一日目

 私は“コッパさん”だった。

 一年しかない寿命の間に、自分を認識できる人間の身体を奪うことで生きながらえる怪異だ。

 その噂は人間たちの間でもある程度浸透していた。ベージュ色の衣装に身を包んだ少年少女。湊だって聞いたことはあるはずだ。しかし、よもや実在するなんて思いもよらなかっただろう。

 彼はをぽかんと開けている。


「コッパ……さん……?」

「うん」

「本当にいるんだ……」


 まじまじと私を見つめる湊。しかし疑ってはいないようだ。むしろすんなり受け入れてくれた。


「分かった。よろしくね、コッパさん。僕は湊」

「湊ね、よろしく」


 一通り自己紹介を終えたので、私はさっそく話を切り出す。


「じゃあさ。さっそくだけど、貴方のお家に行きたいな」

「え?」


 湊は少し首を傾げる。


「貴方のお母さんとお父さんを見てみたいの」

「いいよ」


 きょとんとしていた彼だったが、あっさりと了承する。柔らかな笑みを浮かべる彼に、私は意表を突かれた。


 




 湊の家に着いた頃には、紺青色が空の上部を染めている。それは地平線に跨る茜色と、淡いグラデーションになっていた。

 彼が玄関を開けると、真っ先に駆け寄ってきたのは子犬だった。高く甘えた声をあげながら湊に突進する。チワワという犬種らしい。茶色い体毛は手入れが行き届いている。黒い眼は大きく、電灯を反射して煌めいた。子犬は尻尾を忙しく左右に振り、無防備にも舌を出している。


「あはは。ただいま、ジェラ」


 湊は破顔し子犬——ジェラを抱き上げる。

 湊の顔を擦り甘えていたジェラだったが、すぐ横の来客の気配に気づいたのだろうか。突如、牙を向きだして吠える。私を鋭く睨む様は、野生の本能を思い出したようで……私を激しく拒絶していた。


「おかえりなさい。あらジェラ、どうしたの」

「ただいま、お母さん」


 続いて、母親の出迎えがあった。薄い赤色の髪をショートカットにした女性。紺色のエプロンを付けっぱなしにしており、いかにも主婦と言った風貌だった。高校生の子をもつわりには若く見える。

 優しく微笑みながら、母は喚くジェラを引き取った。 湊の笑顔は母親似なのだ。

 彼女の視線は、やはり私を捉えていなかった。


「今日はお父さん、早帰りなんだって。だからご飯もそれに合わせようと思うの」

「何時ごろ?」

「七時ごろかしらね」


 ジェラはしきりに吠えている。母が宥めるのにも関わらず、私を見て唸り声まであげていた。牙もむき出しである。

 湊は私を連れ、二階への階段を上った。


 彼の部屋の様相は、左側にベッドと、右側に机と押し入れが並ぶンプルなものであった。ドアの直線上には窓があり、褪せた緑色のカーテンが閉められている。


「おおっ……これがベッド!」


 私は興奮を抑えきれず、ベッドに飛び込んだ。しかしゴロゴロと寝返りをうっても、感触がない。


「ベッドって柔らかいの?」

「うん、ふかふかだよ……コッパさんって、ひょっとして触覚が無いの?」

「そうなんだよね」


ベッドをポンポンと叩くが、ふかふかしているという感覚は分からなかった。


「コッパさんは普段どこで寝ているの?」


 うつ伏せになり、顔だけ湊の方向を見て私は答えた。


「適当だよ、木に身を寄せたり、道端でごろんとしたり」


 床に敷いた円状のカーペットに、湊は腰かける。


「そういや、コッパさんってご飯食べられるの?」

「ううん」


 足をブラブラ動かしながら、私は続ける。


「でも食べてみたいなぁ、お母さんの料理」

「美味しいよ」


 そんな話をしているうちに、私はうとうとと船を漕いでいた。欠伸が漏れ出て、視界が揺らいでいく。怪異だというのに、眠気だけはしっかりとあるのだ。重たくなる瞼に抗えず、そのまま瞳を閉じた。


 次に目を覚ました私の目に入ったのは、円く真っ白な人口の明かり。


「あ、私……寝て……」


 目をこすり、ベッドから起きる。


「湊……?」


 部屋には私しかいない。しんと静まり返った空間に、私は取り残されていた。下から、賑やかな声がする。


「今日唐揚げ?」

「そうよ。湊好きでしょ?」

「うん、ありがとう」


 楽しそうな、湊の声。


 ひょいと立ち上がり、扉を抜ける。階段を下り、声のする部屋へと足を踏み入れた。

 ジェラは眠っていた。もうエサを平らげて、すやすやと寝息を立てている。吠えられる心配はない。

 リビングと地続きになっている食堂。そこに立つ長方形のテーブルには三人分の茶碗と平らな皿が並んでいる。湊と母親、そして先ほど帰ってきた父親がそれに対応するように座り、団らんの時を過ごす。


