第三話 決定的に足りないもの

 翌朝、氷樹が目を覚ますとすでに恵花は朝食の準備をしていた。


「おはよう、氷樹」

「おはよう」


 テーブルの席に着き、朝食をとり始めた。


「……今日、部活出てみないか?」

「……」

「少し、だけでも」

「……わかった」


 恵花がここまでしてくれているのだ。氷樹はそれに応えることにした。

 昨日、彼女の辛い過去を初めて知った。

 自分よりもずっと前に最愛の妹を亡くしていたのだ。さぞかし可愛がっていたであろう妹を亡くし、両親には辛く当たられ、それでも彼女は今こうして明るく周りを楽しくしてくれている。氷樹は彼女が天使のような存在にも思えた。

 朝食を終えて二人は恵花のマンションを出て学校に向かった。すると途中、後ろから紫の声がした。


「氷樹くん。カーチャも」


 二人が振り向くと紫がやってきた。


「Guten Morgen, 紫」

「おはよう。今日はかえでちゃんたちと一緒じゃないの?」

「ああ、ちょっとな」


 恵花は言葉を濁した。紫はまさか氷樹が恵花の家に泊まったとは思っていなかったが、恵花が一緒に登校するのは珍しいことではなかったのでそれほど気にはしなかった。



 ◇ ◇ ◇



 その日は恵花との約束通り、氷樹は部活に出ることにした。


「氷樹くん、今日は出られるのね」


 紫は嬉しそうに言った。

 約一ヶ月ぶりの部活――氷樹が休んでいる間に部員はまた少し増えていた。恵花たちなど同じ学年以外の部員たちは、本当に久しぶりに氷樹と会った。

 まず最初に、顧問が氷樹に声をかけた。


「桐原、妹さんのことは本当に……お気の毒だった。そしてお前がまた部に戻ってきてくれて嬉しい」

「……はい」


 その後には部長を始め、後輩も含めて次々と氷樹に声をかけた。


「久しぶりです、先輩。俺、先月の試合、準決勝までいけましたよ」


 後輩の圭太が言った。みんなもあえて麻世の件には触れずになるべく普段通りのことを話していた。


(……)


 しかし、ここには麻矢の姿がない。


「氷樹くん、やりませんか?」


 翠妃が氷樹に声をかけた。二人はプレーをすることにした。

 氷樹は久しぶりに台の前に立ち、キューを構える。そしてブレイクショットを放つ。それは学校に来なくなる前と謙遜のないショットだった。

 身体は覚えていた。まさに上級者同士の打ち合いで、気付けば新入生たちが見ていた。


「すごいですね!」


 新しく入った高等部一年の女子マネージャーが声を上げた。


「桐原先輩も天女目先輩も思わず見入っちゃうくらいすごいです」

「そ、それは恐縮です……」


 翠妃が恐縮しながら言った。


(……)


 氷樹はその様子を見ながらこれが学校生活なのだと思った。友達や部員仲間と楽しい時間を過ごす――当たり前で遠ざかっていた光景。

 しかし、決定的に何かが足りない。自分の心から欠落してしまった物が埋まらない――



 ◇ ◇ ◇



 帰りはかえでや祐輔たちと一緒だった。ただ、氷樹は相変わらず会話には加わらなかった。


「……」


 氷樹は恵花のことを思った。


(お前はどうして今、こんなにも前向きに生きられる?)


 妹を失い、両親からされた仕打ちで家出、別居――自分よりも大変な境遇の恵花は明るく、周りに元気を与えてくれている存在なのだ。


(俺は――カーチャのようにはなれない)


 そして、麻矢の存在――彼女のことも傷付けてしまったことが、未だに氷樹に暗い影を落としていた。

 全てを、何もかも、自分が原因で周りを不幸にしてしまった。俺はやっぱり誰とも関わらずにいるべきなんだ――

 生きることに対して辛いとは感じない。しかし、生きることの意味が見出せないのだ。


(麻世、俺は……お前のそばにいたい――)

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