嵐の前
「ふふーん。さぁお前たち、これが明日の予定表だぞ!」
夕食時、紅月家のリビングにて。紅月輝夜は、テーブルの上に体育祭の予定表を広げていた。
もちろん、弟の朱雨と、影沢舞に見せるためである。
影沢は、律儀に輝夜のテンションに付き合うも。
朱雨は、スマホに意識を向けているようだった。
「全然、余裕で見に来ていいからな。わたしが出るのは、この”仲良し男女二人三脚”だ」
「凄い競技名ですね」
「馬鹿だから、あんまり気にしてないんだろ」
そこはかとなく、朱雨が毒を吐くも。姉たる輝夜は、微塵も怒りを見せない。
ただ、顔をひきつらせるだけ。
「朱雨。お前は前に言ったよな? わたしみたいなクソ女は、魔力無しじゃ何も出来ないって」
「朱雨さん? そんなこと言ったんですか?」
「……いや。絶対、語弊があるだろ」
魔力どうこうは言ったかも知れないが、そこまで酷い言葉は使っていないはず。
とはいえ、受け手側の輝夜は、そのレベルの認識をしていた。
朱雨はきっと、体育祭で無様を晒す自分を見たいはず。
故に輝夜は、花輪善人を引きずり込んで、過酷な二人三脚トレーニングと、週末の遠征を乗り越えた。全ては、姉としての威厳を保つために。
双子の姉弟。しかもこっちは、前世の記憶すら持っている。しかし、身体能力はアリとゾウ、頭脳に関しても、コアラとチンパンジーほどの差が存在している。
体育祭で、ろくな結果を残せず。無駄にデカい胸を揺らすだけで終わったら、姉弟としてのパワーバランスも終わってしまうだろう。
だからこそ、絶対に勝たなくてはならない。そのために、バレないほどの緻密な魔力制御を身に付け、善人とのコンビネーションを磨いてきた。
「覚えておけ、我が弟よ。明日この時間、笑っているのはわたしの方だ」
「……」
我が姉ながら、どうしてこうも残念なのか。朱雨は呆れて、言葉も出なかった。
輝夜と朱雨が、そんなそんなやり取りをしていると。
予定表を見ていた舞が、唐突に疑問を投げかける。
「輝夜さん。出る競技は、二人三脚だけですか? 普通こういうのは、何種目か出るものかと」
「……んん?」
その問いに、輝夜は一瞬、思考停止し。
数秒後、顔が青ざめる。
「ちょ、ちょっと待ってろ」
輝夜は慌てた様子で、スマートフォンを操作し。
無数の連絡先の中から、”ナナちゃん先生”という人物へメッセージを送った。
『先生、ちょっと確認なんですけど。わたしの出る競技って、二人三脚の他にありましたか?』
するとしばらくして、メッセージが帰ってくる。
『忘れちゃったの? 紅月さん、大事な”騎馬戦”があるよ!』
メッセージを見た瞬間、輝夜の脳裏に、微かな記憶が蘇る。
それは、いつかのホームルームの時間。
――騎馬役、やります! ぜひ、紅月さんのおみ足を支えさせてください!
――わたしも!
――わたし、力持ちだから!
あった。
確かに、そんなやり取りがあった。
二人三脚に”全て”をかけていたが故に、輝夜は無意識にそれをスルーしていた。
「……きばせん」
唐突に現れた脅威に、輝夜は立ち尽くす。二人三脚のようなお遊びとは違う、かなり重要な競技への参加を忘れていた。
まさか、わたしは馬鹿なのか? そんな考えが、脳裏をよぎるも。
輝夜は、それを振り払う。
「だ、大丈夫だ。騎馬戦って、あれだろう? 騎馬に乗って、帽子とかを取り合うやつ」
「そうだな」
どうでも良さそうに、朱雨が相槌を打つ。
「なら、問題ない。所詮、学校の連中なんて”素人”だからな。こっちはマジの殺し合いの経験もあるから、余裕だろう」
純粋な身体能力ではなく、センスやテクニックが必要なのが騎馬戦である。
そしてそれは、輝夜の得意分野でもある。
「あー、危ない危ない。もしも他の競技だったら、怖くて寝れないところだったが。……騎馬戦なら、まぁ」
ほっと一安心。輝夜は今日も、健やかに眠れるだろう。
輝夜は完全に、騎馬戦を”格闘技”と捉えていた。
そんな、紅月家の日常。
何事も問題はなく、ただ明日の体育祭に備えればいい。
影沢は、いつも以上にお弁当に気合を入れて。
朱雨も、なんだかんだ言いながら、しっかりと見に行くつもり。
すると、
「……」
スマートフォンを見ていた朱雨が、少し驚いた表情をして。
「ちょっと、ケルベロスの散歩に行ってくる」
「あんまり、人に見られるなよ」
姉の言葉にも、大して耳を傾けず。
妙に真剣な表情で、リビングを後にした。
◆◇
「まったく、呆れたわ。姫乃の終焉が近いというのに、体育祭に夢中だなんて」
「ニャハハ。平和なのは良いことにゃん」
そこは、灼熱地獄。
地上より星の核に近いからこそ、とてつもない熱に満ちた場所。
