祝福
「で、あるからして」
神楽坂高校、一年一組の教室。
そこは平穏そのものといった様子で、いつもと変わらない授業風景が存在した。
だがしかし、生徒たちの席には空きが一つ。入口側の一番前の席。そこにいるはずの少女の姿が、どこにも見当たらない。
たった、それだけのことなのに。友人である花輪善人は、とても授業に集中できる状態ではなかった。
頭の中にあるのは、自分の無力さへの憤りと、深い後悔の念。自分にもっと力があれば、もっと彼女のことを見ていれば。そうしたら、今も変わらず彼女の後ろ姿を眺めていたはずなのに。
輝夜の欠席の理由を知る者は、当事者である善人と、彼から話を聞いた竜宮桜の二人だけ。その他の生徒たちは、ただの体調不良だと思っている。
悪魔絡みの事件に巻き込まれて、魔界に連れ去られた。無駄な混乱を避けるために、ロンギヌスは完全に情報を遮断していた。
今日は火曜日。彼女のいない学校生活を、これから歩まないといけないのか。善人がそう苦悩していると。
彼のスマホに、通知がやって来る。
『昨日の夕方、輝夜さんが帰還しました』
影沢舞から送られてきた、それだけの短い文章。
善人の脳に衝撃を与えるには、十分過ぎる内容であった。
授業の最中ではあるものの、善人は思考を送ってスマホを操作する。
『大丈夫、なんですか?』
『何とも言えません。ですが、”とても動けるような状態ではない”ので、学校へは行かせていません』
(そんなっ)
メッセージの内容に、心を抉られる。
なにぜ、悪魔の世界に連れ去られたのである。どんなひどい目に遭ったのか、想像すらつかない。むしろ、帰ってこられただけで奇跡であった。
『お見舞いとかは、無理ですか?』
『いいえ、構いませんよ。学校終わりにでも来てください』
たとえ彼女が、どのような姿になっていたとしても、友達として彼女を支えてあげたい。
現実と向き合うべく、善人は輝夜のお見舞いに行くことを決意した。
◇
「お邪魔します」
「しまーす」
放課後、善人と桜は輝夜の家に訪れた。
大きな家だとか、中にエレベーターがあるだとか。色々と驚きはあるものの、それを口にするような雰囲気ではなく。
影沢舞の案内により、二人は輝夜の部屋へとやって来る。
「かなりひどい状態ですが、どうか気になさらずに」
「……分かり、ました」
彼女の痛々しい姿など見たくはない。
それでも、善人は勇気を出して扉を開けた。
すると、善人と桜は衝撃的な光景を目の当たりにする。
「――う、うぅ。背中が、あっ」
部屋の中にいたのは、ベッドの上でもがき苦しむ、パジャマ姿の輝夜。
まるでゾンビのような動きをしているものの、特に怪我をしているようには見えなかった。
「これは、いったい」
よほどひどい目に遭って、精神を病んでしまったのか。善人はそう考えるものの。
影沢は、真面目な表情で答える。
「これはおそらく、”筋肉痛”です」
「「へっ?」」
輝夜は、背中が痒くて苦しんでいた。
◆
「♪」
鼻歌交じりに、影沢は夕食の準備を行う。
今夜はカレーであった。
そしてその頃、輝夜の部屋では。
「えーっと、つまり。父親とチャンバラごっこをしたり、悪い悪魔の親玉と戦ったりして、体を動かしすぎたってこと?」
「まぁ、主な原因はその二つだな」
輝夜はベッドで寝転んだまま、こうなるに至った経緯を二人に説明していた。
「怪我とかは、ないんですか?」
「はっ、あるわけないだろ。わたしはもう無敵に近いからな、怪我一つしてないぞ」
無論、嘘である。
向こうに飛ばされた時点で、輝夜は左腕を負傷していた。
オババの謎の薬により、すっかり完治していたが。
「機関銃みたいな武器で撃たれもしたが、それも刀で弾き返したからな」
「へ、へぇ」
「かぐっち、嘘が過ぎる」
「はぁ? わたしが嘘なんかつくわけないだろ」
元々の体が弱すぎるので、話を信じてもらえなかった。
事実、輝夜の体は依然として脆弱なままである。
魔力で身体能力を強化することで、戦闘行為を行うのは可能だが。その後遺症として、とんでもない筋肉痛に襲われていた。
あまりの痛さに、輝夜はベッドから起き上がることすらできず。人間よりも、芋虫に近い動きを余儀なくされていた。
「つらい。つらすぎる」
