静かな足音
「はーい。では、開始してください」
教師の声で、テストが開始された。
神楽坂高校一年一組。輝夜もその中の一人であり、他のクラスメイトと同様にテストを受けるのだが。
今日の彼女はいつもと違い、左耳にイヤリングをしていなかった。ズルはしないという、彼女なりの決意である。
テストの前までは、マーク2に問題を盗ませようかなど、色々とズルを画策していたのだが。やはり、根っこの部分が律儀なのか。それとも、黒羽の協力によって自信がついたのか。
紅月輝夜、正々堂々とテストに挑んでいた。
(……輝夜さん)
後方の席から、善人は心配そうに輝夜の背中を見つめる。
輝夜の実力がどれほど残念なのか、彼はよく知っていた。普段はあんなに気が強くて、黙っていれば知的美人の雰囲気もあるのに。残念なことに、彼女は完璧な美人ではなかった。
そして、心配される輝夜本人は。
(ぐっ)
やはり、ピンチであった。表情は焦り丸出しであり、最初の科目だというのにすでに冷や汗をかいている。
本番に弱い性格なのか。それとも、脳がテストという存在を拒絶しているのか。周囲の人間に頼りまくった手前、赤点など取ってはいられない。そんな感情が、輝夜を死ぬほど緊張させていた。
そんな輝夜を心配するのは、何もクラスメイトだけではない。
「……大丈夫よ。緊張しないで」
すれ違いざまに。担任の教師が輝夜の方に触れ、静かに声をかけた。
すると、輝夜の中で何かが変わったのか。落ち着いて呼吸をし、テスト用紙に目を向けられるようになった。
(字も、綺麗に書かないとな)
かつて教師に言われたことなど。冷静に、今までを思い出し。輝夜はテストに立ち向かう。
字の綺麗さを意識した結果、時間がギリギリになったり。
姿勢が悪かったのか、腰やお尻の痛みに襲われたり。
しかし、二日目からは調子も良くなって。
緊張もしなくなり、椅子にはクッションを敷き。
輝夜は、四日間のテストを乗り切った。
◆
翌週。
机の上に置かれた、複数のテスト用紙。それを眺めながら、輝夜は感動に震えていた。
理由は単純、”赤点が一つもない”から。
赤点になる基準は30点。輝夜のテスト用紙は、基本的に50点を超えていた。
国語総合は、87点である。
輝夜の席には、いつもの面子が集まっており。
テスト対策に協力した黒羽が、軽い感じで拍手する。
「おめでとう」
輝夜の実力を一番良く知っていたのは、マンツーマンで向き合った黒羽である。
彼女はテスト前から、輝夜の赤点回避を確信していた。だからこそ、あまり驚いていない。
「よかったですね、輝夜さん」
「うんうん。これで気兼ねなく遊べるね」
善人と桜も、揃って祝福の言葉をかける。
黒羽の助けを受ける前は、本当に悲惨な様子だったので。無事にテストを終えられて、彼らもホッとしていた。
「……お前は、命の恩人だな」
「えぇ? なんか、重くない?」
黒羽に対し、輝夜は深く感謝する。
「とりあえず、舞に報告しないと」
赤点回避の旨を、メッセージで舞に送信していた。
「あと、栞にも送っておくか」
「かぐち……」
よほど嬉しかったのか、友人である栞にも送っていた。
そこまでするか、と。周囲は呆れ顔。
「……成績が悪いと、一ヶ月間ゲーム禁止だったからな」
影沢舞は、輝夜を本当に大切に思っている。大切だからこそ、将来を見据え、小さな事からコツコツと経験を積ませようとしていた。
唯一の誤算は、輝夜が想像以上にポンコツだったことだろう。
とにもかくにも、輝夜はストレスから解放された。
今なら、他の
「週末、マリオネットモールに行かないか? この間、猫カフェができたらしい。……まさかお前ら、猫アレルギーじゃないよな?」
輝夜は、上機嫌でみんなを遊びに誘った。
そんな彼女の様子を見て、善人たちは微笑ましく思う。
ただ一人、黒羽を除いて。
「えっと。……それって、わたしにも言ってる?」
「あぁ? 当たり前だろ。お前まさか、わたしの誘いを断るのか?」
一体、輝夜はどれほど偉いのだろう。
