第二話 失った大切な妹

 ああ――全てが虚しい。

 氷樹は紫と別れた後、歩きながら心の中で呟いた。これだけ周りが心配してくれ、好意を寄せている者もいる。自分はこんなつまらない人間なのに。


(麻世……お前がいないだけでこんなにも人生は虚しくなっている。なあ、俺はどうしたらいい?)


 氷樹はまたも天に――麻世に問いかけた。

 かけがえのない妹を失った。恋人だった麻矢を傷付けた。自分は周りを不幸にするだけの人間だ――何故、俺は未だに生きている?


(そう、俺は中二の時あのころにもう生きる意味をなくしていたんだ。けど、麻世という新たな人生の生きがいを見つけた。それなのに、どうしてお前はいなくなってしまったんだ?)


 すると、急に視界と周りの喧噪が蘇った。


「氷樹――」


 自分のことを何度も呼びかけていたようだ。振り向くと、金髪の女の子――恵花がいた。


「氷樹、大丈夫か?」


 恵花は心配そうに氷樹を見た。


「カーチャ……やっぱり俺は……」

「氷樹、ちょっとウチに寄っていきなよ」

「……」


 氷樹は何も答えないまま恵花に連れられて彼女の家に向かった。



 ◇ ◇ ◇



 気が付けば氷樹は恵花の家のリビングにいた。彼女が紅茶を淹れてくれたが、氷樹はなかなか手を付けなかった。

 恵花はいたたまれなくなって氷樹の隣に座り、彼の手の上に自分の手を重ねた。


「……大丈夫。氷樹、大丈夫だ」


 恵花は安心させるように言った。


「……そうだな。ちょっと待ってて」


 そう言うと恵花は自分の部屋からアルバムを取り出してきた。


「全部プリントしてあるんだ。ほら――」


 アルバムには去年、みんなで桜ヶ丘公園に行った時の写真があり、そこには麻世も写っていた。


「麻世ちゃんの奇跡的な可愛さで、私はすぐに麻世ちゃんの虜になった。本当に素敵な妹だよな」

「……」


 氷樹はじっとアルバムの写真を見つめた。


「こっちは私の誕生日を祝ってくれた時。麻世ちゃんのおかげで一生の思い出になった」

「……」

「氷樹、いつも麻世ちゃんは言ってた。氷樹が最高のお兄ちゃんだって」

「何も……してやれなかったのに……」

「違うよ氷樹、麻世ちゃんは充分に氷樹の愛を受け取っていたんだ。そうじゃなきゃ、こんな素敵な笑顔ではいられない」


 恵花は愛おしそうに麻世の写真を眺めていた。



 ◇ ◇ ◇



 麻世との思い出話などで、気が付けばもう夕方になっていた。


「……氷樹、今日は夕食食べていかないか? いや――なんなら泊まっていったっていい。もっと氷樹と麻世ちゃんのことについて話したいしな」

「……ああ」


 氷樹が承諾したので恵花は嬉しく思った。氷樹の心を少しでも動かせるのなら――

 二人は駅の近くのスーパーに買い物に行った。


「こうしてると、みんなが泊まりに来てくれた時のことを思い出すな」

「……」

「夕食は何がいいか?」

「何でも構わない」

「……そうか。なら久々に天ぷら料理でもやるか」


 恵花は意気込んで言った。

 家に戻ると恵花は手際よく準備に取りかかった。氷樹はソファでさっきのアルバムなどを見ていた。


「……」


 恵花の誕生日会の時の麻世。この時はまだ彼女の本当の気持ちを知らなかった。そして、自分と麻矢の想いが通じ合っている時でもあった。


(……)


