二日目
翌朝。
霧を風で払うように眠気が覚めていく。見ていたはずの夢が薄れ、自然と瞼が持ち上がるのだ。
聞くところによれば、体内時計というものが人間にはあるらしい。それは太陽の光によって適切に調整される。ひょっとするとコッパさんにも体内時計があったのかもしれない。
とろんとした意識で身体を起こすと、湊がいないことに気づく。どこへ行ったのだろう。
家の探検がてら、湊を探すことにした。
二階は湊の部屋の他に、もう一つ部屋があった。すり抜けてみると、段ボールが部屋の端にいくつか積まれただけの殺風景な空間が待ち受けている。差し込む日差しのみを来客としてぽっかりと空いた場所はまるで、本来の居住人を失ったようである。あれは、誰の部屋なのだろうか。
一階に下りリビングの手前にある部屋におじゃまする。右側が父親、左側が母親の自室であるようだ。父親の寝相は悪く、いびきも煩かったのでとっとと出ていった。次に母親の部屋。すやすやと眠る母親は見ていて落ち着く。湊の穏やかな性格はやはり彼女に似たのだろうなと思う。そんな彼女を眺めていた私だったが、ふとベッドの横に据えられた棚の上にある写真立てが目に入った。
幼いころの湊の写真だ。4、5歳ぐらいだろうか。両親の前に立ち明るくピースサインをする少年は、私の知っている湊よりも幾分か快活な気がした。
彼がいたのは、リビングの先にある和室であった。
仏壇の前でしゃがみ込む一人の青年。先ほど見た写真とは打って変わって、神妙な顔つきで目を瞑り、手を合わせる湊の姿。蝋燭一つ火を灯していないため、辺りは薄暗い。飾られた写真立てには、写真が挟み込んでいない。
暫く茫然と彼を眺めていたが、やがて恐る恐る声をかける。
「湊……?」
振り向いた彼は、やはり穏やかだった。
「あ、おはよう」
「何してるの?」
私の問いに、彼は困ったように笑う。
「うーん……お祈り、かな」
「お祈り?」
首を傾げていると、湊は私の頭を優しく撫でた。
「僕にはね、妹ができるはずだったんだ」
「妹?」
彼の顔には、影が差している。
「でも、生まれてくることはなかった」
湊の声は沈んでいた。
「だから、君みたいな子のお願いは断れないんだよね」
真っ直ぐで穏やかで……それでいてどこか寂しそうな笑顔が、私の瞳にこびりついた。
時間とともに部屋がだんだんと明るくなる。湊がカーテンを開けると、眩いほどの光が部屋に侵略した。
「ねえコッパさん、家族って何か分かる?」
「うーん……一緒の家で過ごす人?」
私は思ったままのことを口にする。
「じゃあ、遠く離れたあの子は、家族じゃないのかな?」
「分かんないよ」
私の頭の中で、糸が絡まっていた。そんな私に、彼は優しい声で語る。
「僕は思うんだ。遠く離れていたって、家族なんだって」
それから三十分ぐらいであろうか。母親が起き、朝食の支度を始めた。湊も手伝うようだ。パジャマの袖を捲りながらキッチンへと向かった。私は食ダイニングの椅子から、両肘を顎に付けて二人の様子を眺めていた。
「ねえお母さん。今日の晩御飯も、唐揚げがいいな」
「珍しいわね、湊が料理の注文するなんて」
「たまにはね」
ウインナーを炒める音が部屋を賑わせ、パンを入れたオーブンがチンっと軽やかな音を立てる。先ほどまでの静かさとは打って変わり、活気を感じさせた。
どうやら匂いもしていたらしい。
「良い匂い~」
湊が深く息を吸い、そう言っていたから。
そんな匂いにつられてか、ジェラも目を覚ます。 私に気づくと、小型犬には似つかわしくない低い声で呻く。牙を剥き出し、今にも噛みついてきそうであった。私はよそ者に過ぎないから仕方がなかったのだけれど。
午後から仕事に出かける父親を二人が見送った後、着替えを済ませた湊は私を部屋に連れた。
「買い物に行くんだけどさ、一緒に来る?」
と、彼はショルダーバッグを背負いながら尋ねる。
私が首肯すると、彼は目を細め口角を上げた。
最寄りのスーパーマーケットは、家から自転車で10分ほど走ったところにある。湊は黒を基調とした自転車をガレージから引っ張ってくる。
「さ、乗って」
と、湊はサドルの後ろにあるキャリアを指さした。二人乗りは法律で禁止されているのだが、当時の私は怪異だ。法律の及ぶところではない。第一、普通の人には私のことが認識できないのだ。
私が座ったのを確認した彼は、ペダルに足を乗せる。
「行くよ」
そう言ってペダルを下向きに漕ぐと、自転車は風を切って前に進んだ。
「気持ちいい~」
湊は楽しそうだった。
夏場とはいえ、吹き付ける風は心地よいようだ。しかし私には、その涼しさが分からなかった。
それでも幸せそうな湊の声を聞いていると、自然と顔が綻んでいた。
「コッパさんも気持ちいい?」
私は、彼を裏切りたくなかったのかもしれない。悲しませたくなかったのかもしれない。だから私は笑顔を作る。
「うん、気持ちいいよ」
店内では、湊の後ろに続く。
「次は鶏肉だね」
「湊、それ豚肉」
「あれ? ……ほんとだ。ぼうっとしてたよ」
湊は笑いながら、今度は間違いなく鶏肉をカゴに入れた。
