感じられるような目をしていたわ。あの時、貴方と一緒に出会ったとき――」

「……」


 すると紗香の話を聞いていた恵花も、


「麻矢ちゃんの心の中で整理がつかないのは当然のことだと思う。けど、氷樹にはやっぱり……麻矢ちゃんが必要なんだ」

「……」


 麻矢はしばしの間黙っていたが「そう……ですね」と言っただけで、その表情にはまだ影が残っていた。

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