バカみたいに動き回った結果、まさかこんな地獄が待っているとは。
輝夜は筋肉痛を舐めていた。
「ヨッシー、肩とか揉んであげたら?」
「えっ、でも」
桜の提案に、善人は戸惑うものの。
輝夜は彼の顔を、じーっと見つめていた。
やれ、と。瞳が訴えている。
「じゃあ、軽めに」
いつもの学校の昼休みのように、善人はマッサージ人間になることに。
うつ伏せになった輝夜の肩を、軽く揉み始める。
すると、
「ッ、ちょっと待て! おかしいぞ」
揉み始めて早々に、輝夜の様子がおかしくなる。
「えっと、どうかしました?」
「どうかって、お前……」
一体、どうしたのだろうか。
輝夜の顔はかなり赤くなっていた。
「……とりあえず、続けろ」
”今の感覚”はちょっとした勘違いだと判断し、輝夜はそのままマッサージを続けてもらうことに。
だが、しかし。
「んん……あっ、んっ。……そこ、はっ、くっ」
ただ、マッサージをしているだけなのに。
部屋の中は、淫靡な空気に包まれていた。
輝夜は顔を枕に埋めて、何とか声を我慢しているつもりだが。
残念、声はめちゃくちゃ漏れていた。
マッサージをする度に反応する輝夜の声に、善人は邪な思考が止まらなくなる。
だがそれでも、輝夜は止めろとも言わないので。善人は輝夜の肩や、背中周りを揉み続ける。
(うわぁ)
桜は、完全に見入るモードに入っていた。
これは本当に、ただのマッサージなのか。なにか別のことが行われているのではないか。そう疑いたくなるほどに、輝夜の反応は凄まじかった。
「――ッ」
なぜ? なぜそこでビクンとなるのか。
善人の手に、ゴッドハンド並みの技術があるのか。
それとも、輝夜がちょっと”アレ”なのか。
なにはともあれ、高一の桜には刺激が強すぎた。
「ちょっとストップ!! 二人とも、一回ちょっと止めよう」
桜の一言により、善人はようやく手を止める。
輝夜はうつ伏せになったまま、少しぐったりとしていた。
「……かぐっち、声がエロすぎる」
桜は正直に話す。
「ッ、わたしは悪くない! こいつの揉み方が異常なんだよ」
「えっ、そんな。僕はいつも通り、むしろ弱めにやってるくらいなのに」
「嘘をつくな!」
「嘘じゃないです!」
両者ともに、自分は正常であると主張。
これでは埒が明かないため。
「あー、ほらほら、わたしが足とか揉んであげるから」
場の空気を変えようと、桜が輝夜の足に手を伸ばす。
だがしかし、それがマズかった。
紅月輝夜という人間にとって、足は”特別な部分”である。
胸と足、どっちを触られるのが恥ずかしいかと聞かれれば、足と答えるくらいには重要な部分。
善人にマッサージを頼む際にも、頑なに触らせてこなかった。
その足を、桜にギュッと掴まれて。
「――ッ!?」
輝夜は、色々な意味で爆発し。
善人と桜は追い出されてしまった。
◇
姫乃タワーの上層部。
長官室の中で、龍一は真剣に考え事をしていた。
すると、彼のスマホに着信が。
「――わたしだ」
『わたしだ、じゃない!』
電話相手の少女に、龍一は理不尽に怒られる。
「輝夜か。番号は舞に聞いたのか?」
『違う。マーク2に調べてもらっただけだ』
「……聞いてくれれば、普通に教えたんだが」
『うるさい。今はそれどころじゃない』
わざわざ電話をしなければならないほど、輝夜は深刻な問題を抱えていた。
『体の調子が、”ちょっとおかしい”というか。みんなこうなるのか?』
「……どういう意味だ」
輝夜の話す内容に、龍一は首を傾げる。
「輝夜、具体的な内容を教えてくれ。一体、体のどこがおかしいんだ?」
『ッ、言えるわけがないだろ! この変態!』
一体何が、彼女の機嫌を損ねたのか。一方的に電話を切られてしまう。
分からないことだらけだと、龍一は頭を抱えた。
そうこうしていると、彼のスマホに再び着信が。
今度は輝夜からではなく、別の知人からの電話であった。
「わたしだ」
『あー、どうも。お久しぶりです』
電話の相手は、若い男の模様。
「”ウルフ”、丁度いい時に電話してきたな。実はお前に頼みたいことがある」
『俺に頼みですか? 珍しいですね』
「まぁ、な。その内容だが、お前には”娘の護衛”を頼みたい」
『へぇ。そりゃまた、どういう風の吹き回しで?』
