希望を手繰る者






「だるいし、眠いわ」




 魔界の第1階層、アガレス。

 大都会の中心にある高層ビルの最上階で、銀髪の女は出された料理を食していた。


 彼女をもてなすために用意された、最上級の食材。

 とはいえ食べ慣れたものなので、感動など微塵も存在しない。




「で、わたしに何のようかしら」




 女と同じようにテーブルにつくのは、長い髭を貯えた老人。

 この階層を支配する魔王、アガレスである。



 アガレスは銀髪の女に対し、一枚の写真を提示した。

 現在、魔界全土で指名手配されている、カノンの写真を。




「魔界を荒らす、愚か者だ。この男と、同行している人間二人を引っ捕らえてくれ。くれぐれも、殺さずにな」


「殺さずに? どうして?」


「奴らは、”ニャルラトホテプの技術”を保有している可能性がある。もしくは、本人か」




 セキュリティシステムを無力化しての逃走。その事実から、アガレスは”死者の関与”を疑っていた。




「もしも本人が生きているのなら、決して野放しには出来ん」


「でも、どうしてそれをわたしに頼むのかしら。いつも通り、部下に任せればいいじゃない」


「武装システムを掌握される可能性がある。お前なら、その心配もないだろう」


「まぁ、そうね」




 銀髪の女が使うのは、無骨な大剣が一つ。

 それだけで、彼女は最強なのだから。




「ふぅん」




 アガレスの話を聞き、女はカノンの写真を見る。

 そして、ほんの少し考え。




「あなたには世話になってるから、いいわよ」




 最強の追跡者が、第1階層へと解き放たれた。

















 第1階層、アガレス。その大都会の街並みを、銀髪の女は歩いていく。


 美しい白銀の髪に、黒いドレス。そして、トレードマークの大剣と。

 魔界でも有名人である彼女は、確かな畏怖をもって群衆に避けられていた。


 彼女が、別の階層へ出向いている。それだけで、すでに非常事態なのだから。

 巻き添えで死にたくはないと、悪魔たちはこの場から離れていく。




 しかし、三人の例外は動けない。まるで蛇に睨まれた蛙のように。


 そうして、銀髪の女は輝夜たちの前へとやって来た。




 ただ、そこに存在するだけで理解できてしまう、絶対的な力の差。それゆえに、カノンは逃げるという選択肢すら浮かばない。

 輝夜と栞も、彼がこの場から動かないために、同じく動けなかった。




「……写真と、顔が違うわね」




 銀髪の女は、少々首を傾げると。

 カノンの顔に手を伸ばし、彼が変装用に被っていたマスクを引きちぎる。




「ふふっ。これなら、探偵としてもやっていけるかしら」



 暴かれた素顔を見て、女は満足げにマスクを捨てた。





「……どうして分かったのか、教えてあげる」



 そう言って、女は輝夜を指差した。




「あなたの顔を見てたの。それはまぁ、気まぐれだけど。なぜか気になって、じーっと見てて。そうしたら気づいた」




 女はゆっくりと手を伸ばし、輝夜の頬に触れ。そのまま、左耳のイヤリングを外す。




「あっ、おい!」




 月と、うさぎのイヤリング。ここまで肌身離さず持ってきた、輝夜のお守りである。




「月をモチーフにしたアクセサリーなんて、生まれて初めて見たわ。憧れの太陽ならまだしも、こんな物を身に着けるのは。よっぽどの変わり者か、あるいは……」





 人間と悪魔では、月に対する感情が違う。

 ルナティック症候群の登場により、人間界でも忌避されつつあるもの。魔界では、より強い負の感情が抱かれていた。

 それゆえに、月をモチーフにしたアクセサリーなど、身に着けているだけで変人である。





(……そういうのは、先に教えて欲しかったな)



 カノンは変わり者なので、もちろんそんな指摘は出なかった。




 すると、何を思ったのか。


 銀髪の女は、輝夜から奪ったイヤリングを自身の左耳に装着する。




「おい、お前!」


「……」




 輝夜が咄嗟に取り返そうとするものの、ひらりとかわされてしまう。


 なぜ彼女は、こんな行動を取るのか。




「輝夜さん!」



 輝夜が苛立っていると、カノンがその動きを手で制す。




「下手に動かないでください。もしも彼女がその気なら、我々は一瞬で殺されてしまう」


「はぁ?」




 何を大げさな事を。

 そう思いつつも、カノンの顔はひどく真剣だった。





「――わたしの記憶が確かなら、彼女の名は”バルバトス”。第4階層を統べる魔王にして、魔界最強の悪魔です」





 それこそが、無情なる真実の名前。

 ただそこにいるだけで、カノンの心を折る。抗いようのない絶対者。

 



