02 It's on me
4
炎天の下。数年を隔て、ふたたび逢えた彼。
だというのに、わたしというちっぽけな個体は忘却の狭間に追いやられていた。
「えと……あの、どこかでお会いしましたっけ?」
それどころか怯えた様子で、他人そのものの態度を取るのだ。救助してあげた元少女が現れたというのに、感謝の一言もないなんて極悪非道な元少年である。
「――高校の時に事故って、その影響で記憶がなくて」
と思った矢先、彼は言い出しにくそうに事情を語ってくれた。かわいそう。
であれば簡単な話だ。わたしと一緒に過ごせば七年前を思い出すに決まっている。というか、それ以外の方法なんてあり得るだろうか? 否、あり得ない。
「高校の知人ですか? 俺を知ってる……?」
あぁ、でも彼と深い関係になるには、ある程度の嘘は必要みたいだ。
親しい間柄で、純潔な設定を加えなくてはいけない。「今は答えられない」とお茶を濁して、あとあと既成事実を作ってしまおう。
「日影に入りません?」
彼に誘われるまま高架下へ移動した時、問題が浮かんできた。
彼の名前が思い出せないのだ。声をかけておいて、わたしが覚えていないのはさすがにマズイだろう。確か、
この大事な導入部分でボロが出るのは避けたい。
「ねえ、日が暮れたらまたおいで。屋台で話せばなにか思い出すかも?」
わたしは咄嗟にミステリアスを醸し、一方的に約束を取りつけて繁華街へ戻るフリをし、帰宅する彼のあとをつけた。うつむきながらも、彼はまっすぐ家に向かってくれた。そこは大きめの邸宅で、門柱には『豊田』の表札がかかっていた。
「そっか、思い出した。トヨタくん……ふふっ」
その名を口にし、脳裏でリブートしたあの時の断片。
彼の上着を脱がそうとした背徳感、それを思いとどまらせた『豊田』の名札、全身を叩きつけてくるような鼓動――!
その日の夜。
わたしはラーメン屋台の常連になりきり、高校の同級生として振る舞った。トヨダとトヨタを間違えたのは痛かったが、言及はされなかった。
詮索されても面倒なので、とりあえず酔わせてしまおうと思った。わたしは半ば強引に酒を薦め、「この出逢いに」と洒落たことを言ってグラスを合わせた。
乾杯のセリフは、『再会』のほうがしっくり来ただろうか? いや、記憶を失っているシティボーイが、よもや細かいことを気にするわけが――
大体わたしは、これから至心を持って彼と接するのだ。彼をものにして、彼のモノになれるならラーメンやビールも、陳腐な嘘も、すべては安い出費である。
わたしの長年の探し物、『トヨダ』という元少年。
「ふふっ、トヨダくん今日は奢ったげる」
5
今年も浮世では、音もなく夏が消費されている。
けれど、わたしの胸の奥では、彼との距離が一歩前進する足音がしていた。靴を履き替え、『大人』になるための足音が。
わたしは屋台での夕飯を終えたあと、別れ際に記憶探索という名のデートを取りつけた。彼の記憶喪失に辟易はしたものの、逆に言えば都合が良いのだ。まず、彼の好みに近づこうと思った。まともな男性が地雷系ファッションを好むとは思えない。男という生き物は、ヤバい女を見分ける能力が高いと聞く。
ここは男ウケの良い、世間で言う『女性っぽい恰好』、『女性らしい恰好』をしたほうが無難だろう。
こういう表現をすると、その界隈から批判が飛んでくる時代だが、古びた表現がひとつ制限されるたびに新しい造語が生まれ、またそれが規制されてゆくだけである。
トヨダくんに近づけるなら、いくらでもフェミニストの着火剤になってやろう。声のデカい奴らは、男性に尽くすどころか、男性と付き合う程度の覚悟もない。わたしとは立っているステージが違いすぎるのだ。
トヨダくん滞在二日目。