「魔王アガレスと、一悶着あってな。もしかしたら今後、輝夜が狙われる可能性がある」
『なるほど、それで俺の手を借りたいと』
「そうなるな」
輝夜の護衛を任せられる相手。
龍一は、ウルフという男をかなり信頼していた。
『いやー、なら楽しみですね。噂のお嬢さんと、ついにご対面できるとは』
「ウルフ、護衛を頼むだけだ。無駄な接触は許さん」
『あー、はいはい。了解でーす』
軽い口調ながらも、ウルフは龍一の頼みを了承する。
「それで、お前の要件はなんだ?」
『あー、そうっすね。まぁ、なんと言いますか。”エーテル”で、ちょっとした動きがありまして』
「何があった」
『どうやら、魔女が日本へ向かうらしいです』
「……まさか、”月の魔女”か?」
『ええ、その通り。日本へ向かう理由は不明ですけど、あれはロンギヌスの直系ですからね。一応、龍一さんに報告しておこうかと』
その報告を受けて、龍一は深刻そうな表情になる。
「嫌な予感がするな。お前は一刻も早く、こっちに来い」
『了解でーす』
ウルフとの通話を終えて、龍一はスマホを懐にしまう。
そして目を閉じて、深くため息を吐いた。
『リューイチ、なにか面倒事?』
指輪から聞こえる少女の声。
「……そうだな。面倒事が起こりそうだ」
龍一は、頭を抱えた。
◆
「さぁ、輝夜さん。口をあーんしてください」
「……あーん」
紅月家のリビングで、家族三人が夕食をとる。
まだ色々と段階というものがあるので、龍一はこの中には入らない。
輝夜は腕が痛くて動かせないので、影沢にカレーを食べさせてもらっていた。
だがしかし、
「辛い」
カレーの辛さに、輝夜は涙目になる。
「おかしいですね。いつもと同じ味付けですが」
「それでも辛い」
「……まったく。帰ってきたと思えば、情けない奴だな」
朱雨が茶々を入れると。
輝夜は、当然キレる。
「お前、わたしに叩かれたいのか?」
「はっ、寝言は寝てから言え」
輝夜からの暴力など、蚊に刺された程度のもの。ゆえに朱雨は輝夜を煽るものの。
今の輝夜には、しっかりとした”暴力手段”が備わっていた。
(絶対、魔力ビンタを食らわせてやる)
輝夜がそんな事を考えていると。
「ダメですよ、喧嘩は」
影沢によって、無理やりカレーを口に入れられてしまう。
「……辛い」
輝夜は泣いた。
◇
夜。
当然、痛くてまともに動けないため、輝夜は影沢と一緒にお風呂に入ることに。
「ふぃ」
心地よさそうに、輝夜はお湯に浮かぶ。
輝夜は胸に脂肪を抱えているので、水に浮かびやすかった。
「快感」
伸び伸びと、輝夜はお風呂を満喫し。
一緒に入っている影沢は、それを微笑ましく見つめている。
「筋肉痛が治まれば、明日から学校へ行きますか?」
「あぁ、そうだな〜」
お湯に包まれて、輝夜は完全に呆けていた。
「特に腕がつらそうなので、軽く揉んでおきましょう」
「う……優しめで、頼む」
善人たちに見せた”醜態”を思い出し、輝夜は控えめを要求する。
だがしかし、
「ん、あっ」
「輝夜さん!?」
腕だろうが足だろうが、どうにもそういう声が漏れてしまうようで。
まさかの反応に、影沢も戸惑う。
「なんて言えば、いいんだろうな。戦いの後遺症というか、なんというか。……ちょっと、”感度”が上がっているらしい」
何を言っているのか、輝夜は自分でも分からなくなる。
しかし、そうとしか言いようがなかった。
肩に触れられても、手や足を触られても。以前とは比べ物にならないほど、刺激を強く感じるようになっていた。
触覚、あるいは痛覚に異常が出ているのだろうか。
輝夜からしてみれば、かなり困るレベルである。
「……この後、お体を洗うつもりですが」
「……たぶん変な声は出るが、気にしないでくれ」
他の人間はともかくとして、影沢に聞かれるのはセーフ。
輝夜は自分にそう言い聞かせて、”我慢”を決意した。
◇
「うぅ……」
体を洗い終わり。
火照った体のまま、輝夜は再び湯船に浸かる。
どうやら声を我慢できなかったようで、影沢の顔も若干赤くなっていた。
「その、過敏な感覚、治るといいですね」
「……じゃなきゃ、病院に行く必要があるな」
体の感覚に関しては、これ以上考えないように。
輝夜は話を逸らす。