そんな輝夜の言葉に。
「……ううん。ありがと」
黒羽は、少し慣れない様子で笑った。
「久々に、アルマデルにも入らないとな」
「確かに、しばらくやってないですから」
思い出したように、輝夜はつぶやくも。
善人以外は、何のことか分からず。
「アルマデルってなに?」
桜が尋ねる。
「VRのゲームだよ。現実と変わらないほどリアルで、とにかく最高のゲームだな」
「うん。僕と輝夜さんは、それで仲良くなったから」
輝夜が骨折している間、奇しくも二人はゲームの中で出会った。
アモンと出会ったのもこのゲームであり、輝夜にとっては色々な意味で思い入れが強かった。
「化け物を殺す快感は、他じゃ味わえないぞ」
そう言って、輝夜は満面の笑みを浮かべる。
「……まぁ、人を選ぶゲームだから」
善人も、ゲームの残酷さは否定しない。
二人の話す内容的に、とても女子がやりたがるようなゲームではないのだが。
「……わたしも、やってみよっかな」
意外にも、桜はゲームに食いついた。
「ふふっ。流石は、オタクに優しいギャルだな」
「やや。わたし、ギャルじゃないから」
高校デビューとして、派手な金髪にしただけである。
それが原因で、若干孤立していたが。
「黒羽はどうだ?」
「えーっと。そのゲームって、ユグドラシルだよね? わたしほら、インプラントしてないから」
インターネット上に存在する仮想空間、ユグドラシル。それに接続するには、第2世代脳インプラントが必須である。
ルナティック症候群ではない黒羽は、脳インプラントをしていなかった。
「そうか。それは、確かに残念だが。……ルナティック症候群なんて、百害あって一利なしだからな。こいつなんて、月を見ると二重人格になるんだぞ? わたしも暴力を振るわれそうになった」
そう言って、輝夜は善人を指差す。
「またまた。かぐちは嘘が下手だよね」
桜も黒羽も、そんな話を信じようとせず。
「あ、はは」
善人は少し、影のある表情をしていた。
◇
放課後。
鼻歌交じりに、下駄箱へと向かう輝夜であったが。
「あの、輝夜さん」
「あぁ、どうかしたのか?」
何か用事があるのか、善人に呼び止められる。
輝夜は機嫌が良かったので、微笑みすら浮かべていたものの。
「――僕に、マッサージをさせてくれませんか?」
「……ん?」
意味の分からない一言に、思考が停止した。
◆
とあるマンション。
花輪善人と、悪魔であるアミーが暮らしている部屋。
以前と違うのは、いくつかの筋トレ器具があることだろうか。
そんな部屋で。
家主の善人は、床で正座をし。客であろう輝夜は、ベッドに座り足を組んでいた。
まぁ、このような対比になるのはいつものことなのだが。
偉そうな表情をする輝夜に対し、善人は少し顔を赤らめていた。
どこに視線を向けるべきか、悩んでいるように。
「どうしたんだ?」
「……いえ」
輝夜はベッドの上で足を組んでいる。そうするとやはり、正座する善人の目線からは”見えてはいけないもの”が見えてしまう。
なぜ彼女は、こういう部分では無防備なのか。
善人は悶々とする気持ちを抑えるのに必死であった。
「さて、変態ぼうや。要件は何だったかな?」
「……へ、変態ぼうや」
悪いのは自分だと理解していても。そんな呼び方をされるのは、善人にもキツイものがあった。
とはいえ、わざわざ部屋にまで来てもらっているので。善人は、改めてお願いを口にする。
「そ、その。……輝夜さんに、触れさせてください」
改めて、とんでもないお願いである。
マッサージが目的ではなく、善人は輝夜に触れたかったのだ。
たとえどんな事情があったとしても、その願いは衝撃の一言であり。
「ふははっ。今のを録画してたら、もう最高だったな!」
輝夜は悪魔のような笑い声を上げた。
「か、輝夜さん」
「あぁ、すまんすまん。少し冗談が過ぎたな」
とはいえ、”事情も事情”なので。
笑いもそこそこに、輝夜は真面目な表情に戻る。
「心配するな。お前の要望には応えてやるよ」