休日ということもあって客が多く湊を見失わないようにするのも一苦労だった。赤髪はそうそういないため、判別自体は楽だったのだが、人の波に呑まれそうになる。というか人込み慣れしていなかったため、少し気分が悪かった。怪異だから人をすり抜けることはできたが、今度は自分を見失いそうになるから嫌だった。
「大丈夫?」
心配そうに湊が問いかけたので、忌憚のない意見をぶつける。
「……全然。気持ち悪いしはぐれそうなんだけど」
「じゃあ手握ってて」
湊が手を差し出した。おずおずと触れると、湊が優しく握ってくれる。
身体が軽くなったような気がした。感じることはできないけれど、きっと温かかったのだろうなと夢想する。
その後湊に連れられ、近くのアジサイ通りに赴いていた。公園の脇にある通路には、桃色、紫色、水色の花々が色とりどりに咲いている。
湊が教えてくれたのだが、アジサイは土の気質によってガクの色が変わる。酸性ならば青色、アルカリ性なら赤色……とういったふうに。
ふと、彼が言った。色あせるアジサイを名残惜しそうに見つめていた青年が顔を上げる。
「あげるよ、身体」
あまりにもあっさりとしていたから、私は最初理解が追い付かなかった。
「……えっ?」
声が裏返る。
「身体、欲しいんでしょ? あげるよ」
笑みを浮かべる青年が、私には不気味に映った。
「……どうして」
私は一歩後ずさる。
「どうしてそんなに協力的なの?」
眉を顰めて、私は問う。
「女の子だったんだって、あの子」
思いに耽け、彼は口を開く。
「……あの子を失ってから、年下の女の子の頼みを断れなくなってね。君の願いも、叶えてあげたいと思ったんだよ……あの子が生きてたら、ちょうど君ぐらいだったろうし」
寂しそうに、彼は優しく頭を撫でた。触覚なんてないのに、身体がくすぐったい。心なしか、彼の手に力が籠っているような……そんな気がした。
両親の寝静まった深夜。
足を忍ばせ廊下を歩き、玄関に差し掛かった湊は、そっと玄関の扉を開ける。
「いってきます」
小さく呟き、彼は扉に力をこめる。扉を抜けた私は、湊の隣に立つ。
「じゃあ、いこっか」
「うん」
優しい声色。知らず知らずのうちに、手が彼の指へと伸びていく。再三述べたことであるが、彼の手の感触は、私には終ぞ分からなかった。触っていると言うのは分かるのに、それが温かいか冷たいか、柔らかいか固いかは認識できない。それがコッパさんという怪異であったから。それでも求めたのは……手を繋ごうとしたのはどうしてだろうか。
「唐揚げ、美味しかった?」
「うん」
その声色は寂しそうだった。
やがて丘のふもとに差し掛かり、私たちはゆっくり登っていった。
虫のさえずりが、森の中をこだまする。それ以外の音は消え失せ、宇宙に投げ出されたかのような浮遊感を与えた。星は疎らに輝いているが、星座として結ぶことはできない。
月は無く、灰色の雲が紺色の海を泳いでいた。
坂道は急ではなくむしろなだらかなのだが、湊は疲れたのか呼吸が乱れている。
人間とは、歩いていると体温が上がってくるのだ。湊は噴き出る汗をぬぐいながら、足を一歩、また一歩と踏み出した。私もそれに合わせて歩く。
湊は達観していた。まるで全てを受け入れるかのように。疲れて息が切れているが、心の奥には余裕がある……そんな気がした。
「湊は怖くないの?」
だから不意に、口をついて言葉が溢れる。
「だって死んじゃうんだよ? 怖くない?」
純粋な疑問が暗闇に溶けていく。
「……怖いよ」
彼の唇は渇いていた。振り絞るように、彼は吐く。
「だけど、君を助けたいって思ったから」
青年は微笑んだ。
「だからきっと、大丈夫」
繋いだ手に力がこもる。
「コッパさんは、人間になったら何がしたい?」
今度は湊が尋ねる。
「ご飯食べたいな、お母さんとお父さんと。一緒に料理もしたいし、それにお出かけも行きたい」
「そっか」
湊は笑いかけた。
「きっと叶うよ。お父さんもお母さんも優しいから」
「やったぁ! あとはね、毎日ベッドで寝て、それから……」
嬉しそうに願いを語る私に、一つ一つ湊は頷く。
丘のてっぺんが見えてきた。
「全部叶うよ……叶えてあげる」
頂上にたどり着く。そこから見えるのは、地上にできた星空であった。
ビルや家々の明かりは、点々としていながらもそれぞれが眩い。黄色や橙の光は、全て人間の営みによってできたぬくもりである。私は湊の手を離し、目を輝かせながら地上の星を眺望した。
暫くすると、湊がベンチに腰掛ける。街並みを一望できる場所に備えられた、観光客用のスペースである。私も倣って、彼の隣に座った。
「……それで、どうすればいいの?」
「キスをするんだよ。口づけによる契約」
星がか細く輝いて、私たちを見下ろしている。向こうにあるビルの方が、煌びやかに明かりを咲かせていた。
湊が手を差し出す。
「じゃあ……」
「うん」
私は、彼に導かれるように指を絡めた。
最後に彼は囁いた。今までで一番優しい声で。
「家族……大事にしてね」
口を窄めて、目を閉じて。
口元を覆ったのも束の間、私の意識はゆっくりと闇の中に落ちていった。
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