墜ちた蝶






――ここがかつて、姫乃と呼ばれた場所。わたしと彼の、平穏を象徴する街だったわ。




 リタ・ロンギヌスが、”人間”、紅月輝夜と出会ったとき。彼女の顔からは、すでに笑顔は失われていた。

 ゆえにリタは、その笑顔を見たことがない。



 紅月輝夜を、人間にしていたモノ。1人の少女として留めていた者は、メガセリオンとの戦いにより失われ。

 生きる意味、心の支えを失った輝夜は、まるで抜け殻のようだった。



 なぜ、どうして。リタは非常に大きな後悔に苛まれた。

 もっと早く、彼女と出会えていれば。もっと早く、”神が人になる可能性”を考えていれば。




 リタとカグヤ。

 2人の”再会”は、あまりにも遅すぎた。




――わたしは月に帰るつもりよ。人類の大半が死滅したおかげで、厄介な呪いも消えたから。もう一度、あの槍を握ってあげる。




 もうこれ以上、かぐや姫が地上に留まる理由はない。

 繋がっていた絆も、枷となっていた呪いも、すでに無いのだから。




――それで、あなた達もハッピーでしょ?




 すべてを諦めたような。

 そんな輝夜の表情が、リタの心に突き刺さる。




 結局。

 リタは1度も、輝夜の”笑顔”を見たことがなかった。


 月の都で、最初に出会ったときも。


 地球について、うっかり話してしまったときも。


 彼女が役割を放棄し、地上に堕とされたときも。


 かぐやとリタは、1度も対等な立場には居なかった。




 後にリタは、”竹取物語”という存在を知ることになる。

 日本では、抜群の知名度を誇る物語だが。遠い場所に暮らすリタには届かなかった。



 1000年以上経っても、その逸話が、名前が残されている。

 かぐや姫という”特別な生き物”が、当時の人々にとってよほど衝撃的だったのだろう。



 月に生まれ落ちた神。

 地球を維持し続けてきた、”救世の槍”の担い手。




 そんな彼女が、”人並みに笑う”ことすらできないなんて。









「……あなたを幸せにするために、わたしは時を遡ったのよ?」




 ゆえに、リタは困惑する。

 辿り着いた過去、変えると誓った歴史。



 そこに暮らす、”紅月輝夜”が。

 まったく知らない笑顔を、浮かべていたのだから。










◆◇










「いらっしゃい。汚い部屋だが、どうぞ中へ」


「……」





 学校終わり、日の傾き始めた時間帯に。

 輝夜は、”ウルフ”の暮らす部屋へと足を運んでいた。



 チャラそうな顔。父親の部下(?)という立場。タバコや酒の臭い。

 輝夜の嫌いな要素を、集めに集めたような男だが。


 仕方がないと。

 輝夜は、ため息混じりに部屋へと入っていく。





「うっ」




 しかしその途中で、輝夜の足は止まった。

 肉体の持つ、防衛本能によるものだろうか。


 おそらくは、消臭剤で誤魔化そうとしたのだろう。

 混ざりに混ざった、”嫌な臭い”に加え。そこらじゅうの床に落ちている、小さなゴミや、ホコリの塊。


 ダメな男の、一人暮らし部屋。

 温室育ちの輝夜には、もはや未知なる領域であった。




「適当な場所に座っていいぜ。なんなら、俺のベッドでも」


「冗談だろ?」


「あー、そうかい。だったら、そこらへんの床になるが」


「床も無理だ」




 輝夜は、きっぱりと拒絶する。




「わたしのこの、”美しいロングヘア”が、絶対に汚れるだろ」




 輝夜自慢の、腰まで伸びるロングヘア。床になど座ってしまえば、余裕で汚れてしまうのだろう。

 なぜなら、この部屋に綺麗な場所など無いのだから。


 学校の屋上。河川敷の地面。そういった”自然の汚れ”なら、輝夜にとっても許容範囲内なのだが。

 人間の生み出した汚れ、”生っぽい汚れ”は生理的に無理だった。




「そう言ってもなぁ。残念なことに、この部屋には机も椅子も無くてね」


「普段、どこで飯を食ってるんだ?」


「そりゃ、適当な地面で」


「……そんな部屋に、よくもまぁ女子高生を呼べたな」


「……いや。どちらかというと、そっち側からの要求だろ」




 まさかウルフも、ここに輝夜を呼ぶことになるとは思わず。これでも、必死に掃除をしたつもりである。

 ただ、衛生面に気を使う輝夜にとって、許容できる域ではなかった。




「おかしいな。善人の部屋は、もっとこう、落ち着ける雰囲気があったんだが」


「悪いな、お嬢さん。高校生のガキとは違って、俺のは大人の部屋なのさ」


「そうか」




 ただただ、輝夜は落ち込むしかなかった。

 こんな場所で、自分は”教えを請う”しか無いのかと。




「おーい。誰か、椅子を買ってきてくれないか?」




 左耳のイヤリング。契約する悪魔たちに、そう投げかける輝夜であったが。




「いや、その必要はねぇよ。椅子くらい、簡単に”作れる”」




 ウルフも、仕方がないと。

 その手に魔力を具現化し。


 普通の家庭にありそうな、”木製の椅子”へと姿を変えた。




「おお」



 それには、輝夜も驚きを口にする。




「魔力の物質変換は、基礎中の基礎だぜ? こんなんに驚いてるレベルなら、輝夜お嬢様もまだまだ、だな」


「いや、別に。わたしの中だと、魔法は”暴力”に使うものだからな。こんな利用法は考えたこともなかった」


「……」




 明らかに、悪役の使う言葉だが。ウルフは考えることを止めた。