「……最強? 魔王?」



 急に出てきた情報に、輝夜は思考が追いつかない。




「別に、そこまで大したものじゃないわ。単純に、今まで喧嘩で負けたことがないだけ」




 カノンの出した名前に、銀髪の女は否定を入れず。

 ただ淡々と、自分という存在を口にする。


 我こそが、バルバトスであると。




「最強の魔王が、なぜここに?」



 恐る恐る、カノンが問いかける。




「べつに。単に、アガレスに頼まれただけよ、あなた達を捕まえて欲しいって。彼がわたしに頼み事なんて、初めてに近いから。あなた達、よっぽど重要なのかしら」




 バルバトスがここへ来たのは、たったそれだけの理由。頼まれたからやって来た。

 カノン、輝夜、栞の三人を捕まえるためだけに、”魔界の王”が本気を出したのである。



 単純にして、絶望的な現実に。

 ただの一般市民である栞は、うつむき震えることしか出来ない。




「というわけで、残念だったわね。あなた達はもう終わり」


「くっ」




 もしも、バルバトス以外の魔王であれば。カノンも、隙を見て逃げるくらいの選択肢は浮かんだであろう。

 しかし、彼女の伝説は魔界の全土へと轟いている。それこそ、他者に興味のないカノンの耳にも入るほど。



 バルバトスを相手に、逆らえる悪魔は存在しない。

 だがしかし、輝夜には関係なかった。




「おい! 何でも良いから、わたしのイヤリングを返せ!」


「イヤ」


「なんでだ」




 イヤリングを返すように、輝夜はバルバトスに要求するものの、彼女はそれを拒絶する。


 どうして最強の魔王様が、自分のイヤリングに執着するのか。

 意味の分からない状況に、輝夜は苛立ちを募らせる。




「どうしてかしら。欲しくなったのよ、急に」


「はぁ?」




 それはまるで、いたずらっ子の主張である。

 そんなものに付き合っていられるほど、今の輝夜に余裕はない。



 相手が魔王だろうと、関係ない。

 何なら力ずくでやってやろうと、輝夜は二本目のアドバンスをホルダーから取り出し。


 それを自身の首に突き刺そうとして。

 バルバトスに腕を掴まれる。




「いっ」


「あら、ごめんなさい」




 単純に、生物として力が違いすぎるのか。

 輝夜に配慮するように、バルバトスは手の力を弱める。

 だがしかし、決して離そうとはしない。




「その髪の色、そういう事情なのね」




 輝夜が手にする物と、その髪の色を見て。

 その身に起きているおおよその事情を、バルバトスは理解する。




「無駄よ。凡人がどんな手を使っても、わたしの領域には辿り着けない。死にたくないのなら、大人しくしてなさい」


「ッ」




 小さな芽を摘むように。

 バルバトスは、アドバンスの入った注射器を握り潰した。





 ここに来るまでに戦ってきた、テックマスターの悪魔とは次元が違う。

 まるで、理不尽がそのまま歩いているような存在。




 様々な困難を乗り越えて、ようやくここまで来たというのに。


 輝夜たちは、絶望を前に拳を握り締める。




 すると。





「……なにかしら」



 バルバトスが、”それ”に気づく。





 彼女が現れたことにより、周囲の他の人影は存在しない。

 巻き添えになるまいと、多くの悪魔たちがこの場から立ち去った。



 だがしかし。

 新たにこの場所へとやって来る、酔狂な者が一人。




 ”その男”は、真っ直ぐとこちらへ向かっていた。




 堂々と、足取りは力強く。

 ”真っ白な仮面”で顔を隠し、左手には鞘に入った刀が握られている。



 その刀は、どれほどの死線を潜り抜けてきたのか。



 その背中は、どれほどの業を背負ってきたのか。



 その黄金の指輪には、どれほどの覚悟が宿っているのか。





 一人の龍が、ここに来た。

















「あいつ!」




 それは、いつか見た仮面の男。

 目的も正体も分からない、謎の男。


 そんな彼が、どうしてここに。なぜ魔界にいるのか。輝夜には理解が出来ない。



 あれほどまでに胡散臭く、謎が服を着て歩いているような存在なのに。

 どうしてこれほどまでに、”安心感”を得られるのか。


 輝夜には、分からなかった。




「……なに? あなた」




 仮面の男が、バルバトスと対峙する。


 まるで彼女を恐れていない。

 その正体を知らないのか。あるいは、恐れる必要がないのか。




「お前に用はない。そこにいる人間二人を、地上に連れ戻しに来ただけだ」


「あら、そう。遠路はるばるご苦労さま。……でも残念、わたしが先に見つけたから」




 返せと言われて、返すわけがない。

 指名手配犯も、イヤリングも、彼女は一切手放すつもりがなかった。


 しかし、仮面の男も一歩も引かず。




「ならば、こちらに引き渡せ」


「イヤ」




 バルバトスは言葉では動かない。

 彼女を動かせるとしたら、”力”のみ。




「悪魔と戦うのは、別に初めてじゃない。この刀で斬られたいのか?」


「ふふっ、あははっ」





 男の言葉に、バルバトスは大笑いする。


 面白おかしく、腹がよじれそうなほどに。





「わたしに喧嘩を売るだなんて、ほんといつぶりかしら」