密室に、年頃の男女が二人っきり。
指輪とイヤリングは布に包んで鞄の中、万が一にも邪魔は入らない。
このまま二人は、越えてはならない一線を――
なんてことはなく。
「すみません、輝夜さん」
「気にするな。”月の呪い”ってのは、厄介らしいしな」
善人の”深刻な悩み”を解決するために、輝夜は一肌脱ぐと決めていた。
花輪善人は、他に前例の無い重度のルナティック症候群である。
脳インプラント、ナイトメアキャンセラー等の最新技術でも悪夢を消しきれず、月を直視すると精神崩壊を起こしてしまうほど。
その精神の暴走が原因で、彼は過去にトラウマを負っていた。
記憶に残っているのは、怯えるクラスメイトたちの声。止まらない自分の暴力性。
まだ小学生だったというのに。
彼の内気な性格は、そのトラウマが原因で形成されていた。
しかし、あの運命の夜。全てが変わった。
初めて悪魔と遭遇し、月を見たせいで暴走。
それを止めようと、輝夜が優しく手を触れてくれた。
子供をあやすように、頭を撫でてくれた。
その瞬間、善人は呪いから解放されたのだ。
心を埋め尽くすような不安、恐怖が消え去り。いつぶりか分からない安眠を得ることができた。
だがしかし、ここ最近になって善人は再び呪いの影響を感じるようになった。
このままでは、またあの地獄に逆戻りしてしまう。
なぜ、再び月の呪いを受けるようになったのか。善人は考えた末に、一つの答えに辿り着いた。
最近、輝夜がマッサージを頼まなくなった。
”彼女に触れる機会”が無くなったのだと。
魔界から帰ってから、輝夜はなぜかまったくマッサージを頼まなくなった。以前は、昼休みになるたびに要求していたのに。
一体、何が彼女を変えたのか。
「輝夜さん。魔界で、何かあったんですか?」
「……いや、別に。そういうわけではなくてな」
輝夜は気まずそうに視線をそらす。
「ちょっと、”体質”が変わったんだ」
「体質、ですか」
「うむ」
説明など、できるわけがなかった。
”全身の感度が高くなった”など、口が裂けても言いたくない。影沢にしか言っていない秘密である。
「まぁ。普通に触る程度なら、許可してやろう」
そう言って、輝夜はベッドから立ち上がり。
善人の勉強机、その横にあるパソコンまで歩いていく。
「……輝夜さん?」
一体、何をしようとしているのか。
輝夜はポケットから小さなUSBを。パーソナルアダプターを取り出し、それを善人のパソコンに接続した。
「お前のパソコンから、アルマデルに入るんだよ。それくらいできるだろう?」
「もちろん、可能ですけど」
なぜ、輝夜はゲームをやる準備を整えているのか。
「わたしはゲームをやってるから、その間に適当に触ってていいぞ。ベッドは借りるからな」
「……え」
唖然とする善人を尻目に。
「よいしょっと」
輝夜はベッドに寝転んだ。
――すんすん。
「……思ったより、臭くないな」
一応確認として、輝夜はベッドの匂いを嗅いでみる。
部屋の中に、あれだけのトレーニング器具があるのだから。正直、ベッドは確実に汗臭いと予想していたが。
輝夜にとっては、気にならない匂いであった。
「いや、輝夜さん! 勝手に触るなんて、そんなことは流石に」
「……お前、どこを触るつもりなんだ?」
輝夜はわざとらしく胸を隠す。
「えっと。普通に、手とかで大丈夫ですけど」
「なら問題ないだろ」
「そうは言っても……」
眠っている相手の身体に、勝手に触るなど。流石に背徳感を感じてしまう。
「輝夜さんがゲームをやるなら、僕もやりますよ」
「……つまり。二人とも寝た状態で、ってことか?」
「はい。軽く触れた状態で放置すれば、きっと効果も出ると思うので」
「なるほどな」
とりあえず、輝夜は納得する。
「なら。問題は、どういう姿勢で寝るかだな」
ちらりと、ベッドを見る。
「……流石に、添い寝は嫌だぞ?」
「はっ、はい。それはもちろん」
それはもう、マッサージ以上の行為である。
「別に勘違いするなよ。お前が嫌いとかじゃなくて、その。わたしは人との距離感を大切にするタイプだからな」