 まともなお嬢様なら、そもそもここへは来ないだろう。




「とりあえず、その椅子に座ってくれ。魔力で形成したもんだから、汚れてない新品だぜ」


「……仕方ないな」




 前途多難。

 ウルフの部屋に入って、輝夜はようやく座ることができた。















――いいか? お嬢のピンクい魔力。あれは確かに綺麗だが、言っちまえば体から漏れ出る”余剰魔力”なんだよ。





 部屋の中では、ウルフによる熱心な魔力講座が行われていた。


 色々と、不満はあるものの。輝夜はどうしても、精密な魔力操作を覚えたいようで。

 学校では見せない真剣な顔で、魔力のなんたるかを教わっていた。





――まぁ。そもそも魔力の隠蔽ってのは、実戦においてはあまり意味がなくてな。ほら、おたくの魔王とかも、別に魔力を抑えたりしてねぇだろ?





 2人が、魔力操作について話し合う中。

 輝夜の契約悪魔たち、カノン、アトム、ゴレムの3人は、総動員で部屋の掃除を行っていた。





――懐かしいもんだぜ。俺も最初は、とにかく龍さんを殺す方法を探しててな。





 意外と生真面目なアトムは、細かな汚れを見逃さず。

 図体の大きいゴレムは、ゴシゴシと床を磨き。

 繊細な仕事を得意とするカノンは、舞い上がるホコリが輝夜に飛ばないよう、魔力を操っていた。





――まぁ、俺も昔は愚かだったのさ。都合の悪い記憶に蓋をして、あの人を敵だと思い込んでた。


――そうか。







 そして、ドロシーは。


 特に掃除をするでもなく、ベランダから外を眺めていた。







「……」




 魔王、ドロシー・バルバトス。

 彼女は他を圧倒する戦闘力こそ注目されがちだが。もう一つ、他の追従を許さない特異な才能を有していた。


 それこそ、魔力の”感知能力”である。


 他人の放つ魔力、内包する魔力を見極める、天賦の才能。それゆえに、彼女はウルフによる完璧な監視を感知し、この場所の逆探知さえ出来た。


 ウルフが隠密に長けた”天才”なら、ドロシーはそれをも見破る”怪物”。


 そんな彼女だからこそ、気づいていた。

 ここしばらく、輝夜を見つめる、”ナニカ”の存在に。




 魔力は感じない。敵意も感じない。

 あらゆる障害、暗殺すら退けてきたドロシーですら、実態を掴めないナニカ。


 それを感じているからこそ。

 彼女は四六時中姿を現し、目に見えない敵を見定めようとしていた。






 ガラス窓にとまる、”黒い蝶”。


 何匹も目にする、この街ではありふれた虫なのだが。

 ドロシーの本能が、直感が、ここぞとばかりに働いた。






「――視えたわ」




 怪物的な感知能力。

 それに加え、あまりにも破壊的な魔力。



 ドロシーは本気の動きで。

 ガラス窓にとまる黒い蝶を、”握り潰した”。





 渾身の魔力が込められた、その拳。

 手を広げてみれば、黒い蝶は、塵のように粉々になっていく。



 たった一匹の虫に対して、込めるべき魔力の量ではない。

 完全なる、オーバーキル。



 だが、それでも。




「ふふっ」




 確かな手応えを感じて、ドロシーは微笑んだ。










◆◇










「――ッ、うぐ」




 ドロシーが、黒い蝶を握り潰した瞬間。


 月の魔女。

 リタ・ロンギヌスは、薄暗い路地裏で倒れた。




(何なの、あの女、あの化け物)




 全身から、”大量の血”を流しながら。

 リタは困惑の感情を隠せない。




(フィードバックが、ここまで届くなんて。そんな魔力、あり得ない。たとえ、魔王級だったとしても)





 ”黒い蝶”は、リタの生み出した最高の監視システムである。


 現実に限りなく近い魔術であり、現代においても、未来においても、1度も見破られることがなく。

 たとえ蝶が破壊されたとしても、術者自身には大した反動が来ないように設定されている。





(ミサイル並の破壊力を、手のひらに込めてたってこと?)




 全身に受けたダメージから、リタはその破壊力を予想する。

 こんな想定外の事態でも、頭の回転は止まらない。




(聞いてた話と、違う。もしかしてあれが、紅月龍一の契約悪魔? あれに娘を護衛させてるの?)





 黒い蝶を使って、輝夜の監視を始めてから。


 リタにとっては、”すべて”が驚きに満ちていた。





 まず、”髪の色”が違う。

 輝夜は呪いに侵された体を動かすために、魔力の全てを注いでいたという。そのために、彼女の髪の毛は色素が抜けていた。



 家族とは、ほとんど話したことがないと言っていたのに。弟とも、使用人とも、普通に会話をしていた。

 それも、見たことのない”笑顔”で。



 悪魔らしき存在が、輝夜の周囲に居るのも理由が分からない。

 弟や善人と違い、彼女は”遺物レリック保有者ホルダーではない”のだから。




(わたしに、”嘘”をついていたの? そこまで、わたしが憎かったの?)




 薄れゆく意識の中で、リタは問いかける。




 嘘、矛盾。


 呪い、祈り。


 憎悪、勘違い。




(ねぇ、かぐや)




 疑問の中で、月の魔女は地面に墜ち。






――大丈夫ですか!?


――おいおい。相棒、こいつは魔法絡みのケガだぞ。






 運命の少年に、拾われた。





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