本来ならば、人類はおろか、どんな生命体も生きられない場所だが。
とある人間の少女、カグヤと。
悪魔、ニャルラトホテプは。
特殊なシェルターの中に閉じこもり、かろうじて活動を可能にしていた。
そんな2人が眺めているのは、壊れかけのテレビのようなもの。
映像は荒く、たまに電波は途切れるものの。”紅月輝夜の今”が、確かに映し出されている。
それが2人の、数少ない娯楽であった。
「空の王の誕生と、姫乃の惨劇。もしも、リタが裏で動いているなら、希望はあるのかも知れないけど」
「にゃーん。輝夜の視点からじゃ、ろくな情報が得られないにゃん」
テレビに映るのは、あくまでも紅月輝夜の近辺のみ。故に、彼女たちの知りたい情報は、輝夜が実際に体験しない限り映し出されない。
そして、輝夜はろくな活動をしていなかった。
「おかしいわね。この子、
自分と、全く同じ姿をした。全く異なる可能性を歩む彼女に、こちらのカグヤはもどかしさを感じてしまう。
なにせ、明日は神楽坂高校体育祭の日。
本来の歴史なら、姫乃が終焉を迎える日なのだから。
「やっぱり、呪いで脳が腐ってるわ」
「にゃ。めちゃくちゃ言ってるにゃん」
こちらが何を思おうと、何を言おうと、向こうの世界には届かない。
ここは、この世の地獄。映像が届くだけでも、奇跡のようなもの。
「タマにゃん、あなたは気にならないの? もう干渉できないとはいえ、あなたにも縁の深い話でしょ」
「そうにゃ〜 きっと、どうにかなるにゃん」
「本当に言ってる? もしも明日、あっちの輝夜が死んだら。わたしたちの唯一の娯楽も失われるのよ?」
「にゃ。それは、ちょっと困るにゃん」
そうは言いつつも。タマにゃんこと、ニャルラトホテプは気にしない。
ここで終わるはずがないと、確信しているかのように。
「なに? 何か、わたしに隠し事してる?」
「ニャハハ、それは内緒にゃん」
「……ほんと、ムカつく悪魔ね」
カグヤは、ため息を吐く。
偶然に偶然が重なって、奇跡と努力が結びついて。この地獄のような場所に、カグヤとタマにゃんは存在している。
”向こうの世界”から、遠く離れたこの場所で。
「大丈夫にゃん。輝夜は必ず、やり遂げるにゃん」
カグヤとタマにゃんは、”約束の時”を待つ。
◆◇ No.105 嵐の前 ◆◇
スマホを片手に、紅月朱雨は家から出てくる。画面に映し出されているのは、父親である”龍一”の名前。
珍しい呼び出しに、彼は急いで外に出てきたのだが。
家の敷地から出た、その瞬間。
まるで、世界が切り替わったような。
不思議な感覚に包まれて、朱雨は見たことのない領域へと足を踏み入れていた。
建物も何もない。
この世のものではない、まるでゲームの世界のような。
生身の人間である自分が、逆に異質なように感じてしまう。
そんな不思議な領域に、彼が戸惑っていると。
「――どうか、気を落ち着かせてください。こちら側に、敵意は一切ございません」
いつからそこに居たのか。
都会には場違いな格好をした、金髪の美女。
魔女、リタ・ロンギヌスが立っていた。
「お前が、魔女か」
リタの姿を認識して。朱雨は一瞬で、警戒態勢へと入る。
王の指輪に力を込めるも。不思議と、ケルベロスの反応は薄かった。
かつて出会った際は、真っ先に警戒心を露わにしていたというのに。
「出てこい、ケルベロス。こいつは敵なんだろう?」
朱雨の呼び声に応えて、ケルベロスが姿を現すも。
不思議と、以前ほどの敵意を向けない。
なにか、変化でもあったというのか。
とはいえ、朱雨はやる気である。輝夜の敵である、この魔女を仕留めるため。その肉体に、魔力を滾らせていき。
「――待て、朱雨」
聞き覚えのある声に、その手を止めた。
「……どういうつもりだ、親父」
朱雨を制したのは。彼ら紅月姉弟の父にして、姫乃の守護者。
紅月龍一が、この場に存在していた。
まるで、リタを守るかのような立ち位置に。
これはいったい、どういうことなのか。
朱雨が、思考を巡らせていると。
「――こういうことさ」
この場へ、もう一人の人物が。
朱雨にとっても、それは”戦うべき相手”。
ジョナサン・グレニスターが、立っていた。
魔女、リタ・ロンギヌスに。
宿敵、ジョナサン・グレニスター。
それだけなら、叩き潰す敵として認識できるのだが。
仲介に立つ父の存在が、朱雨を混乱させる。
「すまなかった、朱雨。だが、お前には伝えるべきだと思ってな」
「……よく分からんが。つまり、厄介事だな?」
表に生きる人々。輝夜たちが、明日の体育祭を控える中。
暗躍する彼らは、静かに集結し始めていた。
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