「それでな、その時上司が……」


 話をリードするのは父親だった。こげ茶色の髪を短く切った、大柄の男性が豪快に笑う。

 それを、湊と母親が笑いながら相槌を打っている。


「で、仕事を引き受けた礼に、三人分の温泉チケットもらったんだ。今度の日曜にでも行かないか?」

「いいわね。予定空けておきましょう」

「僕は大丈夫だよ」


 三人の語らいを、私ははたから見つめていた。湊は気づいていない。両親は……そもそも見えていない。

 その賑やかな様に、キュッと胸が締め付けられるのだ。指先に力が入る。息が苦しい。見えない手に首を絞められているようだった。


 私は、あの中に入れない。

 ただその事実だけが、目頭を熱くさせる。


 ——だって私は、彼らの家族じゃないから。


 彼らから離れたところで、私はぽつんと佇んでいた。

 しかし、ふと和室に視線が注がれる。開いた襖を境にして、ダイニングと隣接する空間だ。そこに置かれた仏壇と目が合った気がした。

 磁力で引き寄せられるように近づいていった。そこには、林檎や葡萄といった果物が置かれており、その奥には二本の蠟燭が立っている。火は点いていない。そして中央に飾られた真っ黒な額縁の中には、何も入っていなかった。そんな空白のフレームに、私は後ろ髪を引かれる思いだった。




和室から出た私は、彼の部屋の窓から外を眺めていた。紺色の夜空に、か細く光る白い星々がまぶされている。

 月が見える。あと一日で満月だ。

 ……あと一日。


「……コッパさん?」


 湊の声が投げかけられる。

 振り向くと、パシャマに着替えた湊が扉の前で立っていた。首からタオルを掛けている。どうやら風呂上がりらしい。


「何見てたの?」

「月、かな」


 湊が私の隣に並び、窓に手を置く。

 月の表面は少し滲んでいて、はっきりとした輪郭を築いていない。


「…‥ねえ、湊」


 無垢な瞳がこちらを向いた。


「家族って楽しいの?」

「楽しいよ。どうしたの? 急に」

「気になって」


 先ほど見た団らんの風景が思い起こされる。


「……いいなぁ」


 満月になり切れない未完成な月を眺めながら、深い息と一緒に彼女 は呟いた。


「ねえ湊。貴方の身体、ちょうだい?」


 桃色の髪が垂れる。


「貴方の身体で、家族がほしい。明日……満月の夜に契約して、私は人間になりたいの」


 私の声には、力が籠っていた。

 命の終わりはすぐ傍まで迫っており、この期を逃せば自らの消滅を待つのみ。たった一年の寿命の大部分をすでに浪費していた私にとって、契約の有無はまさに命がけの問題であった。


「契約したら、君は僕になれるんだよね。じゃあ、僕はどうなるの?」

「この世界から消えちゃう」


 この答えに湊は表情を強張らせたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべなおした。


「じゃあ明日まで、待っててくれる? 考えたいから」


 彼の口から出てくる意外な言葉。身体を奪うと言うことはそのまま、命を奪うことと同義なのだから。だからきっぱりと断らない彼には、意表を突かれた。

 表情にも出ていたのだろう。


「なんでそんなに驚いてるの?」


 彼は笑っていた。


「嫌がると思ってたから」


 遠慮がちに私が言うと、湊はどこか遠くを見ながら呟いた。


「うん……まあね」


 静寂が辺りを包む。 しかしそれは、決して心地よいものではなかった。湊は思い耽っている 、そう感じられた。だからこそ、私は声を掛けられずにいた。音一つ出してはいけない。そんな圧が辺りを占有し、静かに緩やかに、私を押しつぶさんとしているようだった。


「ねえ、今日は寝るところある?」

「え? あ、ないけど……」


 虚をつかれ肩をびくつかせる私に、湊は優しく言う。


「じゃあ、僕のベッドで寝ればいいよ」

「え。い、いいの?」

「うん、予備の布団はあるし」


 湊は押し入れの戸を開け、慣れた手つきで布団を持ち上げた。


「ちょっと前までは布団だったからね」


 敷布団、掛布団を順に敷いて、仕上げに枕を頭の位置に置く。


「じゃあ、僕はもう寝るから。おやすみ」

「うん……おやすみ」


 前日の夜は、あっけなく終わろうとしていた。私の要望を聞いてくれる人間の存在が、すぐ隣にいる。寝返りだろうか、布団の擦れる音が聞こえる。広々としたベッドは、どうしてか落ち着かない。さっきはぐっすり眠れたのに。だから私は、ベッドから出て……


「うわっ……! どうしたの……?」


 彼の布団に潜りこんだ。


「良いじゃない、別に」


 私は、自分がどうしてこんなことをしたのかよく分からなかった。でもきっと、寂しかったからなのだろう。恋しいとも呼ぶ。

 “コッパさん”は熱を感じることがない。だから、布団の中のぬくもりを享受することはできなかった。しかし、確かにこの時 、胸がほわほわと温かかった気がする。触られてもいないのにくすぐったくて……。目を瞑ればすぐに夢の中へとおちることができそうなのに、眠りたくない。ずっと起きているのも悪くないなと相反する感情の波に心が攫われた。


 ——だけど…… その感覚は、もうじき無くなる。


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