 彼女は最強の魔王である。今の魔界に、彼女に喧嘩を売るような愚か者は存在しない。



 しかし、目の前に立つ男は例外であった。


 静かに、刀に手を添え。




「人間って、おもしろ――」





 強く、速く。

 何よりも鋭い一閃を、仮面の男は解き放ち。




 一切の抵抗を許さずに、バルバトスを薙ぎ払った。




 その一撃は、まるで流星のように。


 バルバトスは一瞬のうちに姿を消し。

 同時に、遥か遠方のビルが崩壊した。


 まさか、あそこまで吹き飛ばされたのだろうか。





「……は?」



 目にも留まらぬ、一連の動作。理解不能な出来事に、輝夜たちは唖然とする。


 話が確かなら、バルバトスという女は最強の悪魔だったはず。

 武力では絶対に敵わない、絶望を体現するような存在。


 しかし、目の前に立つこの男は、その最強をいとも容易く薙ぎ払った。

 そんな事が可能なのか、そんな人間が存在するのか。



 仮面の男に対し、輝夜たちが反応に困っていると。




「お前たち、どうやって地上に帰るつもりだったんだ?」



 何も無かったかのように、男が尋ねてくる。




「え、向こうの病院にある転移装置を、使おうかと」


「そうか。……なら、そうしよう」




 カノンの言葉に、男は簡単に納得した。















 どうしてこうなったのか。

 謎だらけの仮面の男と一緒に、輝夜たちは病院へと向かうことに。



 閑散とした街並みを、ただ黙々と進み。

 そんな中で、輝夜が口を開く。




「なぁ、お前。何者なんだ?」


「……」



 質問に対し、仮面の男は無言で応える。




「ロンギヌスの人間か? 影沢舞の知り合いか?」



 続いて質問されるも、やはり口は開かずに。

 対する輝夜は、苛立ちを募らせる。




「なんか言ったらどうだ? この変態仮面!」


「輝夜!? せっかく助けてくれたのに、それは言い過ぎじゃ」




 まさかの暴言に、栞は戦慄する。

 どう考えても、恩人に対する言葉ではない。




「……こいつ、なんか妙に苛つくんだよ」




 どうしてこんなに苛つくのか、それは輝夜にも理解が出来ない。

 上手く言葉に出来ない、不思議な感覚であった。





「とはいえ、このような戦力が味方についてくれるとは、心強いですね」



 魔王という脅威が消え去って、カノンも一安心。

 ようやく無駄口が叩けるようになる。




「まさか、バルバトスを一撃とは」


「……さっきの女、有名な悪魔なのか?」




 仮面の男が尋ねる。どうやら彼は、バルバトスを知らないらしい。




「ええ、もちろん。なにせ、彼女は最強の魔王ですから」


「……そうか」




 最強の魔王という言葉を受け、男の声が重くなる。


 まるで、何か後悔するかのように、刀を持つ手を握り締めた。




「……もっと、本気で斬るべきだったな」




 その懸念が、正しかったのか。




 遥か遠方、彼女を吹き飛ばした方向から、凄まじい衝撃音が鳴り響き。




 輝夜たちの行く先へと、飛来した。





「――驚いたわ。こんなに痛いと思ったの、生まれて初めて」





 そんな事を口にしつつ。

 立ち塞がる彼女の体には、大したダメージも見受けられない。


 魔王バルバトスは、依然として健在であった。




「……あれで無傷か。今までに殺した連中とは、どうやら一味違うらしい」





 仮面の男は、刀を構え。

 対するバルバトスも、片手で大剣を握り締める。



 底知れぬ実力者が二人。

 双方ともに、完全にやる気であった。





「この女は俺が引き付ける。お前、二人を任せたぞ」


「ええ、もちろん」




 魔王の相手は仮面の男に任せ。カノンを筆頭に、三人は病院へと駆ける。


 だが、その前に。




「おい、わたしのイヤリングを取り返してくれ!」


「イヤリング、だと?」




 輝夜が仮面の男に頼み込む。


 バルバトスの耳には、まだ輝夜のイヤリングが残されていた。

 今取り返さなければ、チャンスは二度と訪れないだろう。




「なるほど。……お前の頼みなら、仕方がないか」




 誰に言うでもなく、男は小さく呟いた。

 そんな彼を笑うように、右手の指輪が光を放つ。




「任せろ、耳ごと取り返してやる」


「キモい!」




 それはまるで、反抗期の親子のような会話だった。















 青い炎を刀に纏わせ、鋭い剣戟を繰り出す仮面の男と。


 莫大な魔力に物を言わせ、大剣を叩きつける最強の魔王。




 その二人を映した映像を、魔王アガレスは食い入るように見つめていた。

 特に、仮面の男の方を。




(間違いない。なぜ此奴が魔界にいる? こちらへ来た人間が、よほど特別な存在なのか?)





 その男のことを、アガレスはよく知っていた。

 なぜなら、彼の計画を遂行する上で、最も邪魔となる存在がこの仮面の男なのだから。




(これは、絶好の機会か)



 想定外の事態ながらも、アガレスは笑みを浮かべた。





「――紅月龍一、貴様の息の根を止めてやる」





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