屈辱の時(一)
(クソっ、何だこれは)
彼は焦っていた。体を動かそうにも、プルプルと震えるのみで、まったくもって動けない。口元には呼吸器が付けられ、それも精神的な圧迫感になっている。
自由に体を動かせない。おまけに、なぜこうなっているのかが分からない。それらの要因に、彼は焦りと憤りを抱いていた。
(チッ)
何か、事故にでもあったのか。体に麻酔でも効いているのか。
何一つ理解できず、ひたすらイライラを募らせる。
何も出来ない時間が、しばらく続き、ただ悶々としていると。
病室のドアが開き、誰かが中に入ってくる。
(人か?)
体は動かせないものの、誰かの到来を気配で察知する。
鼻歌を歌いながら、部屋に入ってきたのは。看護師らしき若い女性。
この部屋”唯一の患者”の点滴を交換するために、この部屋へとやって来た。
看護師は、鼻歌交じりに点滴パックを交換する。
そんな看護師に対して、彼は必死に訴えかける。
力の限り動こうと、全身をプルプルと震わせ。声は出ないものの、懸命に口を動かしてみる。
(おいっ、気付けコラ!)
呪い殺すほどの勢いで念を送るも、看護師の女性には伝わらず。
彼女の鼻歌に掻き消されてしまう。
それでも、めげることなく。
必死に念を送り続けると。
「え」
念が通じたのか、看護師が顔を向け。
彼と、目が合う。
「……うそ」
彼、否――”彼女”が目を開けている。その事実を認識すると、看護師の女性は凍りつき。
手に持っていた空の点滴パックを地面に落としてしまう。
「本当に、起きてる?」
本当に、目を覚ましているのか。それを確かめるように、看護師は見る角度を変え。
それを、彼女の視線が追いかける。
「大変!!」
それが確信に変わると、看護師は大慌てで病室を飛び出していった。
動けない彼女は、もちろんそのままに。
大慌てなのは無理もない。
なにせ、彼女がこの病院で生を受けて”10年”。今まで、一度も目を覚ましたことがなかったのだから。
(……なんでだ)
一体、何が起こっているのか。当然のように説明はなく。
仕方がないので、”彼女”は流れに身を任せることにした。
◇
――ねぇ、聞いた? ”特別室の子”が目を覚ましたって。
――うそっ、あの”眠り姫”が?
――生まれてからずっと、この病院で眠ってたんですよね。
特別室で眠る少女、”
軽い、お祭り騒ぎになっていた。
その輝夜の病室では。
「驚いたな」
眼鏡をかけた痩せ型の医師が、彼女の体を検査していた。
医師の年齢は40代半ばほど。若干、くたびれた様子をしている。
医師の隣には、先程の看護婦が立っており。
輝夜の目覚めがよほど珍しいのか。部屋の入口付近からは、何人かの看護師たちが覗いていた。
「昨日までは何もなかったはず。何か切っ掛けが? いや、それにしても――」
医師は輝夜の様子を見ながらブツブツと呟き。
彼女、輝夜はそれをじーっと見つめている。というより、それ以外にやれることがない。
「彼女に、他に変わったことは?」
「いいえ。ふと顔を見たら、目が合ったので」
驚きを隠せない様子で、彼らは輝夜の顔を見る。
「……ずっと眠っていたんだ。きっと、僕達の言葉だって理解できていないはず」
(いーや、できてるよ)
医師に反論したいが、うまく体が動かせない。
必死に動こうとしても、プルプルと震えるばかり。
しかも、ろくに動かないくせに、やたらと疲労感が溜まってくる。
(何でこうなったのか、説明は無いのか?)
医師に対し、必死に目で訴えるも。
「心配いらないよ。これから、ゆっくりと始めていけばいい」
何を勘違いしたのか、慰めながら彼女の頭を撫でてくる。
(あぁ!?)
知らないオッサンに頭を撫でられ。完全に思考が停止してしまう。
何か伝えようにも、体も喉も機能しない。
「龍一に連絡しないと」
(……はぁ)
あまりにも、状況が理解できないので。
輝夜は色々と諦めた。
◆
目が覚めてから、ずっと。
”彼”は自分が事故か何かに遭い、全身麻痺でもしているのかと思っていた。
そこまでの経緯は記憶にないが。体が動かない以上、よほどの事故に遭ったのだろうと。
(……嘘、だろ)
しかし、鏡に映るその姿。
黒髪の幼い少女の顔を見て、様々な思考が弾け飛ぶ。
人形のように大きな瞳。サラサラの黒髪。”10年眠っていたとは思えない”、健康的な白い肌。
異常なほど整った容姿をした、見知らぬ少女。
それが、鏡に映っている。その事実を、簡単には受け止めきれなかった。
(これが、俺?)
ベッドの上で軽く起き上がった状態で、輝夜は鏡を見せられている。
起き上がっていると言っても、自力ではなく。ベッドのそのものが角度を変え、彼女の体を起こしていた。
鏡を持っているのは、初めて彼女と目が合った看護師の女性。
表情の死んでいる輝夜と違い、ニッコリと満面の笑みを浮かべている。
「これが貴女ですよ、輝夜さん」
(……輝夜?)
それが、この少女の名前。
つまりは自分の名前であると、彼女はようやく知ることに。
(確かに、”かぐや”って感じだな)
鏡に映る自分の姿、未だに幼い少女ではあるが。その美しさは、すでに本物である。
まるで、おとぎ話に出てくる”かぐや姫”のように。
だがしかし。これが自分であると言われても、そうですかと納得できるものではない。
一体何をどう間違えたら、見ず知らずの少女になってしまうのか。
それを含めて、看護師の女性に色々と尋ねてみたかったが。
本当に自分の体なのかと疑いたくなるほどに、体が自由に動かない。
(……確か、10年とか言ってたか?)
医師や看護婦の話を、何となく思い返す。
その話が確かなら、非常に長い間寝たきりだったはず。この体の不自由度合いにも、納得することは可能である。
とはいえ、未だに理解不能な事だらけで。
「……はぁ」
上手く力が抜けたのか、輝夜の口からため息が漏れた。
そのため息に、看護婦は衝撃を受ける。
「ため息!? もしかして、言葉が分かるんですか?」
自分の言葉に反応した、そう勘違いしてか。看護師はテンションが上がり。
「わたしの名前は、まどかって言います! まどかです、呼んでみてください!」
自分の名前を呼ばせようと、輝夜に懸命に声をかける。
「さぁ、ほら。まどかですよ!」
顔をぐいっと近づけて、何度も何度も。
しつこく声をかけてくる。
(……こいつ)
こっちは動けないのに。しつこく声をかけてくる看護師に、輝夜はイライラを募らせる。
イライラで、体がプルプルと震え始める。
(だったら、お望み通りに)
彼女の期待に応えるべく。これ以上なく、必死に喉と口を動かし。懸命に声を出そうと奮闘する。
「……く」
「っ!? その調子です!」
その声にすら苛つきながらも。
必死に口を、喉のよく分からない部分を動かし、声を絞り出す。
「――”おまえ、うるさい”」
「えっ」
輝夜からの第一声に、看護師まどかはショックを受け。
膝から、崩れ落ちる。
「……今までずっと、お世話してきたのに」
「ふぅ」
看護師が撃沈し、ようやく静かになり。輝夜は一安心する。
意思の疎通ができて、何よりであった。
看護師が撃沈する中。
コンコンと、扉からノックの音が聞こえてくる。
「ど、どうぞ」
輝夜の言葉のショックが大きいのか、看護師のテンションは低いまま。
扉を開けて、スーツ姿の女性が病室に入ってくる。
黒髪のショートカットに、左目だけが青い女性。
当然ながら、輝夜には見覚えがない。
「あっ、”
「ええ、お久しぶりです」
顔見知りなのか、看護師とスーツの女性が挨拶を交わす。
影沢と呼ばれた女性は、病室に入るやいなや輝夜の顔を見て。
対する輝夜も顔を逸らさず、じっと見つめ合う。
(本当に誰だ?)
ろくに動けないため、無表情のまま輝夜は影沢と目を合わせ続ける。
すると突然。
影沢の瞳から、”大粒の涙”がこぼれ落ちた。
(おいおい)
それには、流石に輝夜も動揺する。
「……この時を、どれほど待ちわびたか」
そう呟きながら、影沢は輝夜に近付いていき。
「輝夜さん」
(っ!?)
ゆっくりと大切に、その体を抱きしめた。
知らない女性に抱擁され、輝夜はひどく困惑する。
(良い匂い。というか、本当に誰だ?)
自分との関係性も、何一つ理解できない。
しかし、そんな彼女の内心などつゆ知らず。
とても大切なものを、何よりも愛するように。影沢は輝夜を優しく抱きしめた。
その熱を、輝夜も感じ取る。
(……くっそ)
状況が掴めないのは変わらず、むしろ悪化しているが。
”泣きながら自分を抱きしめるこの人物”を、無下に扱うことも出来ない。
少なくとも、”冗談半分”で済ませれる状況でないのは確かである。
本気で泣いて、本気で抱きしめて。
この人間を悲しませるのは、流石に胸が痛かった。
◇
たっぷりと抱きしめられた後に、輝夜は解放された。
「すみません、突然で驚きましたよね?」
輝夜と対面できることが、よほど嬉しいのか。未だに、影沢は気持ちが落ち着かない様子。
対する輝夜も、心臓の鼓動が収まらない。
「あっ。言葉はまだ難しいですかね」
「いえ、おそらくは理解していますよ? 先程わたしに対し、うるさいと口にしたので」
「それは、本当ですか?」
「間違いないです」
「……なるほど」
看護師から話を聞き、影沢は改めて輝夜の顔を見る。
「輝夜さん。わたしの名前は、”
(ぐっ)
優しい笑顔で、自己紹介をされ。輝夜は内心後ずさる。
よく知らない相手だが。明らかに自分の関係者で、なおかつ優しそうな彼女を裏切りたくはない。
看護師の時とは打って変わり。
誠意を持って、”喉を稼働させる”。
「……ま、まい」
「ッ、はい! 舞です」
自身の名を呼ばれて、影沢は再び涙を流し。
その流れでも、もう一度輝夜を抱き締めた。
(あー)
2回目の抱擁、影沢の豊満な胸の感触を感じながら。
”こうなる前”だったら最高だったと、輝夜は思う。
男として考えれば、影沢はかなり魅力的な女性であった。
しかし、今の自分の小さな体は、純粋な”愛情”以外を感じていない。
(……かぐや、か)
目を開けて、声を出すだけでも喜ばれる。
自分は一体何者なのか。なぜ、こんな”生まれ変わり”のような状況になっているのか。
それを知るには、まだ少し時間がかかりそうだった。
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