 たとえ時間を戻すことができたのなら――麻矢を選ぶことはできなくなるだろう。けど、麻世の命には代えられない。麻世さえ生きてくれるのなら、そばにいてくれるのなら――


「氷樹、できたぞ」


 エプロンにポニーテール姿の恵花がいた。テーブルの上には天ぷら料理が並んでいる。


「さあ、食べよう」

「……」


 しかし氷樹はまだ手を付けなかった。


「氷樹?」

「……宝条にも伝えたんだ。カーチャ、本当に……お前は色々してくれた。けど、もう、俺とは関わらない方がいい」

「え?」

「カーチャ、俺は人から与えられるような立場じゃない。俺は何もできない。けど、お前はここまでしてくれている。俺にその価値はない」

「氷樹……」

「何故、俺という人間にみんながついてくれているのかわからない。俺なんかに構わない方がずっと楽なのに」

「違う、氷樹。みんな氷樹のことが好きだからだ」

「……」

「氷樹に魅力がないのなら、麻世ちゃんだって氷樹のことを慕わなかったはずだ。氷樹は優しい。自分では意識していないのかもしれないが、みんなそれを感じているんだ」

「……」

「さあ、せっかく揚げたてなんだ。まずは食べよう」


 そう言うと、氷樹はようやく恵花の料理を口にした。



 ◇ ◇ ◇



 夕食を終えると恵花は氷樹に風呂に入るように言った。


「タオルや着替えはもう置いてあるから」

「……ありがとう」


 どうして彼女はここまでしてくれるのだろう――ああ、そうか。自分が麻世の兄だから――服を脱いで風呂場に入った。


(本当にこの世界は何かを間違えたんだ。俺が麻世の兄ではなく、カーチャが麻世の姉であるべきだったんだ。そうすれば、さぞかし麻世のことを小さいころからとても可愛がっていただろう。何故俺は……麻世の兄なんだ? 麻世にとってカーチャが姉だった方がずっと幸せで、そしてそうだったのならばきっと今でも笑顔で――)


 氷樹が風呂からあがると、恵花は「さっぱりしたか?」と言って冷たい飲み物を出してくれた。


「……」


 ほんの数ヶ月前、ここで麻世も一緒に恵花の誕生日を祝った。とても楽しかった。みんなが笑顔で、恵花も幸せだった。

 恵花の広い家を見回す。彼女は高校生でここで一人暮らしをしている。彼女が両親を拒否し、オーストリアに住む祖父が彼女のために購入したタワーマンション。

 普段はとても明るいが、独りで家にいると寂しさを感じていると言っていた。それでも彼女はあたかも太陽のように明るい笑顔で周りの人を照らしてくれる。何を彼女がそこまで明るくしてくれるのだろう――

 気が付けば恵花が風呂からあがってきていた。そして何かを手にしている。


「氷樹にも……話しておこうと思って」


 アルバムのような物だった。恵花はアルバムを開くと、氷樹に見せた。以前、氷樹が見たことのある、彼女が中学に入学した時の写真だった。


「……」

「この写真は見せたことがあったな。けど見てほしいのは次のページだ」


 恵花がページをめくった。そこには小学生と思われる恵花とその隣に幼い女の子が写っていた。


「私が小学生のころの写真だ」

「……隣にいるのは」

「私の、妹だ」

「妹――?」


 氷樹は恵花を見た。


「牧田花蓮かれん――『花』に『蓮』で花蓮。向こう――エスターライヒではティファニアという名前で私の三つ年下だった」

「妹が……いるのか?」

「この年にティファは事故で亡くなった」

「――っ」

「私はティファがいなくなってしまって泣いて泣いて、それでも泣き足りなくて――毎日泣いていた。そして、それから両親が変わってしまった。ティファの死を乗り越えようと全てを私にぶつけてきた」


 恵花はそのころを思い出すように話し始めた。


「色んな期待やプレッシャーを与えられた。それは、まるで、あたかもペットやロボットかのようにひたすら私のことを『物』として見ているかのように――とにかく、両親はまるで変わってしまった。そして私が中三のとき、ついに耐えられなくなって、家出したのが始まりだ」

「……」


 氷樹は驚いていた。まさか恵花に妹がいた――それも、自分と同じ三つ年下の妹で、小学生の頃に亡くしていたのだ。


「……私は麻世ちゃんを初めて見たとき、本当に衝撃が走るくらいに麻世ちゃんのことが気に入った。ティファの代わりとして映っていたわけではない。けど、『妹』という存在がとても羨ましかった。だから……麻世ちゃんがどんな状況になったとしても、私は――絶対に麻世ちゃんの味方でいようと心に決めていた。もう、二度と私にとって大切な人を失いたくなかった……」


 恵花は少し俯いて言った。


「麻世ちゃんは私のことをとても慕ってくれた。いつも笑顔で……誕生日会まで開いてくれた。本当に、本当に嬉しかった」


 恵花の瞳から涙が流れ落ちていた。


「ここまで私のことを好きでいてくれているなんて――私はそこでティファと重ねてみるようになった。もしティファが生きていたら――って」

「……そうか。お前の妹も麻世と同じ年齢……だったのか」

「氷樹、お前の気持ちは私にもわかる。妹を――最愛の人を失った時の辛さは……筆舌にし難い辛さだ。まるで、どん底に突き落とされたかのような――けど、氷樹。私はお前のことが心配だ。私だけじゃない。みんな氷樹のことを大切な友達だって思っている。だから……どうか早まったことだけは考えないでくれ」


 恵花は氷樹の手を握って訴えた。


「……」


 氷樹の瞳には涙を流している恵花が映っていた。そうなのか――お前も俺と同じだったのか――

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