一緒に記憶を探そうなんて、青春っぽいことを口走ってみたが、わたしから与えられるものはなかった。だって、彼のことなんてなにも知らないのだから。反面、わたしは発見だらけだった。
午前中、こちらの歩調に合わせて隣を歩いてくれる男性の気遣いを、生まれて初めて知った。
午後になり、繁華街でランチを取った際、パスタをズルズルすすらない男性の品性を、生まれて初めて見た。
日が沈み始め、そろそろ帰宅しようという時、「気をつけて帰ってください」という男性の優しさを、生まれて初めて聞いた。
彼と一緒に居た分だけ、感情が融解してゆくのがわかる。
今までわたしは、
同時にわたしは、是が非でも彼をモノにしたいという気持ちが強まってしまい、心身をも茜に染めながら、
「また、あすも会お?」
岐路につく足より、口を先に動かしていた。
トヨダくん滞在三日目。
わたしは不慣れな早起きに加え、嫌いな料理に四苦八苦していた。今日は町を離れて、観光地の渓谷へ遠出するからだ。だって、『彼のためにお弁当を作って女子力アピール』は、どう考えても必須イベントだろう。
ほとんど機能していない台所をフル稼働させながら思った、
「包丁で指を切る人って、料理とか関係なく不器用なだけだよなあ。あでも、わたしも……わざと手首を切って怪我しよっかな」
故意に怪我をして、絆創膏や包帯を巻くくらいアピれば、頑張ってます感を出せるかもしれない、と。――いや、そもそも料理で手首は切らないが。
わたしは今朝、冴えた頭で努力の方向性が間違っていることに気づいた。彼と一緒に居ると発見ばかりだ。自分さえ知らないわたしを発掘してくれる。やはり彼は、わたしになくてはならない存在だ! 彼も絶対そう思っている!
――思っている、のか? 本当にそうだろうか? こわい。
ドライブ先の渓谷で振る舞った、緑黄色もそこそこ入った手作り弁当。
彼は行儀よく「いただきます」と手を合わせ、瞬く間にランチボックスの中身を平らげてくれた。これだ、これが青春なのだ。遅れてやってきたわたしのトキメキは、今まさにこの軸なのだ。というか『トキメキ』なんて、Z世代が使う言葉ではない。あゝ、昭和生まれのオッサンと触れ合ってきた弊害である。
家路につく頃には、わたしの
早起きに加えて一日の疲労、さらに国道の渋滞にハマっているのだから、助手席で寝落ちするのも秒読み段階だった。
十年来の付き合いのように心身を許しながら、彼と過ごした数日間が
それどころか、
「実は俺、もう思い出せなくても良いかなって思ってるんです。――こうして新しい思い出が作られてるから」
彼の心は、現在のわたしにあるみたい。
寝ぼけ眼では、とても彼のアタックを受け止めきれなかった。わたしは意識を強引に覚醒させ、本性を晒すかのように、スマホで最寄のホテルを検索すると、それを車内のホルダーにセットした。
それに対する彼の返答も、また明確だった。
一室。
準備が整ったふたりには、儀式に不必要な隔たりが、互いの手によって取っ払われていた。
今から行うのは七年前のわたしの最適解――『彼を受け入れるための包容』ではなく、現在のふたりの最適解――『一糸まとわぬ姿で受け止める抱擁』である。
この床上にはなにもなかった。
彼にそんな気がなくとも、トヨダくんの言いなりになるのが――わたしにとってはまともな感性で、あまりにも嬉しい現実だった。
今までわたしには失うモノなんてなく、完全に無敵だった。けれど今は違う。彼と一緒に居られることが無敵になった証拠なのだ。
恐怖はもうない。だって彼は、わたしを絶対に受け入れてくれる。七年前のわたしが誰かなんて、この瞬間に問題ではなくなったのだ!
――あゝ、チンパンジー。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます