希望を手繰る者
「だるいし、眠いわ」
魔界の第1階層、アガレス。
大都会の中心にある高層ビルの最上階で、銀髪の女は出された料理を食していた。
彼女をもてなすために用意された、最上級の食材。
とはいえ食べ慣れたものなので、感動など微塵も存在しない。
「で、わたしに何のようかしら」
女と同じようにテーブルにつくのは、長い髭を貯えた老人。
この階層を支配する魔王、アガレスである。
アガレスは銀髪の女に対し、一枚の写真を提示した。
現在、魔界全土で指名手配されている、カノンの写真を。
「魔界を荒らす、愚か者だ。この男と、同行している人間二人を引っ捕らえてくれ。くれぐれも、殺さずにな」
「殺さずに? どうして?」
「奴らは、”ニャルラトホテプの技術”を保有している可能性がある。もしくは、本人か」
セキュリティシステムを無力化しての逃走。その事実から、アガレスは”死者の関与”を疑っていた。
「もしも本人が生きているのなら、決して野放しには出来ん」
「でも、どうしてそれをわたしに頼むのかしら。いつも通り、部下に任せればいいじゃない」
「武装システムを掌握される可能性がある。お前なら、その心配もないだろう」
「まぁ、そうね」
銀髪の女が使うのは、無骨な大剣が一つ。
それだけで、彼女は最強なのだから。
「ふぅん」
アガレスの話を聞き、女はカノンの写真を見る。
そして、ほんの少し考え。
「あなたには世話になってるから、いいわよ」
最強の追跡者が、第1階層へと解き放たれた。
◆
第1階層、アガレス。その大都会の街並みを、銀髪の女は歩いていく。
美しい白銀の髪に、黒いドレス。そして、トレードマークの大剣と。
魔界でも有名人である彼女は、確かな畏怖をもって群衆に避けられていた。
彼女が、別の階層へ出向いている。それだけで、すでに非常事態なのだから。
巻き添えで死にたくはないと、悪魔たちはこの場から離れていく。
しかし、三人の例外は動けない。まるで蛇に睨まれた蛙のように。
そうして、銀髪の女は輝夜たちの前へとやって来た。
ただ、そこに存在するだけで理解できてしまう、絶対的な力の差。それゆえに、カノンは逃げるという選択肢すら浮かばない。
輝夜と栞も、彼がこの場から動かないために、同じく動けなかった。
「……写真と、顔が違うわね」
銀髪の女は、少々首を傾げると。
カノンの顔に手を伸ばし、彼が変装用に被っていたマスクを引きちぎる。
「ふふっ。これなら、探偵としてもやっていけるかしら」
暴かれた素顔を見て、女は満足げにマスクを捨てた。
「……どうして分かったのか、教えてあげる」
そう言って、女は輝夜を指差した。
「あなたの顔を見てたの。それはまぁ、気まぐれだけど。なぜか気になって、じーっと見てて。そうしたら気づいた」
女はゆっくりと手を伸ばし、輝夜の頬に触れ。そのまま、左耳のイヤリングを外す。
「あっ、おい!」
月と、うさぎのイヤリング。ここまで肌身離さず持ってきた、輝夜のお守りである。
「月をモチーフにしたアクセサリーなんて、生まれて初めて見たわ。憧れの太陽ならまだしも、こんな物を身に着けるのは。よっぽどの変わり者か、あるいは……」
人間と悪魔では、月に対する感情が違う。
ルナティック症候群の登場により、人間界でも忌避されつつあるもの。魔界では、より強い負の感情が抱かれていた。
それゆえに、月をモチーフにしたアクセサリーなど、身に着けているだけで変人である。
(……そういうのは、先に教えて欲しかったな)
カノンは変わり者なので、もちろんそんな指摘は出なかった。
すると、何を思ったのか。
銀髪の女は、輝夜から奪ったイヤリングを自身の左耳に装着する。
「おい、お前!」
「……」
輝夜が咄嗟に取り返そうとするものの、ひらりとかわされてしまう。
なぜ彼女は、こんな行動を取るのか。
「輝夜さん!」
輝夜が苛立っていると、カノンがその動きを手で制す。
「下手に動かないでください。もしも彼女がその気なら、我々は一瞬で殺されてしまう」
「はぁ?」
何を大げさな事を。
そう思いつつも、カノンの顔はひどく真剣だった。
「――わたしの記憶が確かなら、彼女の名は”バルバトス”。第4階層を統べる魔王にして、魔界最強の悪魔です」
それこそが、無情なる真実の名前。
ただそこにいるだけで、カノンの心を折る。抗いようのない絶対者。
「……最強? 魔王?」
急に出てきた情報に、輝夜は思考が追いつかない。
「別に、そこまで大したものじゃないわ。単純に、今まで喧嘩で負けたことがないだけ」
カノンの出した名前に、銀髪の女は否定を入れず。
ただ淡々と、自分という存在を口にする。
我こそが、バルバトスであると。
「最強の魔王が、なぜここに?」
恐る恐る、カノンが問いかける。
「べつに。単に、アガレスに頼まれただけよ、あなた達を捕まえて欲しいって。彼がわたしに頼み事なんて、初めてに近いから。あなた達、よっぽど重要なのかしら」
バルバトスがここへ来たのは、たったそれだけの理由。頼まれたからやって来た。
カノン、輝夜、栞の三人を捕まえるためだけに、”魔界の王”が本気を出したのである。
単純にして、絶望的な現実に。
ただの一般市民である栞は、うつむき震えることしか出来ない。
「というわけで、残念だったわね。あなた達はもう終わり」
「くっ」
もしも、バルバトス以外の魔王であれば。カノンも、隙を見て逃げるくらいの選択肢は浮かんだであろう。
しかし、彼女の伝説は魔界の全土へと轟いている。それこそ、他者に興味のないカノンの耳にも入るほど。
バルバトスを相手に、逆らえる悪魔は存在しない。
だがしかし、輝夜には関係なかった。
「おい! 何でも良いから、わたしのイヤリングを返せ!」
「イヤ」
「なんでだ」
イヤリングを返すように、輝夜はバルバトスに要求するものの、彼女はそれを拒絶する。
どうして最強の魔王様が、自分のイヤリングに執着するのか。
意味の分からない状況に、輝夜は苛立ちを募らせる。
「どうしてかしら。欲しくなったのよ、急に」
「はぁ?」
それはまるで、いたずらっ子の主張である。
そんなものに付き合っていられるほど、今の輝夜に余裕はない。
相手が魔王だろうと、関係ない。
何なら力ずくでやってやろうと、輝夜は二本目のアドバンスをホルダーから取り出し。
それを自身の首に突き刺そうとして。
バルバトスに腕を掴まれる。
「いっ」
「あら、ごめんなさい」
単純に、生物として力が違いすぎるのか。
輝夜に配慮するように、バルバトスは手の力を弱める。
だがしかし、決して離そうとはしない。
「その髪の色、そういう事情なのね」
輝夜が手にする物と、その髪の色を見て。
その身に起きているおおよその事情を、バルバトスは理解する。
「無駄よ。凡人がどんな手を使っても、わたしの領域には辿り着けない。死にたくないのなら、大人しくしてなさい」
「ッ」
小さな芽を摘むように。
バルバトスは、アドバンスの入った注射器を握り潰した。
ここに来るまでに戦ってきた、テックマスターの悪魔とは次元が違う。
まるで、理不尽がそのまま歩いているような存在。
様々な困難を乗り越えて、ようやくここまで来たというのに。
輝夜たちは、絶望を前に拳を握り締める。
すると。
「……なにかしら」
バルバトスが、”それ”に気づく。
彼女が現れたことにより、周囲の他の人影は存在しない。
巻き添えになるまいと、多くの悪魔たちがこの場から立ち去った。
だがしかし。
新たにこの場所へとやって来る、酔狂な者が一人。
”その男”は、真っ直ぐとこちらへ向かっていた。
堂々と、足取りは力強く。
”真っ白な仮面”で顔を隠し、左手には鞘に入った刀が握られている。
その刀は、どれほどの死線を潜り抜けてきたのか。
その背中は、どれほどの業を背負ってきたのか。
その黄金の指輪には、どれほどの覚悟が宿っているのか。
一人の龍が、ここに来た。
◆
「あいつ!」
それは、いつか見た仮面の男。
目的も正体も分からない、謎の男。
そんな彼が、どうしてここに。なぜ魔界にいるのか。輝夜には理解が出来ない。
あれほどまでに胡散臭く、謎が服を着て歩いているような存在なのに。
どうしてこれほどまでに、”安心感”を得られるのか。
輝夜には、分からなかった。
「……なに? あなた」
仮面の男が、バルバトスと対峙する。
まるで彼女を恐れていない。
その正体を知らないのか。あるいは、恐れる必要がないのか。
「お前に用はない。そこにいる人間二人を、地上に連れ戻しに来ただけだ」
「あら、そう。遠路はるばるご苦労さま。……でも残念、わたしが先に見つけたから」
返せと言われて、返すわけがない。
指名手配犯も、イヤリングも、彼女は一切手放すつもりがなかった。
しかし、仮面の男も一歩も引かず。
「ならば、こちらに引き渡せ」
「イヤ」
バルバトスは言葉では動かない。
彼女を動かせるとしたら、”力”のみ。
「悪魔と戦うのは、別に初めてじゃない。この刀で斬られたいのか?」
「ふふっ、あははっ」
男の言葉に、バルバトスは大笑いする。
面白おかしく、腹がよじれそうなほどに。
「わたしに喧嘩を売るだなんて、ほんといつぶりかしら」
彼女は最強の魔王である。今の魔界に、彼女に喧嘩を売るような愚か者は存在しない。
しかし、目の前に立つ男は例外であった。
静かに、刀に手を添え。
「人間って、おもしろ――」
強く、速く。
何よりも鋭い一閃を、仮面の男は解き放ち。
一切の抵抗を許さずに、バルバトスを薙ぎ払った。
その一撃は、まるで流星のように。
バルバトスは一瞬のうちに姿を消し。
同時に、遥か遠方のビルが崩壊した。
まさか、あそこまで吹き飛ばされたのだろうか。
「……は?」
目にも留まらぬ、一連の動作。理解不能な出来事に、輝夜たちは唖然とする。
話が確かなら、バルバトスという女は最強の悪魔だったはず。
武力では絶対に敵わない、絶望を体現するような存在。
しかし、目の前に立つこの男は、その最強をいとも容易く薙ぎ払った。
そんな事が可能なのか、そんな人間が存在するのか。
仮面の男に対し、輝夜たちが反応に困っていると。
「お前たち、どうやって地上に帰るつもりだったんだ?」
何も無かったかのように、男が尋ねてくる。
「え、向こうの病院にある転移装置を、使おうかと」
「そうか。……なら、そうしよう」
カノンの言葉に、男は簡単に納得した。
◇
どうしてこうなったのか。
謎だらけの仮面の男と一緒に、輝夜たちは病院へと向かうことに。
閑散とした街並みを、ただ黙々と進み。
そんな中で、輝夜が口を開く。
「なぁ、お前。何者なんだ?」
「……」
質問に対し、仮面の男は無言で応える。
「ロンギヌスの人間か? 影沢舞の知り合いか?」
続いて質問されるも、やはり口は開かずに。
対する輝夜は、苛立ちを募らせる。
「なんか言ったらどうだ? この変態仮面!」
「輝夜!? せっかく助けてくれたのに、それは言い過ぎじゃ」
まさかの暴言に、栞は戦慄する。
どう考えても、恩人に対する言葉ではない。
「……こいつ、なんか妙に苛つくんだよ」
どうしてこんなに苛つくのか、それは輝夜にも理解が出来ない。
上手く言葉に出来ない、不思議な感覚であった。
「とはいえ、このような戦力が味方についてくれるとは、心強いですね」
魔王という脅威が消え去って、カノンも一安心。
ようやく無駄口が叩けるようになる。
「まさか、バルバトスを一撃とは」
「……さっきの女、有名な悪魔なのか?」
仮面の男が尋ねる。どうやら彼は、バルバトスを知らないらしい。
「ええ、もちろん。なにせ、彼女は最強の魔王ですから」
「……そうか」
最強の魔王という言葉を受け、男の声が重くなる。
まるで、何か後悔するかのように、刀を持つ手を握り締めた。
「……もっと、本気で斬るべきだったな」
その懸念が、正しかったのか。
遥か遠方、彼女を吹き飛ばした方向から、凄まじい衝撃音が鳴り響き。
輝夜たちの行く先へと、飛来した。
「――驚いたわ。こんなに痛いと思ったの、生まれて初めて」
そんな事を口にしつつ。
立ち塞がる彼女の体には、大したダメージも見受けられない。
魔王バルバトスは、依然として健在であった。
「……あれで無傷か。今までに殺した連中とは、どうやら一味違うらしい」
仮面の男は、刀を構え。
対するバルバトスも、片手で大剣を握り締める。
底知れぬ実力者が二人。
双方ともに、完全にやる気であった。
「この女は俺が引き付ける。お前、二人を任せたぞ」
「ええ、もちろん」
魔王の相手は仮面の男に任せ。カノンを筆頭に、三人は病院へと駆ける。
だが、その前に。
「おい、わたしのイヤリングを取り返してくれ!」
「イヤリング、だと?」
輝夜が仮面の男に頼み込む。
バルバトスの耳には、まだ輝夜のイヤリングが残されていた。
今取り返さなければ、チャンスは二度と訪れないだろう。
「なるほど。……お前の頼みなら、仕方がないか」
誰に言うでもなく、男は小さく呟いた。
そんな彼を笑うように、右手の指輪が光を放つ。
「任せろ、耳ごと取り返してやる」
「キモい!」
それはまるで、反抗期の親子のような会話だった。
◇
青い炎を刀に纏わせ、鋭い剣戟を繰り出す仮面の男と。
莫大な魔力に物を言わせ、大剣を叩きつける最強の魔王。
その二人を映した映像を、魔王アガレスは食い入るように見つめていた。
特に、仮面の男の方を。
(間違いない。なぜ此奴が魔界にいる? こちらへ来た人間が、よほど特別な存在なのか?)
その男のことを、アガレスはよく知っていた。
なぜなら、彼の計画を遂行する上で、最も邪魔となる存在がこの仮面の男なのだから。
(これは、絶好の機会か)
想定外の事態ながらも、アガレスは笑みを浮かべた。
「――紅月龍一、貴様の息の根を止めてやる」
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