「そう、ですか」
もしもそんなタイプだったら、今までマッサージを頼んだりしていないだろう。
しかし、善人はツッコまない。輝夜が支離滅裂なことを言うのは、今に始まったことではないのだから。
「じゃあ。前回みたいに、輝夜さんがベッドに寝て、僕が床に寝る形で大丈夫ですよ。ほら、タオルとかで手を結んで」
「ああ。そういえば、そんな感じだったな」
輝夜は何となく思い出す。
「……とはいえ。それをやると、腕に負担がかかるからな」
自分の身を案じて、輝夜は別の案を考えることに。
「よしっ、ひらめいたぞ!」
しかしながら。
やはり、彼女の脳みそからは普通の考えは出てこない。
「とりあえず、上の服を脱げ」
「……え」
話の流れが変わってきた。
◇
輝夜は偉そうにベッドの上に座り、善人は床で正座。
先程までと変わらない配置だが、違いが二つ。
善人は”上半身裸”の状態で、輝夜はソックスを脱いで”素足”になっていた。
「……お前、結構筋肉があるな」
「最近、アミーと鍛えてるので」
部屋にあるトレーニング器具は、そのためのものだった。
身体を褒められたような気がして、善人は少し嬉しくなる。
「でも。本気ですか? 輝夜さん」
「ふっ。わたしが冗談を言ったことがあったか?」
基本、冗談ばかりである。
「ほら、さっさと横になれ」
「……はい」
彼女に逆らうのは得策ではないので。
善人は観念した様子で、ベッドの横に寝転んだ。
「よしよし。そのまま動くなよ」
輝夜はベッドに座ったまま、”善人の上半身を踏みつけると”。
そのまま、ベッドに寝転んだ。
両者ともに横になり。
足裏とお腹という場所ではあるものの、肌を触れ合う条件はクリアされた。
「ははっ。かなり頭のいい作戦じゃないか?」
「……ですね」
輝夜はベッドに寝転びながら上機嫌。彼女がそれで良いのなら、善人には何も言うことはなかった。
マウントを取りたがるというか、単純に誰かを踏みつけるのが好きなのか。困った性格の輝夜ではあるものの、善人もそれほど悪い気はしていなかった。
一種の、需要と供給と言うべきであろうか。
絶対に、もっとまともな方法があったはずだが。
二人はこのままの格好で行くことに。
「さて、と。入るとするか」
「そうですね」
二人は瞳を閉じ、脳インプラントを通じてパソコンと接続。ネット上の仮想世界、ユグドラシルへと入っていく。
現実から抜けていくような、どこか不思議な感覚の中。
輝夜は微かに笑みを浮かべた。
テストという、最大の問題が終わり。
ようやく、いつも通りの日常に戻れるのだから。
◆◇
日本のとある空港。
そこに停まっている小さなジェット機から、一人の男が降りてくる。
黒のフォーマルスーツを身にまとい。綺麗なブロンドヘアをオールバックにした男。
男は、サングラス越しに周囲を見渡した。
「……ここがニッポン。20年前の被災地にして、ヤクザの国か」
「ジョン。来るの初めてなんだね」
彼に続くような形で、ジェット機から一人の少女が降りてくる。
こちらの少女は、派手なピンクの色髪をして。ウェーブの入ったロングヘアが特徴的。
可愛らしい、真っ白なドレスを身にまとっていた。
少女はスマホを開き、地図のようなものを見ている。
「それで、まずはどこに向かうの? アプリを見る限り、
彼女の開いているアプリは、ソロモンの夜。
分布図を見るに、日本の都道府県には”最低でも一人”は保有者がいる事になっている。つまり、どう考えても日本には4~50人の
これは、国別で見ても異常な数であった。
「そうだな。メインディッシュ、ヒメノは後回しにするとして。北と南、どちらから攻めようか」
男の姿をよく見てみると。
両手には複数の指輪がはめられており、ネックレスにも同じように指輪が繋がれていた。
ソロモンの夜。
”ジョナサン”、来日。
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