「舞の体は、どうなんだ? 肌の感じ方とか、普通の人間と変わらないのか?」
影沢舞は、人体改造を施されたサイボーグである。
しかも、両腕を武器に変えられるほどに機械の度合いが高かった。
「そうですね。他のサイボーグは知りませんが、わたしは生身の体と変わらぬ感覚を持っていますよ。だからこうして、輝夜さんのぬくもりを感じられます」
お湯の中で、影沢は輝夜の手を握る。
「そう、か」
手を握って、互いの感覚に触れる。
ただ、それだけの動作なのだが。
「輝夜さん?」
輝夜は”大粒の涙”を流していた。
心の底から、喜びを感じているように。
その様子を見て、影沢は察する。
「……魔界で、よっぽど怖い思いをしたんですね」
安心感からくる涙。
そうであると考え、”輝夜の体を優しく抱き締める”。
「ッ」
それは奇しくも、あの時と同じようで。
――今のあなたも、これまでのあなたも。わたし、は……
絶望の中で抱き締められ、そうして彼女は息を引き取った。
血の繋がりはなくとも、最も大切な家族。
初めて会った時から、無償の愛を注いでくれた人。
それを、もう一度抱き締められる。
それだけで、輝夜は涙が止まらなかった。
「全部、話してください。それできっと、楽になれますよ」
輝夜の心を、少しでも癒そうという優しい言葉。
だから輝夜も、もう一度言おうという気持ちになる。
「わたしは、”違う未来”を見てきたんだ」
「……どんな、未来ですか?」
輝夜の言葉を、影沢は真剣に受け止める。
それがどれほど突拍子もない内容でも、決して笑わずに。
それは、輝夜の選択が招いた最悪の未来。
輝夜のために、龍一が命を落とし、悪魔が姫乃を攻めてくる。
街は火の海になって、病院も襲われて。
最終的に、輝夜の腕の中で影沢が死んでしまう。
そんな、未来。
その全てを聞いて、影沢は妙に納得ができてしまう。
輝夜の変化と、成長。たった数日間で、一体どのような経験を積めば、今の彼女へと至るのか。
もう一つの未来こそが、鍵であると。
「……未来を変えるために、頑張ったんですね」
その頑張りを。
誰にも理解されない努力を悟り、影沢は輝夜の頭を撫でる。
だがしかし、輝夜はここまで頑張ったのは、ただ未来を変えるためだけではない。
もう一つ、大きな理由が存在していた。
「……舞の言葉を、最後まで聞きたかった」
「わたしの、言葉?」
それが、一番の”後悔”。
輝夜が絶望した理由。
――わたしには、前世の記憶がある。
誰にも言っていない秘密を、舞に告白した。
嘘をついたまま死にたくなくて。
自分という存在を受け入れてほしくて。
自分には前世の記憶がある。
この世界を、ずっとゲームか何かだと思っていた。
こんな自分だから、普通の女の子みたいには生きられない。
誰に言えるはずもなく、現実と虚構の間で恐怖して。
それでも輝夜は、もう一度全てを告白する。
包み隠さずに、自分の全てを。
影沢は、それを最後まで聞いてくれた。
「それでわたしは、なんと言ったんですか?」
その問いに、輝夜は首を横に振る。
それが、一番の悲しみだった。
最後の言葉を聞く前に、死が二人を引き裂いた。
輝夜の告白を聞いて、影沢はどう思ったのか。
なんて言おうとしたのか。
ただもう一度、その言葉を聞きたくて。
輝夜は全てをやり直した。
「……未来のわたしが何と言おうとしたのか、わたしには想像もつきません。……ですがその代わりに、”今のわたしの気持ち”を率直に伝えようと思います」
その言葉は、
「今のあなたも、これまでのあなたも。――わたしは、”心の底から愛しています”」
あまりにも単純な、答え合わせ。
影沢の口からは、そんな言葉しか出てこない。
いつ、どこであっても、それはきっと変わらない。
「でも、わたしには、男だった時の記憶とか」
「そんなことは、”わたしには関係ありません”。わたしにとっては、ここにいる輝夜さんが全てですから」
嘘も偽りも脱ぎ捨てて。
身も心も裸になって、全てを打ち明け合う。
「生きていてくれて、ありがとうございます」
この日。
紅月輝夜は、本当の意味でこの世に生を受けた。
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